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「国境の南」、「コンビニ人間」、「観光」の分からなさ

 村上春樹『国境の南、太陽の西』(1992)(以下「国境の南」)と、村田沙耶香『コンビニ人間』(2016)(以下「コンビニ人間」)を対象として批評する。作品選択の契機は以下のようなものである。
 文学に興味のなさそうなある男が、この2作品を単行本で持っていた。彼は村上春樹の長編だけは、単行本が出るたびに買うが、気に入らなければあっさり売ってしまうという。その彼が、「国境の南」だけは大切に持っている。「コンビニ人間」は彼の妻が買ってきたらしいが、その妻いわく、いつも妻の本買いを「無駄遣い」と罵倒する彼が、「僕も読みたい」と言ってむっつりと読み、無表情に「面白い」と言ったのみだったそうである。この「男」は20年間無遅刻無欠勤で同じ会社に勤め、心の病で倒れる同僚も多い中会社の指示に黙々と従い、「担当課長」というよく分からない肩書きも黙って背負い、休日には決して羽目を外すことなく、出勤のために体調を調整することを主眼として淡々と「生活」してきた。子供はいない。「国境の南」と「コンビニ人間」は、そういう男のための文学なのか?この2作品の何が、そういう男を引き付けるのだろう?
 だいぶ脚色してしまったが(冒頭の「男」と「妻」はフィクションであり、実在する人物及び団体をイメージさせる意図はありません。念のため)、概ね以上がこの批評の出発点であり、入口である。ついでに、この批評が一体どんな経路を辿ってどんな出口に出るのかもあらかじめ明示しておくと、そういう男のための文学は「ある構造」を持っていて、その構造ゆえにそんな男でも、あたかも気楽な「観光客」のようにその作品を楽しめる、そして大事にできる。だから、作家さんたち、余計なお世話ですが、そういう作品をもっと書いてくれたら嬉しいなあ、批評家さんたち、そういう作品をもっと紹介してくれると嬉しいなあ、ということである。「ある構造」についてどんどん説明してしまうと、通常文学作品とは、一定の毒を含む。何かをかき乱す作用がある。知らない土地へ行くのと同じで、読むこと自体に一定のリスクがある。単に楽しいだけなら役に立たなくても人は読む(漫画のように)が、このリスクがわりと初手から明らかで警戒させるものだから、小説は漫画のようには消費されにくいのである。冒頭の「男」は漫画はたくさん読むし2ちゃんねるも熱心に読むが小説はあまり読まない。しかし「国境の南」と「コンビニ人間」は、まるで「観光ツアーのように安全が擬制された構造」(これが「ある構造」の中身である)を持つゆえに、冒頭の「男」でも読めてしまう。そして、「男」は毒に浸される。どっこい「国境の南」と「コンビニ人間」は、きちんと文学なのである。まるっと表現すれば、「観光事業を装った破滅への手招き」かもしれないような、得体の知れない何かである。
 繰り返すとこの批評は、「観光ツアーのように安全が擬制された構造」を持つ作品をどんどん書いて欲しい、紹介して欲しい、と未知の書き手に僭越ながらお願いする趣旨のものである。そういうわけでこの構造についてもっと具体的に、「国境の南」と「コンビニ人間」の内容を引いてこれから説明する。まず一つの図式をイメージして欲しい。その図式とは、「私」と「私の生活する場所」と「観光地」の三つの点から成り立つ「奇妙な三角関係」である。三人の人間がいて、二人が一人を取り合うのが、普通の「三角関係」であるが、この奇妙な三角関係において一人の人間(「私」)を取り合っているのは二つの「場所」(「私の生活する場所」と「観光地」)である。「国境の南」の「私」は「ハジメくん」であり、「私の生活する場所」は「ハジメくん」の優雅な生活を築いてくれた妻「有紀子」の「父」であり、「観光地」は「ハジメくん」の浮気相手で「ハジメくん」と心中しようと目論んだ「島本さん」である。「コンビニ人間」の「私」は「古倉さん」であり、「私の生活する場所」は「古倉さん」に初めてどう生きればよいかを教え、「コンビニ店員」として誕生させた「コンビニエンスストア」であり、「観光地」は「古倉さん」の同棲相手で彼女にコンビニを辞めさせまともな就職をさせようとした「白羽さん」である。「有紀子」の「父」も「島本さん」も「白羽さん」も人間のようだが、決して人間としては書かれておらず、「ハジメくん」や「古倉さん」の「属する場所」や「行こうとする場所」として存在している。「ハジメくん」や「古倉さん」は、突然顕在化した不安(過去の罪、または排除されるべき異物としての自分という自覚)を解消する拠り所として、あまり深い考えも覚悟もなく異世界である「島本さん」や「白羽さん」に関わってしまう。戻るつもりで異世界に行くのだから観光である。しかし、戻れなくなりそうになる。ここで、これら2作品の秀逸な安全擬制が顕著となる。物語全編を通して、「ハジメくん」や「古倉さん」が「観光地」から戻ってこれなくなるようには思えないように仕組まれているのだ。