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真面目に働いて幸せになれるならAIはいらない。

水戸黄門は真面目に働けと言うが…

父の病室で『水戸黄門』のBS再放送を一緒に観ていた。昭和から続いてきた国民的時代劇シリーズの西村晃主演版である。この回を観たのは恐らく初めてなのだが、恐ろしいまでに既視感があった。日本中を旅する水戸光圀は真面目に織物を生産する貧しい青年と知り合い、その青年が作った織物が強欲な商人と悪代官によって騙し取られていることを知る。青年には結婚を約束した相手がいたが、その娘すらも商人に奪われようとしていた。光圀は配下の者と共に戦い悪を成敗する。そして、青年は家族共々幸せになりました。めでたし、めでたし。

いま、この時代劇を「国民的」と書いたが、既に地上波からは消えている。昨年復活した新シリーズは、BS-TBSでの放送となっているのだ。1969年から松下電器産業(現在のパナソニック)一社提供で月曜夜8時に放送されていたが、2011年7月にシリーズ中止が決定される。理由はもちろん視聴率の低迷だが、その年に何があったかを考えれば、もう少し深く検証していいのかもしれない。

 

2011年と言えば、東日本大震災とそれに起因する原発事故があった年だ。その被害によって日本の大手電機企業の収益に与えた影響は確実にあった。だが、それだけではなく世界的な状況の変化が確認された時期でもある。例えば、先に登場したパナソニックは、2008年のリーマンショック以降、経営難に陥っており、2011年度末(2012年3月末決算)には、7721億円の最終赤字を報告している。他にもこの年には、ソニーが4567億円、シャープが3761億円、NECも1101億円の最終赤字となっている。そこには韓国や中国に代表される新興国企業躍進の影響があった。人件費の安い新興国に対抗するため、日本の大手電機においてもリストラ急務と言われていた。

パナソニックは2015年2月に「日本型雇用」の廃止を決断する。創業者の松下幸之助は「従業員は家族と同じ、企業は従業員とその家族の面倒を死ぬまで見る」と言い、「年功序列」「終身雇用」という言葉で代表される日本型雇用を打ち出し「経営の神様」と呼ばれた。しかし、1989年4月、昭和天皇を追うかのように幸之助は亡くなる。そして、グローバル化が進んだ現在には日本型雇用も許されなくなった。そもそも2008年に行われた松下電産からパナソニックへの社名変更もグローバル企業に相応しい名前をとの理由からだった。それは既定路線だったのだ。従業員は新しい神様を探す必要に迫られた。『水戸黄門』の地上波放送の終了は労働問題と大きく関わっていたのだ。

 

「不可能性の時代」の規範とは?

現在、フランスの哲学者、J・フランソワ・リオタールが「大きな物語の失墜」と呼び、社会学者の大澤真幸が「第三者の審級の撤退」と呼ぶような状況がある。私たちが生きる規範や、みんなに共通する価値観の効力が弱まっているのだ。女性専用車両に乗り込み抗議の声をあげる男性だっている。その一方で、経済合理性だけを追求する者は後をたたない。「お金の神様」だけが支持を世界中から集めている。しかし、これ以上便利になる必要もないし、富の集中を起こすべく一生懸命働く必要もないのではないか?

 

◎世界の富の82%、1%の富裕層に集中 国際NGO試算(朝日新聞、2018年1月22日)

https://www.asahi.com/articles/ASL1Q53MTL1QUHBI016.html

『世界で1年間に生み出された富(保有資産の増加分)のうち82%を、世界で最も豊かな上位1%が独占し、経済的に恵まれない下から半分(37億人)は財産が増えなかったとする報告書を発表した。資産の偏在が格差拡大を招いているとして、世界の指導者に対策を呼びかけた。報告書は、スイス金融大手クレディ・スイスによる家計資産のデータをもとに推計した。昨年6月までの1年間で上位1%の資産総額は、株価の上昇などによって7625億ドル(約84兆円)増えた。これは、1日1.9ドル未満で暮らす絶対的貧困をなくすのに必要な額の7倍以上にあたるという』(*1)

 

大澤は現在を「不可能性の時代(1995-現在)」と位置付ける。例えば「格差社会の到来」と言ったときに、その事自体が過酷なのではなく、「救済」や「希望」を見いだすことが不可能であることこそが過酷なのだと指摘する。それが「不可能生の時代」なのだ。1998年には自殺者数が急増し3万人を突破。その年は企業倒産件数が1万9171件と1984年に以来となる高水準だった。景気と自殺者数は関連しているのだ。大澤の時代区分をもう少し詳しく紹介しておこう。

