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ドン.キホーテはなぜ「ジャングル」を歌うのか?

1、
思い立ったらいつだって ドン.キホーテで待ち合わせ
ドッカンとあふれる夢を買いましょ 気分は宝探しだね
ドンドンドンドンッキードンキーホーテー ボリューム満点激安ジャングル
(ジャングルだぁ~)
ドンドンドン♪ドンッキ~♪ドンキ~ホーテ~♪ 何でも揃って便利なお店
ドン.キホーテ~♪
早い者勝ちパラダイス ドンキめぐりは癖になる
衝動的でも得したね 今夜は何があるのかな?
ドンドンドン♪ドンッキ~♪ドンキ~ホーテ~♪ いつでも満足不思議なジャングル
(ジャングルだぁ~)
ドンドンドン♪ドンッキ~♪ドンキ~ホーテ~♪ 真夜中過ぎても楽しいお店
ドン.キホーテ~♪
<セリフ>
女:ねえ、どこ行くの?
男:ドン.キホーテだよぉー
女:やっぱりー?
(続く)

これはディスカウントストア「ドン.キホーテ」(以後、「ドンキ」)のテーマソング、『ミラクルショッピング』の歌詞である。ドンキの店内で繰り返し流されているので、耳にしたことがある人も多いだろう。サビで嫌になるほど繰り返される店名のインパクトに押されて、(実際それが耳に残れば良いわけだが)その他の部分に目が行かないのだが、差し当たってこの歌詞においていくつかの特徴的な言葉を抜き出すことが出来る。
それが「宝探し」であり、そして「ジャングル」である。
そもそも目的の品物を買うための機能を果たすべきスーパーが、「宝探し」であり、そして店内が「ジャングル」のように複雑であることは僕たち消費者にとっても、スーパー側にとっても望ましいことではないはずである。
なぜドンキはテーマソングで「宝探し」をする「ジャングル」を歌うのか?
本論考ではこのあまりに些末な問いを間口にして、ドン.キホーテのみならず建築、そして都市について思考を広げていく。

2、
「ジャングル」と形容される店、ドンキ。なぜそれは「ジャングル」なのか?
表面的なレヴェルで言えば、それはその店舗の複雑さにある。下の図を参照してほしい。
店舗の形が極めて複雑に入り組んでいるのである。この複雑さは実際に店舗の中に入っ
たときにより鮮明になるであろう。目的の品があっても、一歩店の中に入るとどちらの方向に進めばよいのか分からなくなる。


(図1:ドンキのフロアマップ)

比較として下に、他のスーパーのフロアマップも掲載しているが、この図との違いは明瞭である。この図では、XとYのグラフのように、目的の品が座標軸で表せる。例えば調味料が欲しければ、A-5のポイントに進めばよい、という風に。


(図2:コストコのフロアマップ)

座標として品物が表せるためには、商品がきれいに整理されて並んでいることが必須である。極端な例としては、日本ではそこまで巨大な棚は見ることが稀ではあるものの、「コストコ」が倉庫の中に展開している店舗はまさに立体的な座標である。各商品は丁寧に整理され目的の商品まで極めて合理的に、最短距離で進むことが出来る。


(図3:コストコの店舗。整然と商品が並ぶ)

ではドンキはと言えば、全くこれと正反対の空間構造をしている。
ドンキの商品配列は、「圧縮陳列」という独特の手法が採られており、一つの棚にできる限り多くの商品を詰め込むようにできている。そのために各棚からは商品が飛び出していたり、はたまた通路となるような場所に段ボールが置かれて、その上に更なる商品が並べられていたりなど決して座標では特定の商品の位置が表せない。
(図4:圧縮陳列の一例。棚の下から上まで商品が敷き詰められ、棚の間にさえ商品がぶら下がっている)

そして先ほどのドンキのフロアマップでも確認したように、店内は入り組んでおり、商品が至る所にある。そのために目的の商品に至るまで店内の至る所をぐるぐると回ったりと、客にとっては極めて不合理な導線になる。さらにはドンキは実際に「回遊型」と呼ばれる店舗構造の仕組みを採用している。
これがドンキの「ジャングル」性、及び「宝探し」性を誘発する。迷路のような店内はまさに道のモノで溢れたジャングルであり、その中で客は目的の品、という「宝物」を探す旅に誘われる。
さらに重要なのは客にとっての「宝」が当初から予定されていた品物に限らないという点だ。テーマソングの歌詞を思い出してみよう。

            衝動的でも得したね 今夜は何があるのかな?

