予言が生む吐き気と、忘却される予言

 

※運営による注記:本提出作中の「阿部和重の神町トリロジーの完結編の構想段階では〔……〕東北で震災が起きることになっていた」という記述につきまして、阿部和重さまご本人より誤りであるとご指摘をいただきました。阿部さまはもとより、読者の皆さまにもご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げるとともに、ここに訂正いたします。

小説における「自由」について考える時に、私はとてもくだらないことを考える。それは、本一冊一冊に手足が生えて、勝手に歩いていく姿だ。または、背表紙を中心にして、分厚い表紙と裏表紙を羽のようにして、空に飛び立っていく姿だ。小説が作者の意図を無視して一人歩きを始めるそのイメージだ。そのイメージが、実際に起きるかもと言ったら、そんな馬鹿げたことは起こるはずがないという人が多いと思う。しかし、本当にそうだろうか。私たちが当たり前だと思っていることは、本当に当たり前なのだろうか。例えば、物理学の法則で「重力は距離の2乗に反比例する」というのがある。重力が離れれば離れるほどその影響が小さくなるという法則なのだが、その法則の根拠、理由を考えてみよう。なぜ「2乗に反比例するのか?」と物理学を学んでいる学生に聞いたとしよう。彼はおそらく「それはこの宇宙が3次元空間だからです」と答えるだろう。しかし、これは法則の理由ではなく、条件である。宇宙の端っこから端っこまで全てが3次元空間とは限らない。(その証明はされていない)4次元空間、5次元空間の中ではおそらく重力は距離の2乗に反比例しない。もしかしたら、他の要素(条件)によって1.99乗に反比例している空間も存在しているかもしれない。この世界で起きている事象の理由だと思われているものが、実は条件の一つでしかなく、その条件が少しでも変わることがあれば、私たちの世界で起こる出来事も大きく変わってしまうことがある。始めの話に戻れば、本が一人歩きなどしないはずだという人が、その理由にあげるであろう「本は紙でできているから」ということも、ひとつの条件でしかないのだ。このことは本の内容、小説においても同じことが言えるはずだ。その小説が書かれた理由だと思われていたものが、ひとつの条件(初期値)でしかなくなり、他の無数の条件(原因)によって、作者の意図から離れ、一人歩きを始め、現実世界に再現される。それは予め知る恐怖、予言と言っていいだろう。その予言の持つ自分の書いたことが現実化するダイナミズムを体現した小説として私が想起するのは、大江健三郎の『万延元年のフットボール』だ。

 

 『万延元年のフットボール』は『群像』1967年1月号から7月号にかけて連載され、同年9月に講談社から刊行された。あらすじは、兄の根所蜜三郎と、弟の鷹四の二人の兄弟は四国の谷間の村を出て上京し、大学に入り、密三郎は野生動物資料の翻訳者、弟の鷹四は安保闘争に参加した。鷹四は学生演劇団のメンバーとしてアメリカに渡った。その後、密三郎は重度の精神障害の子供の父親になり、渡米していた鷹四が帰国する。親友を自殺で失い、傷心の蜜三郎は弟の誘いに応じ、自己の拠り所と再生を求めて四国の山奥にある故郷の村へ帰る。蜜三郎と鷹四の曽祖父は地元の村の庄屋であり、その弟は万延元年の一揆の指導者であった。蜜三郎・鷹四兄弟は、この百年前の兄弟の姿に自分たちを重ね合わせ、地元のスーパーマーケットの略奪を計画する。この『万延元年のフットボール』の内容の理由に関しては、柄谷行人による詳細かつダイナミックな分析として『大江健三郎のアレゴリー』があり、この中で登場人物たちは、ブルジョア国家、帝国主義、アジア主義、民主主義(社会主義)の四象限に分類されて解説されている。その理由は過去百年の歴史も射程に含めた内容になっているのだが、ここに新たな条件が小説の出版後に追加される。それはこのスーパーマーケット強奪計画の中で記述される「解放区」の姿を読むときに、おそらく、当時の読者は、その数年後に激化する成田闘争、三里塚闘争(闘争開始は1966年)の予言と認識していくことになると思われる点だ。私はその当時には生まれてもいないのだが、小川紳介の三里塚ドキュメンタリー作品を目撃する中で、その予言の実現化の過程を、わずかながら追体験することができる。そして、その追体験をしていく中で、私はある問いを持った。それはもし、大江健三郎が三里塚闘争でどんなことが起こるかを知っていたとしたら、果たしてこの小説は書かれていたのだろうか、という問いだ。この疑問を持つきっかけになったのには、もう一つのエピソードがある。それは、阿部和重の神町トリロジーの完結編の構想段階では(2作目の『ピストルズ』は2010年刊行)東北で震災が起きることになっていたらしいという話だ。(その構想は、現実に東日本大震災が発生したことで、中止され、別の新たな作品『Orga(ni)sm』として2016年11月号の文學界から連載されている)未来に何が起こるのかを確実に知ることは、多くの人にとっては不可能なことだし、それは多くの小説家にとっても同じはずだ。小説家が執筆する(構想する)時にその内容は、現実にも起きそうだが、小説が発表される前に現実化することはないだろうというある程度の予想に基づいて書かれることはあるとは思う。しかし、その実際に自分が想像したような物語が現実に再現された場合に、小説家は何を思うのだろうか。自らの予知能力、知性への全能感? 社会全体に対する嫌悪感? おそらくそのどちらでもない。彼らは自らの造り出した物語への気持ち悪さ、そして「吐き気」を覚えるのではないかと私は思う。ジャン=ポール・サルトルが『嘔吐』の中で、予め既に決まっていることに対して「吐き気」を覚えたように、自らの意思で執筆したはずの小説が、運命に操られるかのように勝手に歩き始めた時に、作家として、一人の人間として、圧倒的な無力感を味わうのではないだろうか。しかし、それを回避するための遂行性(未来を自らの意思で選び取る可能性?)には、輝かしい未来を想像し、その未来を実現するという方法もあるが、それが、オウム真理教の地下鉄サリン事件のような自作自演という結末でないとは誰も言い切れない。未来を予言するということは、場合によっては人々を動員する契機になりえるし(『万延元年のフットボール』を読んで三里塚闘争に参加した人もいたはずだ)予言すること自体がその正誤とは別に人々の関心を集めることになる。そのことに対しての考察として鴻池留衣の『ナイス・エイジ』(『新潮』2017年7月号)は非常に興味深かった。

