全てはすずの存在のために?――まだ見ぬ数多くの『この世界の片隅に』に向かって

1、
精神科医である斎藤環は、批評再生塾第3期に寄せた「『この世界の片隅に』を批判せよ」と言う課題文で次のように書いた。

本作(=『この世界の片隅に』)については「賞賛以外の批評」が存在しない。これまでになされた数少ない批判は、単なる誤読、偏見、政治的な無知によるものばかりである。確かに本作は圧倒的に素晴らしい。その存在自体を奇跡と呼んでも差し支えない。しかしそれでも、これほどまでにまともな批判が不足している状況は健全とは言えない。それは批評の敗北である。

この文章を読んでまず疑問に思うのは、何故この作品は現段階で批評を敗北させ得る力を持ったのか、ということだ。
『この世界の片隅に』は数多くの批評家をも黙らせしめた。辛口と言われるキネマ旬報の採点では3人の評者がそれぞれの観点から満点を付け、前述の斎藤も試写会の段階で「120年に1度の傑作」と評したのである。
その斎藤は「美術手帖」の2017年2月号に掲載された「『この世界の片隅に』論」でこの作品について論じている。ここではこの映画が上記のように圧倒的な賞賛を得た理由について、アニメ内に登場する様々な要素(絵コンテ、音、セリフ、声優、画面に映りこむ細部)が全て主人公であるすずの存在のリアリティを演出するために機能的に働いており、その組み合わせが奇跡的なまでに成功したということがその理由として挙げられている。
映画内における多種多様な細部は、その全てがすずの人生に奉仕しているというのだが、例えばその一例として次のように斎藤は指摘する。


奇妙なことに本作には、人の出逢いを表す言葉として「運命」という言葉
が出てこない。「出会えた奇跡」はおろか、偶然を必然に読み替える一切の言い回しが出てこない。


確かに登場人物たちの何気ないセリフには決して「出会いの奇跡」というような必然性を意味する言葉は出てこない。すずは映画の最後で自分自身の人生が偶然の選択の産物に過ぎないことを認識し、それまでは「絵を描くこと」に象徴されていた(スズは絵を描くことが大好きな少女として登場する)別の人生の可能性を夢想することを止めるのだ。つまり、「偶然性によって成り立つすずの人生」というリアリティをこの何気ないセリフは演出しているのである。
こうした細部への圧倒的なこだわりが上述した批評家の賛辞に関わっているのではないか。つまり映画中の様々な細部がこの映画の漫画原作者、そして監督によって徹底的に操作されていることにより、どのようにこの映画を見ようともそれが「偶然性によって成り立つすずの人生」という1つの意味を構築してしまうがために結局はその緻密さを賞賛する以外に道が無いのである。

斎藤環の前掲した論考がこれらの批評と一線を画しているのはそうした「批評を不可能にする」メカニズムを指摘するという斎藤の行為が、その批評文を特権的な位置に置いたことにある。簡単に言えば、「この作品は批評が成り立たない」と批評したのだ。
ではこのように圧倒的に作りこまれた本作品をどのように批評していくことが可能なのか。本論考ではこの不可能とも思える試みを遂行するために、批評手法の1つであるテマティスムを使って本作品を批評してみたい。この手法は小説や映画内に現れる作者さえ気が付かない極めて些細なモチーフの反復を指摘しながら、その作品に新しい観点を取り込む批評のスタイルだ。
なぜテマティスムなのかと言うと、この手法がそうした作品内に現れる細部の反復を単なる偶然であろうとも、あたかも必然のものとして読み替えていく作業に他ならないからだ。つまり『この世界の片隅に』が演出しようとする「偶然性によって成り立つすずの人生」という製作者側の主題を翻す作業であるからだ。そこではすずの人生を演出する様々な細部を違う意味に読み替えながら、作品に対する新しい見方を提示することが出来るはずだ。
圧倒的とされる感動に徹底して抗いながらもう一度本作を見つめ直すこと。そしてその細部を読み替えることから新しい作品像を結実させること、それこそが批評が『この世界の片隅に』に対して反逆の一太刀として与え得ることの出来る「批判」になるのではないか。
つまり、「偶然によって成り立つすずの人生」という製作者の意図を補完するのではなく、むしろその同じ細部からスズの存在のリアリティという1つだけの意味ではなく、全く違う意味を構築出来得る新しい道を読者に示すこと。そしてその道がテマティスムによって照らし出され得ると分かった時にこそ、製作者が徹底し、結果的に大成功したメッセージ管理がこの映画に対する別の道を無いものであるかのようにしていると糾弾できるのだ。
抽象的な議論になってしまったようだが、この点は次節以降で徐々に具体的になっていくだろう。

本論考はそのように『この世界の片隅に』を批判していくという方略を取ることにしよう。

2、
『この世界の片隅に』における「出会い」について必然性を感じさせる言葉が出てこないと斎藤は指摘した。これからこの映画の細部を概観していく中ではそうした「出会い」というポイントに注目してみたい。