ここでは「衝動買い」、つまり予期せぬ品物の購入が歌われている。つまり「宝探し」の途上において全く別の「宝」を見つける場合もあるのだ。コストコ型のように合理的で直線的なスーパーとは違い、店内を周遊させるようになっている構造が目的以外の品物も目に触れさせるようになっている。
「ジャングル」のような店内。それはただ単に客を楽しませるだけに用意されたドンキの粋な心遣いではない。このような予期せぬ偶然の「宝物」との出会いはつまり店側の利益を増やすことになる。また「圧縮陳列」という手法もまた狭い店舗内により多くの商品を置き、単位面積当たりの売り上げを最大限にしようという工夫である。
つまり、この「ジャングル」における「宝探し」は店側がその利益を最大限にするという目的のもとで自然と形成された構造なのである。
『都市はツリーではない』の中でアレグザンダーは自然発生的に誕生した「セミ・ラティス構造」を持つ都市と、人工都市に多く見られる「ツリー構造」を持つ都市を分けた。自然都市、つまり「建ってしまった」都市としての「セミ・ラティス」都市はその都市の中に複雑なネットワークを孕んでいる。
アレグザンダーの言を借りると、例えば交通信号と、ドラッグストア、ニューズラック(新聞を入れる箱)が同じ区画にあった場合、それら3つの要素は固定的であるが、これら3つの要素は人間がその中に介入してくることによって、それぞれ別途の自律的な要素から、関係を持つものへと変化する。
例えば、ニューズラックはドラッグストアの店頭に置かれているということでドラッグストアと関係を持っているが、人間が信号を待っているときにそのニューズラックに目が留まり、最終的にドラッグストアに入るという方法で、ドラッグストアと関係を持つというが可能になる。更に言えば、この場合交通信号とドラッグストアも関係を持ったことになる。
「セミ・ラティス」型の都市ではこのように全く関係を持つことのなかった事物同士が別の事物を媒介として複雑に結びつき、一つの都市が出来上がっている。要素が20個あればそこからは100万通り以上の結びつきが生まれるのである。
ここで重要なのは「セミ・ラティス」の構造をドンキについての議論に定位させることである。
「セミ・ラティス」の構造が出来上がるためには、何が必要だろうか。それは前掲の具体例をもう一度考えてみればよい。
それは「余剰」である。
つまり、ドラッグストアがニューズラックという本来必要のない機能を持っていること、もしくは交通の場所に、ドラッグストアという商業施設があることそのものである。
ここで「セミ・ラティス」に対比させられる「人工都市」の例を取ってみると、「人工都市」とは「各々の要素が互いに完全に一致するか、完全に無関係な場合」であるとアレグザンダーは定義している。例えば、ドラッグストアと、交通信号は全く無関係なものとして存在していなければならないし(もしくは「待つ」という時間の無駄=余剰をなくすために交通信号自体がなくされていく)、ドラッグストアにはニューズラックのように、医薬品に関係しないものは置かれてはならない。
つまり「人工都市」は都市における「余剰」を徹底的にそぎ落し、ある1つの目的を達成するために最適化された構造を作るのだ。こうした構造は「計画」という名の下で意識的に遂行される。
逆にドンキではこれでもかというほどの「余剰」がその店舗を覆っている。
ドンキはその店内装飾だけでも過剰といえるほどの様相を呈している。例えば名物ともいえる、商品に付けられた大型ポップ。ここには独特のカラフルな字体で、商品に関するセンセーショナルな宣伝文句が書き連ねられている。
もしくは様々な店舗で見られる意味不明ともいえる店内装飾。水道橋店では、店内中央に西洋の宮殿を思わせるキッチュな階段があるが、その階段には鍵盤が書いてあり、その上を歩くと四方に付けられたスピーカーから音が発せられる。
先の議論に引き付けるならば、「周遊型」の店舗で商品という「宝物」との偶然の出会いを誘発するドンキの構造は「セミ・ラティス」、商品を座標上の点であるかのように扱い、目的の商品まで一直線に向かわせるコストコのような大型スーパーの構造は「ツリー」だと言えるだろう。
ドンキが「セミ・ラティス」的であることから生じる幾多の「余剰」は一体ドンキを考えるときにどのようなものをもたらしてくれるのだろうか。しかしこの問いを解決すためには大きな回り道を必要とする。今、その問いは一端脇に置いて、『ミラクルショッピング』を軸にしながら論を進めていこう。

3、
さて歌詞の中には「なんでも揃う便利なお店」とある。歌詞の通り、ドンキには何でもある。しかし昨今の大型スーパーは、食料品に始まり、生活雑貨、そして家電と多種多様なものを揃えている場合も珍しくない。そのような中でドンキが「なんでも揃う」と豪語して歌うのはなぜか。
それはその歌詞の後にある部分、「真夜中過ぎても楽しいお店」という歌詞と密接な関係を持っている。
この部分もいささか不可解ではある。というのも通常考えるならば、「真夜中過ぎても楽しい」という言葉はその店舗の多くが深夜営業を行っていることのアピールである。もちろんこうした営業時間の長さはドンキの強みでもあるだろうが、深夜営業を行うスーパーは増えているし、またアマゾンなどを使えばすぐに商品が届く時代である。わざわざ取り立てて歌詞として歌うというほどの利点ではない。
実はこの部分、「真夜中過ぎ」には性的なニュアンスが含まれるのではないか。
事実、ドンキの店舗はその多くでアダルトグッズを扱っているのである。アダルトグッズまでをもカヴァーして取り扱うスーパーというのは他に例を見ない。通常アダルトグッズを取り扱う店は、一軒まるまるアダルトグッズのための店舗となっており、通常のスーパーとは場所が隔離されるのだが、ドンキではそれが同居している。
その混沌さは例えば2017年に開店した「MEGAドンキ 渋谷店」に顕著に表れている。
「MEGAドンキ 渋谷店」は、もともとあったドンキの渋谷店をリニューアルして出来た新しい店舗で1階から6階までの広い売り場に多種多様な商品が陳列されている。この店舗は渋谷という町の特性を生かして若者向けの商品が多かった従来の店舗に比べ、ファミリー層がメインターゲットにされた。にもかかわらず、この店舗には秋葉原店に続く巨大な「TENGA」の特設コーナーを擁している。「TENGA」とは男性用のアダルトグッズであるが、ファミリー向けが標榜された店舗であってさえ、そこに全くファミリー向けとは思えない「TENGA」のコーナーがあるのだ。

(図5:『MEGAドンキ 渋谷店』にあるTENGAコーナー。他の一般的な商品に囲まれ、突如として存在する。)