 

 『ナイス・エイジ』は2009年、インターネットの掲示板に「2112」というハンドルネームで現れた人物が、東日本大震災、民主党政権に代わる自民党政権の誕生とその長期化、日本の一部が立ち入り禁止区域になることを予言し、それが的中したことで話題になるが、2011年の震災後に再び現れ、自分は2112年の未来からやってきたと宣言し、今度は5年以内の「国民的アイドルグループ」の解散と、オリンピックの東京開催決定を予言、これものちに実現する。そして2016年になって三回目の「2112」は現れ、掲示板のオフ会に参加すると発言。小説はその予言者を検証するオフ会から始まる。その中で、アダルトビデオの女優をしている絵里は「アキエ」という偽名で会に参加していて、そこで「進次郎」と名乗る年下の青年と意気投合し、よくわからないままに絵里の家で一緒に暮らすことになる。進次郎は彼女を「おばあちゃん」と呼び、自分は絵里の実の孫であり、つまり未来からやってきた「2112」なのだと説明する。やがて「アキエ」は「2112」への質問、その回答を自らの掲示板に書き込み始める。ネット民たちは盛り上がり、やがてそれは大きな騒動に発展してゆく。この小説のオフ会の予言者の検証の中で、予言が外れた時の逃げ道について、所謂世界線、パラレルワールドに関しての説明があり、もし、未来人が本当にいたとしても、その未来人が来たことによって、未来が変わってしまった場合に、正確に予言することができなくなってしまうことについての話が行われる。また、昔から多くの予言がされた中で、たまたま正解したものが残っただけで、それは予言というよりも、後世の人が勝手に予言と解釈している可能性についても言及される。実はこの小説の元ネタである、掲示板での予言者は現実世界でも既に数人話題になっており、2013年に2ちゃんねる掲示板に降臨した2058年から来た原田氏、2014年に降臨した2137年から来た川島氏、2015年に降臨した2070年から来た未来人ジジイ氏などがいる。これらの予め予言を目的としている発言の中から、たまたま的中してしまった場合に、その人が未来人として祭り上げられる可能性は十分にありえる。また、2013年からTBS系にて12月30日深夜に放送されているクイズバラエティ特番、『クイズ☆正解は一年後』の中では、結婚する芸能人は?/離婚する芸能人は?といったクイズが出題され、その答え合わせは一年後の同番組内で行われる。実際に正解する場合も多数あり、それだけで番組は盛り上がる。それはまるでタイムカプセルのようなものであり、未来を予言しようとしているというよりは、回答とその正誤判定に一年というタイムラグがあるクイズ番組である。予言も無数に行われてしまった場合には、その予言の正誤が判定されるまでの時間は、クイズ番組でのファイナルアンサー後の解答を待っている時間とほとんど同じ時間の流れ方をしてしまうのではないのではないのだろうか。そして、その時間が長期に渡る場合に、その予言の多くは、忘却されてしまうのではないのだろうか。『ナイス・エイジ』の終盤で、絵里の四人家族は赤いキャリーケースの形をしたタイムマシーンで、エキゾチック物質というでたらめに感じる設定によって、タイムスリップをする。そしてその映像を生放送するのだが、たちまちその映像の検証と、似たような合成動画が作成、投稿され、多くの映像の中に埋もれていく。そういった忘却の中で、あるひとつの小説が、あるひとつの現実の出来事を予言していたと「自由」に解釈された場合に、作者(たとえ亡くなっていたとしても)の感じるものは「吐き気」では済まないのかもしれない。

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