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岡田利規の「未来口語演劇」

 

 なりふり構わずこの世界は変化している。この文章を執筆している2017年11月5日にアメリカのトランプ大統領が訪日しているが、ほぼ一年前の2016年の9月に日本の安倍首相が訪米した際には、最有力の大統領候補だったヒラリー元国務長官にしか会っていない。様々な人々がなりふり構わず振る舞う中で、この世界はなりふり構わず変化している。そうした、変化し続ける世界と呼応するかのように、いや、呼応どころか、先んじるように、岡田利規の演劇で発話される言葉もまた、なりふり構わないものになっているのではないか。それが本稿の主張である。そのためにまず簡単にではあるが、平田オリザの「現代口語演劇」、岡田利規の「超現代口語演劇」、そして、なりふり構わない「未来口語演劇」の順番に説明していきたい。

 

 平田オリザの「現代口語演劇」とは、彼自身が主張した理論である「現代口語演劇理論」を元にして上演された演劇である。では「現代口語」とは何か。平田の理論を詳細に分析した佐々木敦の『即興の解体/懐胎』によると、それは「従来の多少とも“劇的”な様相を帯びた演技=発話とは異なる、より私たちの日常生活におけるリアルで平凡な会話に近い言葉遣いを有した台詞とその発話」と定義してある。つまり、「現代口語」とは私たちが普段話している「日常語」のことである。しかし、その「日常語」は、当たり前のことだが、全ての人々が同じではない。そこで平田理論の重要なキーワードである「コンテクスト」が出てくる。ここでいう「コンテクスト」とは「一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言語の範囲」のことであり、「私たちは、個人のコンテクスト、言語の差異を起点に、家族、会社、学校、地域などさまざまな社会の単位で共通のコンテクストを創り上げ、言語による円滑なコミュニケーションを可能にしている。それぞれの文化、それぞれの言語に独自のコンテクストがあるように、一人ひとりの使う言葉にも独自のコンテクストがある。同じ母国語、同じ方言を共有する人々にも、微細なコンテクストのずれはある」と平田オリザの『演劇入門』には書いてある。そして、この「コンテクスト」を更新する形で現れたのが、岡田利規の「超現代口語演劇」である。このネーミングは明らかに平田オリザの「現代口語演劇」を踏まえてはいるが、自ら命名した平田と違って、岡田のそれは、単に誰かが勝手に名付けたものだ。そのため「超現代口語演劇」は、明確に定義されているものではないが、ダラダラしていて妙に切れの悪い口調で、誰かに関しての直接聞いた話だったり、伝聞を話している内に、その誰かになっていたり、別の誰かに話しかけたりする。観客に向かって俳優が語りかける点でも、一見落語のようでもあるが、観客がその人称の変化を明確に意識することなく、それでいて不思議なほど自然に見ることができてしまう話し方である。なぜならば、実際に私たちは、あんな風な話し方をしている時があるからだ。岡田はある時期までのチェルフィッチュでトレードマークとなったこのスタイルを、インタビューの文字起こしアルバイトの経験から思いついたと語っている。そして、こうしたスタイルが大きく変わっていった作品として『わたしたちは無傷な別人である』(2010年)があるのではないか。この作品に関して、岡田自身は『遡行 変形していくための演劇論』の中で、作品内の台詞を引用しつつ以下のように述べている。

 

世の中には自分たちとは境遇の異なる他者がいて、その人たちに対する想像力を自分たちは大して働かせられないどころか、働かせないことによって自分たちを守ったりしていることさえある、そうしたことを問題にした作品だった。

(中略)

「わたしはこのことを知っておいでではないと思いますけれども、わたしは知っています。わたしは幸せだということを知っています。わたしは、そうではありません、つまり、幸せではないのです、そのことを知っていただくために、ここに立っています、わたしは、こんなふうに立っているのは、ただそのためにです。それ以外のことは何もありません」

「わたしは、お金をめぐんでほしいのではありません。それでは、どうしてわたしは、ここにいるのでしょうか? わたしは、わたしが幸せではない、そのことを知ってもらいたいと思っているのです」

こんなふうに、なりふり構わない言葉を自分が書けるようになったのって、われながら大したもんだなと思う。なりふり構わず書くって、実は結構高等テクだったりするから。

 

以前、平田理論の説明の際に上げた「コンテクスト」をここで思い出していただきたい。境遇の異なる他者の「コンテクスト」に対する想像力を働かせないことによって、自分たちを守ったりしてしまうことさえある、そうしたことを問題にした作品において、その台詞はなりふり構わない言葉となっていく。そして、2011年の東日本大震災後に「「村」と呼ばれる共同体に、ある日不思議な青い雲が出現し、ほどなくしてその雲はこの村が滅びることを告げる不吉な兆しだという噂が流れる。その噂を信じる者もいるし信じない者もいる。見解の相違によって村は分断される。一方は村を見限って宇宙船で飛び立つ。もう一方は、それまでと変わらない村での日常を取り戻す……。『現在地』(2012年初演)はごく簡単に言えばそういう話だった。震災後の自分たちのことを問題にしようと思ってそういう話をつくったのだった」その『現在地』の中で、噂を信じないカスミが、ハナを殺す場面がある。チェルフィッチュの作品群の中で、おそらく唯一の明確な殺人場面である。このことが何かを示唆していると思えなくもないが、そうした示唆が現実世界を明確に捉えていることもチェルフィッチュの恐ろしさだ。『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(2014年)では、中盤でコンビニのSV(スーパーバイザー)が、カップやきそばのUFOを持ちながら、コンビニがこの国に降り立った神話を説明する。この場面を観た時に、当時、某コンビニのシステム部で働いていた私は、ファミリマートのフェニックス計画を想起した。2000年から数百億円規模で、コンビニのIT化によって、コンビニを完璧に日本に定着させるのが目的の計画であり、規模は当時のコンビニ業界では最大だった。おそらくこのことを岡田利規が知っているとは思えないが、偶然の一致として看過できないように思えた。『God Bless Baseball』(2015年)では、イチローが放水ホースを持って、「想像するんだ」という台詞で核の傘に入るように迫るようにしか見えない、あからさまな演出があった。そして『地面と床』(2013年)では日本語が滅んでいく未来や、夢の中で中国との戦争が勃発したりする。そして、土地に眠る死者とその土地に残る生者、良いと思える土地に去っていく生者の対立があからさまに描かれる。しかし、その「あからさま」には言い淀みや優しさがある。この作品では未来を扱っているようでいて、死者という過去についても扱っている。『部屋に流れる時間の旅』(2016年)では死者である妻が「ねぇ、覚えているでしょう」と言いながら、夫と、その新しい恋人に語りかけるという内容だった。死者を扱うことで、過去を扱っているようにもみえるが、そこに見え隠れするのは日本の未来の姿である。そして、そこで話される言葉は「未来口語演劇」と呼ばれるものかもしれない。

 

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