こうした品ぞろえの面において更に特徴的なのは、そのおかれる商品の決定が各店舗の店長に任されているということだ。各店長たちはその地域の実情に合わせながら、その店舗に置く商品を決める。「地域密着型」を掲げるドンキはそのために、住宅街の近くにある店舗でお惣菜を多く扱ったりと各地域で特徴のある店舗が出来るのだ。
これは何を意味するか。
ドンキはつまりその名前だけが、ドンキの店舗として保障されているのであり、そこから置かれる店舗によって、地域のニーズに合わせたそれぞれのドンキが出来上がる。地域の実情に合わせた不定性を持つスーパー、それがドンキの特徴であると言えるだろう。
しかしこうした特徴が逆に、ドンキがそのテーマソングで歌うような「ジャングル」性を持たない店舗を生み出させるということにもまた留意すべきだ。例えば先ほども例として挙げた「MEGAドンキ 渋谷店」の地下一階は極めて一般的な食料品スーパーのようになっているのだ。この構造であっても、渋谷店の設計時に、周辺住民も使えるようなスーパーにする、という方針があったためである。
(図6:「MEGAドンキ渋谷店」の地下一階。ごく一般的な食料品スーパー)

ではそのように逆に「ジャングル」性を持たない店舗も出現する中で、「ジャングル」や「宝探し」はどのような意味を持ちうるのだろうか。

4、
建築家である隈研吾は「新TOKYOムラ論」の中で、地域にある特徴的な街の風景を破壊していく、非難すべきチェーン店の形容として「ドン.キホーテ的」と何気なく口走っているが、このようなドン.キホーテの特徴をまとめてみた今、こうした批判は一部、的を得ていないことが分かるだろう。
もちろん、的を得ていない部分は前章で確認したように、ドンキが店舗ごとに商品を変えるという「不定性」を持つという部分だ。これは例えば、他のチェーン展開をするスーパーがほぼ同一な店舗を増殖させているのとは対照的である。
ドンキの経営戦略は、他の郊外型チェーン店のように、均一なものを突然国道沿いにどかんと建てる、というものでない。性的商品までくまなく陳列されたその多様な商品は地域ごとによって調整され、その店舗独特な様相を作り出していく。
さらに重要なのはこうした構造は先ほども語った通り、消費者のニーズ、そして店側の利益を最大にするという目的から自然に生み出されたのである。
とはいえ確かに中身の面で見れば、他のスーパーと一線を画すことが出来るかもしれないが、では外装はどうだろうか。

                  (図7:ドンキの外装)

確かにドンキはこの図6のような外装を持つ場合がほとんどである。黄色く、大きな字で看板が作られてあり、たいていの場合イメージキャラクターである「ドンペン」のオブジェが飾られている。
このような均一な外装はまた見ようによっては俗悪であり、ドンキ批判をする人間がしばしば指摘するポイントでもあった。しかし一方で、こうした外装さえ変容させる店舗が登場してきたということもまた指摘しておくべきなのである。それが「ドン.キホーテ 浅草店」である。

                (図8:ドン.キホーテ 浅草店)

この店舗は浅草6区の真ん中に位置している。かつての盛り場の景観に合わせるような形で、あの黄色い看板は無く、代わりに赤いネオンを模した看板が付けられている。これはこの近隣住民の意向によるもので、近隣住民との話し合いの結果、最も双方が合意できる形に外装が落ち着いたのである。機能性ないし目的性の追求が建物の中身や、概観を決定するという事態は、例えば建築史的な観点からみても特異な事態である。
このように不特定多数の人間の選択が現実の都市空間を変化させていくという議論は森川嘉一郎の『趣都の誕生』でも描かれている。ここでは秋葉原を例に、「オタク趣味」が秋葉原の都市風景をどのように変化させたかが描かれているが、最終的に森川はこうした趣味によって誕生した風景を、「ファスト風土化」から守るべきであるという立場を取っている。
では、森川が主張したように人々の選択によって自然発生的に生まれた空間として私たちはドンキをもまた意図的に保護する、もしくは称揚する必要があるのだろうか?
この問いは様々な意味で複雑な問題を孕んでいる。
第一に、「ファスト風土化」というものを推し進める郊外型スーパーの中に紛れもなく「ドンキ」がリストアップされていること(前述の隈研吾が揶揄的に「ドン.キホーテ的」と使っていたという例を思い出してみよう)。
第二にこうした「ファスト風土化」問題にどのような態度を取ろうとも、都市風景や空間構造は人々が暮らしやすいように変化していくという現実的な認識がこの問いには圧倒的に欠けているということ。多くの論者がこうした問題に対して、賛成及び反対の意見を述べ、具体的な再開発の事例をもとに意見を戦わせている。しかしドンキの事例はそうした問題を悠々と、半ば無意識的に乗り越えている。
ドンキは不定性を持つ観念としてある(経営理念と言っても良いだろう)。それを何かの力が、実際の場所に形として出現させる(ドンキの場合の力は、資本などだろう)。不定性を持つ観念が形になるとき、その各々の場合に、近隣住民のニーズや、店長の判断など個別的な事例がその都度立ち上がる。そうした営みから、ドン.キホーテという特異な店舗が出現する。
だからドン.キホーテを問題にするとき、もはやそれがチェーン店であるということは問題にならないのだ。チェーン店、と一口に言っても均一なものを場所に関係なく建てていくタイプのハード面におけるチェーン店とドンキは違う。ドンキのようにソフトとしての経営理念だけ(しかもそれは不定性を主とするものだ)が均一で、それを具体的に建造した時に全く異なるものが出来るというのがドンキにおけるチェーンの意味だ。
このドンキが持つ「ソフトのチェーン化」は意外にも豊かに展開している。例えばそれは前述したように浅草6区の中にある浅草店がその外装を周りの歴史的景観に合わせて変化させるということや、大久保にある店は周りのコリアンタウンに合わせて、ハングルの看板があったりなど、近隣住民だけでなく、その土地の歴史に合わせた店舗展開が成されているのだ(浅草6区のマクドナルドや、新大久保のコンビニは、ハードなチェーンである)。
つまりチェーン店舗が都市を均一化させ、つまらないものにしている、という批判はソフトのチェーン化を進める企業の前では全く意味を成さない批判なのである。
そのような点で森川が「ファスト風土化」に反対して秋葉原の都市風景を称揚したのは、半分理にかなっていて、半分誤っている。つまり「ファスト風土」の「ファスト」を2つに分ける必要がある。何度も繰り返すように、ハードな「チェーン」とソフトな「チェーン」という2つである。
「オタク趣味」という不可視の趣味嗜好が、様々な要因によって秋葉原という土地に、建築、都市という形で出現したことと、「ソフトなチェーン」という不可視の観念が「ドン.キホーテ」の資本によって様々な形を持つ各店舗になっていくことはほぼ同一の事態なのである。
ここで重要なのは不可視の観念(森川で言えば趣味嗜好)が何らかの力で、具現化するという構図である。この構図こそ重要なのであって、既に進んでいる再開発に賛成・反対をしたり、半ば回顧主義的に昔の風景を愛おしむことはいささかも重要ではない。