「国境の南」の「ハジメくん」が絡め取られている「生活の場所」はあまりに居心地よく、もし過去の罪が顕在化していなかったら(浮気して徹底的に傷つけた元恋人の「イズミ」の消息を知ったことを指す)、「島本さん」の魅力がその「生活の場所」を凌駕することはなかっただろうし、「島本さん」はあまりに抽象的で、心中以外に添い遂げる方法がないことは、「ハジメくん」より読者の方が先に気づくように書かれている(そして、どう読んでも「ハジメくん」は心中するタイプには見えない)。「コンビニ人間」の「古倉さん」は「コンビニ店員」として完璧であり、「白羽さん」はあまりにも魅力がなく、どう考えても「古倉さん」が「コンビニエンスストア」を離脱して「白羽さん」と添い遂げるなどと想像できないように書かれている。この2作品における、「私」が「観光地」に取り込まれて「私の生活の場所」に戻ってこれなくなりそうに見せかけた場面は、あたかも助かると決まっている主人公のピンチにハラハラさせられるヒーロー映画のようである。これがこの2作品を読みやすくしている安全擬制であるが、毒はその先に仕掛けられている。
 この2作品の毒とは何か。単純なヒーローものなどであれば、主人公は一旦「奇妙な三角関係」に引き裂かれたことで「生活の場所」の有り難さ、美しさを再確認し、元の生活に戻れたことで喜びを噛みしめるというラストになるはずである。しかし「国境の南」も「コンビニ人間」も、戻った後のことは書かれていない。それどころか、戻った後、主人公は、かなり不幸な状況になるのではないかという予測がつくように書かれている。それでは何のために、彼/ 彼女は「奇妙な三角関係」を経験しなければならなかったのか。その意味は明らかにされない。主人公たちが「奇妙な三角関係」を経験し、「観光地」と「生活の場所」に引き裂かれんとしたことは、彼/彼女にとっては必然としてそうなったにもかかわらず、完全な徒労であり、むしろ彼/彼女を損なうことにしかならないのだ。「私」が「観光地」に赴く必然、についてもう少し作品に沿って説明すれば、「ハジメくん」にとって、「島本さん」にのめり込むのは必然であるように感じられる。本人が繰り返しそう述べているほか、「島本さん」は過去の罪を犯す前の無垢な「ハジメくん」のいるべき場所であったということから、客観的にもそのように自然に思える。「古倉さん」にとって、「白羽さん」 と同棲するのは必然のように感じられているかというと、そうは見えないかもしれない。しかし、「古倉さん」がもともと、「意味は分からないが他人がそうしていると安心する」という確固たる基準で行動を選んでいるという点に鑑みれば、「周りの皆さんはコンビニで働いているくらいでは納得しないらしい」と自覚してしまった以上、「白羽さん」との同棲の試みは必然以外のなにものでもない。そのような抗いがたい必然によって行動したにもかかわらず、その行動は無意味であった。余計なことをして損なわれ、その意味も分からないという状態が帰結されただけなのである。これがまさに、この2作品の毒なのだ。
 ここでもう一度、冒頭の「男」、この作品の読者としてこの批評が想定する人間を思い出して欲しい。読みやすいと思ってこの2作品を読み終えたその「男」は、なんとなく居心地の悪い思い、割り切れなさのようなものが残っていることに気づく。ふと、主人公たちが経験した「観光」の意味のなさ、分からなさ、そしてその消耗させられ具合をじっと考えてみたりする。するとどうだ。空間に亀裂が入り、人の生まるごとにまつわる意味のなさ、分からなさ、消耗させられ具合がその裂け目から奔流のように押し寄せてくるのだ。人は観光客のようにこの世界に来て、訳もわからず消耗し、いずれ元の世界に帰って行くだけなのではないか?有意義な観光というものを、我々はイメージできるのか?
 彼は呆然とする。この批評を書いている者は、彼が呆然としたまま打ち捨てられる様を見たくて「国境の南」と「コンビニ人間」のような作品を称揚しているわけではない。ただ次のように言い切りかつ促すことで、彼を救ってみたいのだ。「国境の南」は、「コンビニ人間」は、「観光」は、「奇妙な三角関係」への没入は、あるいはこれに類似する、生まれて死ぬという不条理に見えるこの条理は、ただ、書かれること、言葉にされることによってのみ意味を生ずるのだ、と。どのような意味が?もちろん、祝祭という意味である。言葉にされた疑問の奔流はそれ自体が祝祭である。もう少し先へ行こう。異物として互いに相容れない数多の祝祭の乱立した状況が、ポストモダンという言葉で表される。互いに迷惑を掛けずにおれないお祭り騒ぎ。世界とはそのようなものであり、絶望するも耽溺するも、個別の資質の問題であり、ただ絶望も耽溺も、それが言葉である以上、ただ祝祭の意味しかない。その認識をとりあえずの灯りとして、世界に埋め込まれた「奇妙な三角関係」を、恐れずにどんどん読み解いて行きたまえ。そして、書けるものならどんどん書いてみるといい。できることならたくさんの人に響くよう、分かりやすい言葉で丁寧に書いてくれると大変嬉しい。「国境の南」は、「コンビニ人間」は、書かれたことが祝祭なのだ、模範的な祝祭だ。文学は祝祭の模範である。とはいえ、書かなくては始まらない。なにはともあれ、君、書きたまえ、と。

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