なるほど、そうしてみるとこの映画にはありとあらゆるところに人との出会いがある。
すずはまず誰と出会うか。それは後の夫となる周作である。彼らは偶然にも広島で会うのだが、その出会いはすずが彼女の幻想の産物とも思える怪物にさらわれたことから始まる。その怪物の背負うかごの上ですずは広島の街並みを見ているが、そのへりから落ちてしまい、そして初めて周作を目にする。
もしくは水原だ。水原はすずの同級生であるが、映画にはないエピソードとして次のような描写がある。幼少時に水原はすずの使っていた鉛筆を奪おうとし、もみ合いになった末に鉛筆はすずの手から落ちてしまう。その結果無くなってしまった鉛筆の代用品にと水原はすずに鉛筆を渡す。そこには後年図らずも想い合うようになっていた2人の関係が匂わされている。またすずが周作に嫁いだ後、久しぶりに水原が彼らの家を訪ねた折(再開の折)に彼がすずにプレゼントしたのは鳥から落ちた羽であった。
こうした周作や水原との出会いを示す場面において、ある共通するモチーフが見出せる。
それは「下降」のモチーフだ。
すずはかごから落ちて周作と出会い、また鉛筆はすずの手から落ちる。水原がすずに渡した羽もまた鳥から落ちたものである。そしてその「下降」は「出会い」の場面に集中して現れる。
漫画原作において重要な位置を占める遊女のリンにもこの「下降」の運動が付きまとっている。
リンとすずとの出会いは2回ある。まずは幼少期。すずが祖父母の家で横たわっていると天井から一人の少女がスズを見下ろしている。その少女は天井から降りてきて、すずたちが食べたスイカの残りにかじりつく。リンとすずとの出会いである。2回目はすずが周作の嫁になってからで、砂糖の壺を水の上に誤って落としてしまったすずはそれを買い戻すために闇市に行くのだが、その帰りに街で迷子になってしまい、途方に暮れているすずを心配して話しかけたのがリンである。リンはその時打ち水をしていた。

ここまで周作、水原、リンと様々な登場人物たちとの出会いの場面を「下降」の運動と絡めて概観したが、確かに、こうした出会いにはお決まりの「運命の調べ」とか「運命のいたずら」のようなベタな表を登場人物たちは発さない。斎藤曰く「人はただ、自分が生き延びる確率、相手が生き延びる確率、その総和としての出会いの確立を計算しながら生きるかのよう」なのである。
しかしそうした登場人物たちの何気ない会話の裏ではほとんど必ずと言っても良いほど「下降」のモチーフが姿を現している。出会いは確かに「下降」のモチーフと共に描かれるのだが、その反対、つまり「別れ」の場面ではこうした「下降」の運動はどうなるのだろう。
前述したリンとの別れの場面。すずとリンは桜の木の上に登って最後の会話を交わす。
他の人物との別れの場面はどうか。
もっとも直接的に身近な人物との別れが描かれる場面、つまり周作の姪っ子である晴美とすずが共に爆弾の爆発に巻き込まれて、晴美が死に、すずが右手を失う場面はどうか。その別れの前には上昇する土煙が画面いっぱいに映し出される。
こうした「別れ」のシーンには「下降」ではなく「上昇」がモチーフとして現れてはいまいか?
桜の木へ登り、そして土煙は舞い上がる。
「出会い」が「下降」と結び付いているならば、「別れ」は「上昇」と結び付いているのだ。重要なのはこうした運動が何かの象徴として働いているのではないことだ。象徴として製作者が効果的に用いているとなると、やはりそれは製作者が意図したようにそれはすずの人生に奉仕してしまうだろう。こうした一連の運動は決してすずの人生に奉仕しない。試しにこうした運動を他の運動に置き換える、もしくはその運動性を無いものとして考えてみればよい。それが必ずしも「下降」したり、「上昇」する必要はないのである。重要なのはそれらが常に「出会い」や「別れ」のモチーフと共に反復して現れるということなのだ。
差し当たっては、この「下降」と「上昇」の運動のうち、最も印象的に表れる場面をいくつか拾ってみよう。この運動という偶然を必然的なものとして読み替えてみるのだ。
例えば、この映画の中で最も重要なシーンの一つともいえる昭和20年8月6日、広島に原爆が落ちた日。すずは晴美を救えなかったことや、様々な軋轢によって、嫁ぎ先の呉から故郷である広島へ戻ろうとしていた。しかしその時に兼ねてから関係が良くなかった周作の姉であり、晴美の母親である径子と和解し、呉で生きていく覚悟を決める。そしてその瞬間、広島に原爆が落ち画面上の運動としては高く舞い上がるキノコ雲が映されるのである。
もしくは原作の「水鳥の青葉」という章。映画でも描かれるがここですずは終戦後水原と初めて遭遇する。しかし水原とは一言も会話をせずにただ、その横を通り過ぎ、「笑顔の容れもん」(原作では「記憶の器」)として呉で生きていくことを一緒にいたご近所の刈谷さんに言うのだ。そしてその時に水原が乗組員として乗船していた戦艦青葉がすずの右手によって描かれることでゆっくりと空に向かって上昇していくのだ。
そしてラストシーン。ここですずは終戦後の広島で、母親を失った少女との出会いを果たす。どのような出会い方だったか。その少女はすずが落としたおにぎりを拾うことで、すずと出会うのである。まるでその出会いは「下降」によって必然づけられていたかのようである。