5、
ドンキの話をしながら、その企業に横たわる「ソフトなチェーン」という概念を取り出した。そしてそこから森川の議論を参照しつつ、「不可視の観念が何らかの力によって具現化する」という構図を取り出した。
この構図について考えなければならないのは、「何らかの力」についてである。
前章においてはこの力を曖昧なままにしたが、もしこの構図を徹底的に考えるならば、この力が一体どのような力なのかを考える作業が必要だ。
ドンキの例で言えば、それはまず第1に事業者(株式会社ドン.キホーテ)の利益追求力である。儲けたい、という当然の欲望があらゆる場所にドンキを建てさせる。しかしこの第1の力だけでは不十分である。つまり商売には売り手がいれば、当然買い手がいる。買い手が満足できるような商店でなければ、事業者は第1の目的を果たすことが出来ない。だから第2の力として買い手が抱く、便利に安く買いたい、という欲望がある。この第2の力以外にも、例えば土地性など様々な要因が力として働いている。
こうした力の合成物として各ドン.キホーテは成り立っている。
そしてこうした力のバランスが崩れた時に、各店舗は潰れ、住民との間で訴訟問題が起こるのである。事実まだ郊外に店舗が多かった時代には、店舗前に止められた車の影響で回りの道路が渋滞になるという事態があり、これを改善するために深夜の営業時間を減らすという措置もとられていた。
隈研吾が「反オブジェクト」と呼んで、「オブジェクト」を否定しようとしたのは、彼の建築がモダニズム建築からポストモダニズム建築へと移り変わっていったのに対し、そうした建築が結局はその土地の自然や歴史に関わりなく建てられていったことに対する反対から始まっている。「反オブジェクト」という建築の中で隈はその建築物を建てる場所の自然と対話したうえで、自然がその建築の形を決めるのだとした。
隈はドンキを景観の破壊者として糾弾したが、皮肉なことにその隈の建築と、ドンキの経営戦略は驚くほど似ている。何かをそこに建てるときに徹底してその土地の自然や歴史と向き合い、それらの力との拮抗の中から建物の特徴が決定される。つまり、力になるのは企業や顧客、近隣住民と言った人間だけではない、その「場所」、「土地の歴史」といった要素までが含まれるのだ。
ドンキが立ち上がる時、そこには複数の力の拮抗が発生する。その力同士の対話からドンキという特異な店舗が生まれる。
ドンキが自然に「セミ・ラティス」としての特異な店舗を作り出したという事態に類似する現象を僕たちは知っている。それは東浩紀が『一般意思2.0』で取り出したような、ネット上での現象である。
グーグルや、ニコニコ動画など不特定多数の人間が使用するサイトに蓄積された意見が、ビックデータとなって集積し、それが「声なき人々」の一般意思になるという話だ。
ここでは不特定多数の人々のネット上における選択や、書き込みが自然にこうしたネットの環境を作り出すのである。
こうした自然都市の形成にも似たネット環境は、確かにドンキの空間構造と類似している。しかし僕たちが注目しなくてはならないのはその類似点ではなく、差異の方だ。というのも類似点を指摘しただけでは今僕たちが考えたいドンキの特異性について十分な考察だとは言えなくなるからだ。
ネット環境と、ドンキの差異は、明確である。それがバーチャルなものであるか、リアルなものであるか、という違いだ。つまりドンキにおいては不特定多数の人々の選択(より安いものを、より多くの商品を)が現実の空間構造を変えているのである。
そして更にドンキを特異なものにしているのは、そうした人々の選択が、均一で合理的なコストコ型のスーパーではなく、複雑でジャングルのようなドンキ型の空間構造に結実したことである。事実として2017年現在、コストコ型の代表的スーパーともいえるイオングループの純粋利益率は下がり続けているのに対し、ドン.キホーテグループの純粋利益率は増加を続けている。
建築の話においてこうした「自然」であること、もしくは意図せずそうなった、ということ自体をどうとらえるのか、について建築史家の中谷礼仁は『国学・明治・建築家』の中で興味深い考察を述べている。
曰く、本居宣長が大成した国学では、「日本的なるもの」の特徴として「自然」が挙げられた。この「自然」は現実の自然ではなく、語義に忠実に「ありのまま」を示している。つまり「何もしない、空白」であるということだ。例えば作為性を持たない、ということで言えば山水画などはその好例である。しかしそうした「空白」としての文化は逆に、その中にどのようなものでも取り込める、ということの裏返しである。例えば平田篤胤は本居宣長を師と仰ぎながらも、その幅広い知識でその空白を、儒教や仏教、キリスト教、果ては論理学、自然科学までをも折衷させた形で緻密に埋め込んでいった。
そしてそれが建築という分野で発生した場合、明治維新後の疑洋風建築やその他西洋建築のあらゆる様式の無批判な受容が巻き起こる。そしてそうしたカオスともいえる建築を戦後に突き詰めていったのが丹下健三という天才であった(例えば、東京都庁舎の、ノートルダム大聖堂に似た作り、そしてその下に広がるイタリア風の広場を思い出せばよい)。
ここで重要なのが、空白地帯に様々な事物を取り込んでいく現象が、例えば篤胤であり、丹下健三であるというような一人の極めて、博学かつ天才的な人間によって構築の意志を持って推し進められたということである。
この議論をドンキについて定位するとどうなるだろうか。もしくはこうした天才たちとドンキとの差異である。
それは企業側、住民側、そして場所そのものの対話の結果として、自然とあのカオスな空間が生まれたということだ。つまり一人の人間の構築の意志によってではなく、大多数の人間の自然な選択の結果として、あの複雑な空間が生み出されたのだ。そしてそこにはさまざまな雑多なものが入り込む。そこにはほとんど利益とは関係ないかとすら思えるポップ、そして過剰な店内・外装飾が施されるのだ。こうした「余剰」がドンキの店内に入り込み、そして複雑な店舗構造を作り出すのだ。これが、さきほど「セミ・ラティス」と「ドンキの余剰」について提起した問題に対する回答でもある。

