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三島由紀夫の最終定理

 三のつく小説家と言われてぱっと思いつくのは、三島由紀夫だという人はそんなに少なくないと思う。その三島が川端康成との交友を随筆風に書きながらも、川端論といっても差し支えない内容である『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』の末尾近くで以下のように述べている。

 氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について論じたい誘惑にかられるが、紙数が尽きた。(『永遠の旅人』)

この「紙数が尽きた」後の内容を導き出すのが本批評の目的である。この三島の「紙数が尽きた」と似たような論証に数学の「フェルマーの最終定理」がある。フェルマーの場合には「この余白はそれを書くには狭すぎる」ということだったが、発見から360年後に証明されたこの定理から名前を拝借して、仮に上記の三島の論を「三島由紀夫の最終定理」と呼びたいと思う。

 「三島由紀夫の最終定理」を私が初めて目にしたのは、渡部直己著『読者生成論―汎フロイディスム批評序説』の川端康成に関する論考「少女切断」の中である。この論考で渡部は川端康成の『乙女の港』と『千羽鶴』の模範的な対関係から発せられる「《処女》は実際どのように現出するのか」という問いの中で、上記の三島の文章を引用し、川端の書き方の問題を追及していく。そして、『片腕』という作品に触れつつ下記のように分析する。

三島のいう「書く主体と書かれる物との間」には、上述した書き方の問題と同時に、いまひとつ、書く主体と読む主体との「永遠の関係」が横たわっているのだ。川端をめぐるわれわれの最後の要はまさにそこに在り、そもそも、作品とはそれじたいが、書くことと読むこととの不断の交接に育まれる場ではないか。(『読者生成論―汎フロイディスム批評序説』)

この後、渡部はこの論のタイトル「少女切断――川端康成を読む」(読むは実際は×で消されているが書式の問題で取消線にしている)通りに川端作品を読むことが読者の記憶に作用することを論証しつつも、最終的には川端作品の書き方から発生する読みがたさ、読めば読むほど川端の《孤影》が読者を遠のけるとして、川端康成とその読者の切断面を批評している。しかし、これではまだ「三島由紀夫の最終定理」を解くことはできない。この定理を解く鍵となるのは、渡部の川端論の途中で「切断と癒着」という章題で触れられ、その作品の中の少女の片腕が換喩的に全体の少女の身体でもあるとした文字通り『片腕』という作品になる。この「中心ならざる縁へ、全体ならざる部分へと」向かう作品を引用している小説がある。それが筒井康隆の『モナドの領域』だ。

 『モナドの領域』は河川敷で見つかった女の片腕を刑事が捜査する場面が始まる。そこで鑑識の堤は以下のように片腕を説明する。

『陰翳礼讃』を書いた谷崎潤一郎先生のお気に入りの腕だとは思うが、けっしてあの『片腕』の川端康成さんが好む腕ではない。

「谷崎潤一郎先生」の『陰翳礼讃』を挙げたのは著者の筒井康隆の存在が強く反映されているようにも思えるが、ここで「川端康成さん」が好む腕ではないと言っているところで、先述した渡部直己の川端論を思い出していただきたい。渡部は川端作品の中にある読者から遠のいていく川端の《孤影》について書いた。それを否定したこの『モナドの領域』は必然的に読者に近づいていく作品となる。著者から離れていくと言っても良いかもしれない。事実、『モナドの領域』の後半で結野教授に乗り移った?GODが、テレビ番組に出演し、出版社の社長に以下のようなアドバイスをしている。

「よいかね。読者は自分の好みの本を読みたいのだ。しかし、すべての、あらゆる階層の読者が求める本というものはない。だから、『黒い本』を作ればよろしい。これは表紙も中身もすべて真っ黒な本だ。白い本という束見本のような本があるが、あれは買った者が何か自分の好きなことを勝手に書くための本だ。黒い本はそうではなく、買った者がすでに何か印刷されていると想像した上で、その黒いページから何かを読み取るための本だ。すでに存在する本が気に入らないのなら、この本を買って好きに読みなさいというわけだよ。これならあらゆる階層のすべての読者が読めるだろう」