この3つのシーンにおいて、すずは広島という土地、及びそこに結び付けられる水原に「別れ」を告げ、偶然によって嫁ぐことになった呉での人生を生きることを、子供代わりであるかのような少女と共に決意するのである。こうして偶然のように思われるあらゆる事象の背後には常に必然的ともいえる形で2つの運動が存在している。
このような視座から見た場合、『この世界の片隅に』における「出会いと別れ」には全て「下降」と「上昇」という必然性がその下に潜んでいるのである。そしてこの運動は映画全編を通して見られる。つまり戦争があろうとも、右手を失おうとも、何があってもその「出会いや別れ」は必然的な等質性から導き出され、すずの身に何が起ころうとも、彼女を取り巻く出会いと別れのメカニズムは必然的に変わらず働き続ける。
すずの存在にのみ注目して見た場合、やはり右手を失う前と後における彼女の変化だけにのみ目が行ってしまう。斎藤曰く「マンガでもアニメでも歪んだ以降のすずさんには、かつてのような「ドジっ子」ぶりはもうみられない。あの「ぼーっとした」すずさんはもういない」のだ。しかしそのようなすずの変化に関わりなく起こる「上昇」と「下降」の運動だけは変わらずにある。
したがって『この世界の片隅に』で注目されるべきなのは戦争による変化ではなく、戦争を経てさえなお変わらない部分の方なのではないか。

3、
以上、ここまでのほとんど調査的ともいえる作業で「下降」と「上昇」の運動が「出会い」と「別れ」を中心とする物語の重要な部分で密接に関係していることを確認してきた。物語全編を通してすずとその周辺の人物の「出会い」と「別れ」は一見、偶然かのように見える。斎藤の前掲した論考も決して間違いではない。実際に彼らは出会ったことの「奇跡」や「運命」などの言葉を口にしないのだから。しかし「下降」と「上昇」だけは必然的であるかのように表れ、すずの偶然的な人生の背後に潜んでいる。
この映画が目指したものは、何度も言うようにすずが様々な生き方の選択肢を偶然に選択することから立ち上がる彼女の実存のリアリティを高めることであり、そしてそれがかつてないほどまでに成功したのもまたこの映画であった。偶然によって成り立っているその人生を強く観客に刻印し、すずは画面の外に消え去っていく。しかしそのように見られるべき細部にはそうした意味だけしか、つまりすずの存在にのみ奉仕する意味しか与えられていないのだろうか。
恐らくそうではない。つまりこの論考で概観してきたようにすずを存在させるために作中に登場する細部は決して1つの意味だけに接続されるのではなく、そこからまた違う意味を読み取ることが可能なのである。
しかしこの映画では「奇跡的」とも形容される様々な要素のシンクロ率の高さで、すずの存在を可能にさせる細部があまりにも緻密な配置をもって観客の前に出現するために、そうした細部に他の意味を読み取ることがきわめて難しい。そうした構造になっているのだ。そのような細部がすずの存在だけでなく、他の読み取り方を指し示す可能性があるにもかかわらず、だ。
「下降」と「上昇」を1つの契機としたもう1つの『この世界の片隅に』がひろがっているにもかかわらず、様々な細部をすずのリアリティに奉仕させ、その存在を圧倒的なものとすることでその同じ細部から読み取ることの出来たはずの他の多くの可能性を隠してしまうこと。
これこそこの映画の最大にして最悪の功罪と言って差し支えない。
この論考で提起した1つの批評的視座--つまりテマティスムによるすずの人生の必然性の指摘――は決してこれ1つだけの視座としてあるのではない。今しがた書いたように、他の多くの選択肢が、多種多様な『この世界の片隅に』があるはずなのだ。むしろ『この世界の片隅に』が今後もっと広く批評され、批判されるためには本来すずのリアリティを高めるために用意されたありとあらゆる細部を「すずの存在」という1つの大きな意味を排除しながら別の意味に読み替え、接続するという作業が必要であって、そのような作業の末に「すずの存在」だけを意味しない様々な『この世界の片隅に』が見えてくるのである。

文字数:6037

課題提出者一覧