6、
そのような構図を確認した今、議論を更に先に進めるためにここでドンキとは更に縁が遠いかと思われる現代哲学のある用語を補助線として取り入れながらドンキについて考えてみたい。
補助線とはエリー・ドゥーリングの「プロトタイプ」論である。
ドゥーリングが哲学者の清水高志と建築家の柄沢祐輔を交えて行った鼎談で、柄沢はこの「プロトタイプ」の思想について簡潔にまとめている。

 「プロトタイプ」とは有限の作品の中に複雑なネットワークが埋め込まれ、そのネットワークの複雑さはオブジェクトの外部に対して、さまざまな角度からの視点の存在を喚起する。その視点の多様さは無限といってもいいでしょう。作品は単体でありながらも、そこには無限の可能性が内包されているし、そこから無限の可能性が派生することになる。あたかも一つの空間が、一つの空間でもあるにもかかわらず、そこから空間が多様に枝分かれしながら無限のネットワークが発生していくような空間のイメージをドゥーリングさんの「プロトタイプ」論は提示しているということですね

ここまでの議論の流れで分かると思うのだが、今、僕が語っている「ドン.キホーテ」とはまさに「一つの空間の中に無限の可能性が内包されている」という意味で「プロトタイプ」的である。それはまた、「複雑なネットワーク」が織り込まれているという点で「セミ・ラティス」的であるともいえよう。しかし「セミ・ラティス」の議論と「プロトタイプ」の議論で注目すべきは「制作」に関する捉え方である。
前掲の鼎談においてドゥーリングははっきりと「制作をして、1つのオブジェクト(この場合のオブジェクトは隈の言う「オブジェクト」と異なることに留意されたい。ドゥーリングのオブジェクトとは単純に「作品」を指し示している)を作ることが大事である」と述べているのに対し、「セミ・ラティス」は自然都市に見られる構造である。もちろん自然都市と言っても、都市は既にして人工的なものである。しかしやはりそうした自然都市には確固とした設計プランナーがいない。
それに対すると美術作品や、人工都市は確かに「制作」の面が強い。
更に言えば、ドゥーリングが目指す「プロトタイプ」とは制作と実践の間に位置しているものでもある。つまりあるプロジェクト(ドンキでいえば経営理念)があるとして、それをその都度、目に見える形として制作すること(ドンキでいえば、店舗の物理的構築)でプロジェクトを一時的に中断する。この時、重要なのはプロジェクトをプロトタイプとして制作する場合に、それがプロジェクトの目指す理想を実現しなくとも、つまり失敗したとしてもそれさえ作品の一部になるのだ。
プロトタイプ、は様々な構成要素によって成り立つ。ドゥーリングがアート作品を例にしてあげているのは、もちろん制作者もそうであれば、鑑賞者、キュレーター、批評家、そして人物でなくとも展示スペース、制作場所など、そのプロトタイプに関わる全ての事物が構成要素となる。
そしてドンキもまた今まで見てきたように、企業、客、近隣住民、そして土地などの構成要素における欲望の合成物として成立しているのである。
では、ドンキをプロトタイプとして考えた場合、どのような問いが立てられるのだろうか。ただそれらの類似を指摘しただけでは、わざわざ「プロトタイプ」の議論を導入する必要
はない。
ここで導く問いは、ドゥーリング自身もその哲学において問題としている次のような問
題だ。

              私の主な哲学的関心は、多様性と同時性とのあいだにある関係です
(前掲の柄沢×清水×ドゥーリング対談より)