そして、このGODはテレビ番組の最後に以下のように発言している。

「わしやお前さんたちがここでこうして存在しているのもひとつの可能世界に過ぎないという証明だ。つまり、これが単に小説の中の世界だとしたらどうだい。読者にしてみればわしやお前さんたちのいるこの世界は可能世界のひとつに過ぎないだろ。お前さんたちだってわかっているじゃないか。これが小説の中の世界だってことが」
 ああ、という顔で全員が不具合を感じ、身をよじらせる。あはは、と神経症的に笑う者もいた。SF評論家も顔を伏せ、小さな声で「パラフィクション」と呟く。下手の袖に立つ加藤淳也までが俯いて「それ言うたら、おしまいとちゃうんけ」と呟いている。
 「逆に言えばだよ、われわれの世界から見れば、これを読んでいる読者の世界こそが可能世界のひとつだということにもなる」GODはなんだか面白がっているようでもある。

ここで出てくる「パラフィクション」という単語は筒井康隆のインタビューにもある通り批評家の佐々木敦とのトークイベントの時に、筒井康隆が面白いと思ったために使用しているようだ。そしてその「パラフィクション」というのは、佐々木敦の著作『あなたは今、この文章を読んでいる。――パラフィクションの誕生』で提示されているジャンル、概念だ。その中で、佐々木は物語の外部で、制度的かつ現実的にそれを書いた(造り出した)生身の人物のことを「ゼロ人目の作者=作者0(ゼロ)」としている。そして、その下位にフィクションの内部で作者(=語り手)的に振る舞うカッコ付きの作者を「(虚構内の)一人目の作者=作者1」とした上で、以下の分析をしている。

「読者」は無意識にであれ、「作者1」を通して「作者0」を透かし見ようとするし、そうしているのである。
 そのとき、実際に「作者0」として透視されているのは、実のところは限りなく「0」に漸近させられた「1」、いわば「1」の累乗=メタとしての「作者1」なのだが、それこそが、それだけが、「読者」には「作者0」として措定出来るのである。

「読者」にとっては、今読んでいるものが誰かに書かれたものであるという前提がある以上、それを書いた「作者0」がいることを想定せざるおえず、それは作中の「作者1」がどんなに否定、または自らを「作者0」と主張したところで、作中の「作者1」は「1」の累乗=メタとしての「作者1」でしかないのだ。つまり、作中の「作者1」はどんなにあがいても「作者0」にはなりえない。先ほどの『モナドの領域』のGODが言っていたように、「読者」から読めば「作者1」はひとつの可能世界なのだし、逆に「作者1」からみたら、「読者」もまた可能世界のひとつなのだ。そして、ここで言われている「読者」を、書かれた物を一番初めに読む読者。つまりは「作者0」も含むと考えることはできないだろうか。「作者0」にとっても、書かれてしまった物は、例え自分が書いていたとしても、そこに出てくるのはあくまで「作者1」であり、書いた自分自身である「作者0」とすらも一致しないのではないのだろうか。「三島由紀夫の最終定理」で考えると、「対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズム」として、「作家と、その描く対象との間の―書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係」を論じようとした時に、イマージュや、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』といった論じるべきステージのはるか手前の段階で(どちらを手前とするかという問題はここでは置いておく)生身の「作者0」と、書かれてしまった物語の中にいる「作者1」が一致しないため、「処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズム」と同一の状態になるのではないだろうか。それは何より、本批評の冒頭で引用した三島の川端論で使われる「私」が「作者1」であり、三島本人「作者0」と必ずしも一致しないことに、三島自身が「三島由紀夫の最終定理」において論じないとはとても思えない。そして、これこそが「三島由紀夫の最終定理」の「紙数が尽きた」後の内容であるはずだというのが本批評の結論である。この結論を肯定する内容として、先述した佐々木の著作のエピローグの文章を引用する。

「書くこと」に常に既に潜在しており、そのエンジンでさえあるだろう「読むこと」を再起動し、いささかも抽象的な存在ではない、あくまで具体的な「読者(性)」なるものをしかと摑まえようとするものである、ということだ。

 最後に、佐々木の『あなたは今、この文章を読んでいる。――パラフィクションの誕生』の序盤の「2『虚人たち』再読」で再読されている筒井康隆の『虚人たち』の中で、「彼」がレストランの中で突如として「木村という四人家族」の団欒を解説するところで、娘が口にする言葉を引用する。(おそらく作中唯一「彼」の姓らしき表現として「木村」が使われている)それは、今も文字として書き始められようとしている(三島風に言うと、犯されようとしている)物語に声があるとして、その声を文字列にしようとした場合に、下記の引用と同じになるはずだ。

わたしは今犯されているかもしれないのです。(『虚人たち』)

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