 これこそ、ドンキを考える上で僕自身も新しい問いとして提出すべき問題である。
つまり「プロトタイプ」は潜在的にほとんど無限ともいえる視点の可能性を内包しているがゆえに個々人によって全く異なる事物に対する観点を提供する。ドンキの話で言えばドンキが極めて多様な商品を扱っているがゆえに、「~にとってのドンキ」という各人によるばらばらのドンキ観がそこに表出する。ある人にとっては単純なスーパーとして、ある人にとっては激安家電を売っている店として、ある人にとってはアダルトグッズをこっそり買いに行く店として……
では、そうしたばらばらのドンキ観が同時に存在する中で、人はただ自らの好みにのみ応じて他人に関係なく自らの欲望を満たし続けるべきか?
これはドンキだけの問題ではない。東浩紀が「二層構造」と指摘したように現代社会は、欲望と倫理の分裂に悩まされている。ドンキはまさにこうした個々人の欲望を叶えてくれる場所として存在する。それ自体は決して悪いことではないし、むしろ人間である時点で仕方のないことだ。しかし、一方で倫理というものもある。つまり企業や個人が自らの利益に走りすぎると、当然のことながら他者を傷つける。自らの利益を追求したいという欲望も仕方のないことだが、共存しなければならない他者がいることもまた仕方のない事実なのである。
欲望を、多様性に、そして倫理をすべての人間が守るべき同時性に置き換えると、僕がドンキに対して問うべき問題の輪郭が露になる。
つまり、ドンキがそこに孕む多様性の中には同時的なものを発見することが出来るのか、という問いだ。そしてこの問いはドンキがある程度企業として幾多の問題を乗り越えながら現段階では成功を収めているということから有効な問いである。商品の多様性、用途の多様性を最大限に確保しながら、企業としてはほぼ破綻なく経営が進んでいるのはなぜなのだろうか、そうした問いであるともいえよう。7、
プロトタイプの議論を導入したことで、ドンキについて考えることが現代哲学の関心ともリンクする視点を孕んでいることが理解できた。そしてさらにはそこからドンキについての新しい問いをも抽出した。
本章では前章のこの問いをもう一度ドンキの現場レヴェルにまで立ち返って考えていくことにしよう。
なぜドンキは多様性を確保したまま、倫理的に破綻することなく成長を続けているのか?、という問いである。
もう一度、ドンキがどのような経営戦略を取っていたのか、確認してみよう。
それは店長に各店舗で置く商品の選定などを一任し、その地域でもっともフィットする店舗を作り上げるという「地域密着型」を徹底させた店舗づくりである。もしくは商品というソフトなものでなく、店舗の外装なども、例えば浅草店では周りの景観に合わせた店舗の外装にするといった地域住民との対話の結果が店舗構造を変化させる。
こうしたドンキの経営戦略はすでに本論考の初めで確認してきたことの繰り返しで改めて見るまでもないが、ではなぜこうした「地域密着型」の経営が欲望と倫理を共存させ得るのか。
「地域密着型」と呼ばれる店舗は何もドンキが初めてではない。むしろ昔から地元の商店街にあるような、チェーン店ではないスーパーなどはどれも「地域密着型」である。もしも僕がドンキについてそれが「地域密着型」を極めた末に売り上げを伸ばしているのだと仮定するのなら、それ以上に「地域密着」を進める地域スーパーの方が盛況を呈するはずだ。しかし現実はそうなっていない。チェーン店の勢いに押され、各地でこうしたスーパーは閉店に追い込まれ、その跡地にはコンビニや、チェーンのスーパーが立ち並ぶ。
こう考えた時、ドンキは微妙な立ち位置にあるスーパーだと言えよう。有り体に言えば、大型チェーンと地域スーパーの中間に位置しているスーパーとでも形容できそうなのだ。
ここまでの論考では、どちらかと言えば、大型チェーンとドンキの差異について深く考察してきたが、次は地域スーパーとドンキの違いを見極めてみると、その微妙な立ち位置の相貌がはっきりとするのではないか。
ここで補助線を一本。
それは「マイルドヤンキー」という言葉だ。2014年に経済アナリストの原田陽平が作り出したある人間のタイプに関する言葉だが、この中には「地元志向」が強く、「仲間、絆、家族」という言葉が好きで、「郊外」に住み、「車」を好んで利用する……といった特徴を持つ人間が含まれる。
そしてこのマイルドヤンキーのもう1つの大きな特徴として「ショッピングモール」を極めて高頻度で利用する、という特徴がある。彼らの行動範囲は「地元」を中心に動いており、他人と差異化を図るためのブランド品などは全く必要としない。そのために均一な商品が置いてあるショッピングモールで生活必需品を全てそろえることが出来るのだ。
そしてそうしたマイルドヤンキーたちが好んで使う店の一つが、「ドン.キホーテ」であり、そもそもドンキは出店を拡大し始めた当初から郊外の店舗に力を入れていた。地元密着型のマイルドヤンキー達とドンキの関係を考えると、ドンキの立ち位置ははっきりするだろうか。
ドンキが現在の業務形態で出店を始めたのは1989年のこと。平成元年である。ちょうどバブル景気の真只中でドンキは1号店をスタートする。社会学的な観点で言えば、この時期は1995年というメルクマール的な年号に向かって日本のポストモダン的状況が進行している時期でもあった。ポストモダン社会とは近代社会のあらゆるシステムが崩壊していくような社会のことだ。近代社会においては、個々人が生きる意味を保証してくれる宗教や、国家、そして歴史といったあらゆる虚構のシステムが機能していた。しかしポストモダン社会ではそれらはことごとく崩壊しもはや人々もそのような言葉は何も信じていない。
「ファスト風土化」という言葉もまた強くポストモダン的状況を反映した言葉である。地元の歴史に基づいた商店街や、地域スーパーが無くなり、そこには「歴史」とか「土地」に関係なく全国で均一なチェーン店が広がっている。。
しかしながらそうした状況を鑑みた時、ドンキというのはやはりポストモダン社会にあって特殊な位置を占めている。つまりこれまで何度も確認してきたように、ドンキはその不定性を持って、むしろその土地のニーズや歴史を反映させているからである。そしてマイルドヤンキー達の行動様式である。彼らはポストモダン社会にあって、もう無効であるような「地元」という言葉に拘る。そして「ドンキ」を好んで利用する。
だとすればこうは言えまいか。
「ドンキ」とはある種の疑似的な家族を――もちろんそれは疑似的な家族に過ぎないが――を作り出しているのではないか。つまりそれは「歴史なき土地」である郊外にあってむしろこうしたマイルドヤンキーと呼ばれる人間たちに疑似的に地元のようなものを作り出しているのではないか。
もちろんドンキは地域スーパーのように歴史を持たない。その意味では郊外型チェーンの最たる例である。しかし一方で完全に「土地」から疎外された、無歴史的なチェーンでもない。それは郊外という土地にありながら、それぞれの土地の住民のニーズに合わせて変化する。そこでは各地域に住んでいる人間のニーズが店舗構造を変え、完全なる均一な店舗では有り得ない。
こうした疑似的な故郷を作り出す装置としてのドンキについて、それと同型の構造を僕たちは先行研究の中に発見することが出来る。それは吉見俊哉が『都市のドラマトゥルギー』で語る1920年代における浅草という都市であり、1960年代における新宿という都市である。
これらの都市の特徴は何か。
吉見は新宿について、「「蒼ざめた野次馬集団」の巨大な集塊がたむろし、混在し、互いに交錯しあいながらそのエネルギーを無秩序に乱反射させていく不確定の空間をかたちづくっていた」と書き、そこには「グリーンハウスや風月堂を根城とするフーテン、蠍座やピットイン、それに花園神社境内内等で講演を続けるアングラ演劇やハプニング、該当の各所で集会を組織したりカンパを叫ぶ学生、西口のフォークゲリラ、町を彷徨する若者たち、三光町界隈の娼婦や浮浪者等々」がいたと語る。そして浅草、新宿的なるものの特徴について次の4つを列挙するのだ。
1、強烈な消化能力
2、先取り的性格
3、変幻自在さ
4、共同性の交感
この4つは相互に強い関係性を持っている。「ドンキ」という目に見えず、不確定な理念は強烈な消化作用でそれぞれの地域にフィットするように形を変え、それゆえ最初からその店舗は確定的なものではありえず、常にそれが書き換えられる可能性を保持している。また、そうした形をするりと変えるさまは変幻自在である。そしてそうした変幻自在さのゆえんとして共同性の交感、つまり都市で言えば都市のプランナーと、都市に生きる者の身体的対話が、その都市の在り方を変えていくという現象がある。
まさにこの共同性の交感とは、ドンキにおいて企業側と客側の対話が、それぞれのドンキを生み出していくというプロセスに対応している。
そして何より重要なのは新宿、浅草的な盛り場において重要な契機となっていたのが「死」という単語であったことだ。浅草や新宿といった盛り場では売春など性風俗もまた盛んであった。そうした生――死が循環する場所として、もしくは身体の交わりの場所としてこれらの盛り場は捉えられる。事実、前述した1から4の特徴は全て極めて身体的なものであり、西洋近代が抑圧した身体的なものを復権しようというありとあらゆる試みが行われていたのもこうした盛り場なのである(例えば、新宿の花園神社でアングラ演劇を上演していた唐十郎は『特権的肉体論』の中で身体の全面化を謳っている)。
では、ドンキにおいて「死」や「身体」というある意味では前近代的な特徴がみられるだろうかというと、それは既にもうこの論考の中でも触れている。アダルトグッズの取り扱いはまさにそうした局面を顕著に表しているのだ。他のスーパーに比べてもこうしたグッズを一般の商品と同列に取り扱っているのはドンキの大きな特徴である。明らかに「身体」、「死」という単語にドンキは取り憑かれている。そして回り道をしたようだが、今僕が考えている多様性の中の同時性というのもこの「死」、そしてその「死」によって媒介される「疑似的な家族」という現象の中に求められるのである。

8、
「死」とドンキ。もしくは「死」の空間とは、例えば吉見が語る浅草において現実世界とは異なる、「異界」として立ち現れる。ここでもう一度ドンキのテーマソングに立ち戻ってみよう。そこで踊っていた単語は何だったか。それは「パラダイス」であり、「ジャングル」であり「宝探し」の場所であった。それらはことごとく「異界」のイメ―ジなのだ。もしくは非日常、冒険空間として語られる。こうした単語がその根底に持つもの、それこそが「死」という契機なのではないか。もしくは「生――死」を媒介にしてつながる「家族」的なるものである。
土地と「死」という主題をもっとも追求した本の中に中沢新一の『アースダイバー』がある。縄文地図を片手になぜ現在の東京がこのような形になったのかを探る本だ。そこで中沢は「フィヨルド」という概念を持ち出す。東京は太古、入り組んだ入り江になっており、その地形の名残を現在の東京も無意識的に残しているというのだ。例えば、古代の聖地――死者との儀礼が行われていたと思われる場所――の上には現在も神聖な場所になっているのか、もしくは神聖とは程遠いような風俗街が立ち上がっている。しかしこの2つは相反しない。なぜならばそれはどちらも「生―死」に関する事象だからである。死者との交信と、(本来的に)新しい生命を呼び出す行為であるセックスは表裏一体だ。
『アースダイバー』ではこうした「死」に関する土地が、縄文の影響を受けていると仮定される。しかしこれをドンキの話に置き換えてみるとどうだろうか。中沢はその後のインタビューでも明確に、「死」の記憶を呼び出す土地と、そうでない土地を分けている。例えば東京タワーは場所柄、「死」の影響をうけるが、スカイツリーは元々海であったので「死」の影響を受けない、という風に。
しかしドンキはどうか。
むしろドンキはチェーン展開という名のもと、ありとあらゆる場所に疑似的な「死」の土地を作り上げているのではないか。例えば、それは中沢新一が語るような明確に「死」の記憶を持つ町(もしくは吉見が語る浅草――新宿型の盛り場でもよいだろう)にも立っていれば(新宿歌舞伎町、浅草6区はこの代表例だ)、「死」の記憶とは程遠いような場所にも立っている。いや、むしろドンキとはそのチェーン展開の最初が郊外(=歴史なき土地)から始まっていることから考えても、むしろ中沢が語らないような無歴史性の土地と親和性が高い。しかしそこに疑似的な「死」の空間を作り出す。
強調してもし足りないように、あくまでもこの空間は「疑似的」なものである。所詮、こうした店舗はスクラップ&ビルドにおける土地の更新の結果だし、企業と顧客による絶え間ざる共同性の交感というのも、双方が利益を追求する結果に他ならない。しかしそこには結果として「死」、もしくは「疑似的な家族」という共通的なものの影が深く落ちる空間を形作る。
そしてこの「死」というものに滞在的に含まれる性質こそ、それが本質的に最も個人的なものであると同時に、もっとも共通的なものであるということである。モーリス・ブランショの「死」についての議論を深追いするまでもなく、死というものはだれにとっても平等に与えられる。しかし、その「死」がどのようなものであるのかは誰にも分からないし、それゆえ不定形で極めて個人的である。
つまりドンキが理念として不定形を保持しているごとく、「死」もまた不定形である。いや、むしろ「死」が不定形であるからこそドンキもまた不定形の理念を持つのではないか。
その二者の違いは何か。それは「死」があくまでも絶対に可視化出来ないのに対して、「ドンキ」は必ず店舗という形で可視化されるということだ。つまりドンキでは「死」が可視化されている。そこには「死」の空間が広がっているのだ。

9、
さて、ここまでドンキについて様々な視点から考察を加え、最終的にはドンキが「死」の空間を形作っていることが確認できた。その空間はしかし連綿と続く歴史性の上に形作られたものとは限らない。例えば、浅草の盛り場は異界=非日常空間としての機能を江戸より果たしており、そうした非日常空間として「死」が扱われていた。しかし、ドンキが扱う「死」は全く歴史から切断されており、郊外から新興住宅街、そして歴史ある土地までをも「ドンキ」という不定形の理念で覆う。疑似的な「死」の空間がそこに共同性の交感ともいうべき事態を生み出しつつ、形を変え、日本列島の至る所に出現している。
例えばそれは宮藤官九郎が『池袋ウエストゲートパーク』で描いたような、緩やかな共同体かもしれない。しかし「ドンキ」はほとんどそれを上回るほどゆるい連帯しか成さない。
いや、この「連帯」という言葉にはふさわしくないほどそれは緩い。なんといってもドンキを利用するというそれだけの欲望で既に連帯は成ってしまうのだから。そこで媒介となっているのは、欲望の力そのものである。欲望の力が資本を刺激し、半ば自動的にドンキを増殖させる。しかしこの欲望は、欲望という言説にありがちな独り歩きする物であってはならないのである。ドンキが今のような形態を取り始めてから現在に至るまでは様々な問題との格闘の歴史であった。恐らくは今後ともそうした問題は起き続けるだろう。なぜならばドンキというチェーンの構造自体が、全体が整理され、単線的になっていく現代社会的な、人工都市的な構造とは相容れないのだから。
しかしドゥーリングは言う。「制作を続けることこそが大事なのである」と。そこではある絶え間ない理想を切断し、そのたびに形にしていくという、絶え間ざる努力が必要である。
ドンキの制作とは何か。それはある理想(それはこの場合、利益という極めて欲望的なものである)に向かってそれを最大限にするための絶え間ざる対話し、店舗を作り続けていくことである。対話の相手は顧客であり、近隣住民であり、そして土地である。その対話による複合的な力の組み合わせがドンキを形にする。そのような対話をドンキは続けている。例えば、ブラック労働に対するドンキ本社の取り組みは、『ガイアの夜明け』でも取り上げられた。
そしてそうした対話を可能にするためには、明らかにドンキが未来に対して何にでも変わり得るポテンシャルを持っていることが必要不可欠である。そしてそのポテンシャルを持つために必要なのは、それが「死」という人間が持ちうる、もっとも共通的で、かつもっとも個別的なものに目を向けることではないか。
アダルトグッズの取り扱い、そして「ジャングル」という冒険じみた形容。
しかしこれらはドンキをドンキたらしめているあまりにも重大な要素を、既にして暗示していたのである。そして僕たちはドンキを利用する時、「死」に導かれながら、ふとある共通の場所へ帰っていくような気がするのである。

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