大澤の師である社会学者の見田宗介は、現実を意味づける「反現実」の遷移を示しながら、日本の戦後を3つの時代に区分した。理想と現実、虚構と現実というように現実の反対語としてどのような言葉が使われたかを考えることで時代の変化を示したのだ。すなわち「理想の時代(1945-1960)」「夢の時代(1960-1975)」「虚構の時代(1975-1990)」と(『社会学入門』より)。それを受けて大澤は、「夢の時代」が「理想の時代」と「虚構の時代」に分割可能であると考え、新たに以下のような区分を示す。「理想の時代(1945-1970)」「虚構の時代(1970-1995)」「不可能性の時代(1995-現在)」。1970年と1995年が特異点として示されている(『不可能性の時代』より)。

大澤は現代社会が、2つのベクトルに引き裂かれていると言う。現実への逃避と、極端な虚構化。後者については前の時代の延長としての無菌化された虚構だが、前者については以下のように説明される。それまでの時代には、例えば現実でうまく行かない場合、夢や虚構に現実逃避した。ならば現在、「不可能性の時代」にはどこにへ逃避するか? 大澤は「現実」へと逃避すると指摘する。オウム・サリン事件(1995年3月)や世界中で頻発するテロ、またはリストカットなどの自傷。激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している。

 

そこで私は考える。「不可能性の時代」になっても、これまでの「規範」は生き続けるのだろうか? 希望が見出せないにも関わらず過酷な労働に従事しなければならないのだろうか? 人々は「働かざる者食うべからず」と言い続けるのだろうか? もちろん、まだまだ進歩を必要とする分野があることも事実だ。例えば介護ロボットのように。であるなら、目指すべきところだけでも変更したらいいのではないか? 経済成長を前提とした「理想」ではなく、もっと「ディストピア」的な状況を前提にした未来を考えるべきではないか? どうせAIの時代になれば、今ある仕事の半分はなくなると言われているのだし。

 

3行合わせて33000人の「銀行員の仕事」が消える(NEWSポストセブン)

https://www.news-postseven.com/archives/20171107_627123.html

『10月28日、みずほフィナンシャルグループ(FG)が今後10年で1万9000人分の業務量削減を検討していることが報道されると、三菱東京UFJ銀行が約9500人、三井住友FGは約4000人相当の業務量を減らす方針であることが相次いで報じられた。3行合わせて3万3000人の「銀行員の仕事」が消える──。過去の「クビ切りリストラ」と違う点は、3行ともAI(人工知能)などの活用によって人員や業務のスリム化を図るとされていることだ。(後略)』

 

AIが一般化した時代にも『水戸黄門』は続いているだろうか。もし続いているのなら、やはり「真面目に働けば幸せになれる」と言うのだろうか? その時代劇は私が指摘するまでもなくワンパターン・ドラマの代名詞だった。ワンパターンだと誰もが気づきながら、それでもなお(だからこそ?)42年もの間続き、BS放送とは言え、現在も継続中なのだ。これは驚くべきことではないか? 『水戸黄門』が発信するメッセージは明確だ。真面目に働く者のことを誰かが見ていて、そのような善良な人々を苦しめる悪は必ず成敗されるというものだ。

視聴者はこのメッセージを信じたのだろうか? 恐らく、信じていなかった。昭和の時代にも悪事を働く奴らのニュースは数知れずあった。であるなら、視聴者はこのドラマに何を求めたのだろうか? 「悪は必ず成敗される・・・そんな世の中であればいいなあ」、そう考える者が多数存在することを確認するためではなかったか。時代の変化はないがごとく、視聴率の高いこのドラマを見ることこそが安心に繋がった。水戸光圀のように、どこかで、誰かが見ていてくれる。実は、水戸光圀は天皇の代わりだった。それは山口昌男の言葉で言えば、「放浪の王」だ。であるなら、それの地上波放送が終了した2011年には、視聴者は「放浪の王」を必要としなくなったのだろうか?

 

実はそうではない。「放浪の王」は現実の存在として日本国中を回ることになる。国民に寄り添う今上天皇は、3月11日の震災以降、前原子力委員会委員長代理、警察庁長官、放射線被曝専門医、日本赤十字社社長、海上保安庁長官、日本看護協会会長などから説明を受け、情報取集を行い、3月30日からは自ら避難者への御見舞に出向かれている。4月、5月には、埼玉県加須市、千葉県旭市、茨城県北茨城市、宮城県南三陸町、仙台市、岩手県釜石市、宮古市、福島県福島市、相馬市、など被災地へ御見舞の訪問をされている。

もちろん、日常の公務や来賓との謁見も変わらずある中での行幸であった。多忙を極めたわけだが、その状況は82歳となった2016年にも変わらず、ついに生前退位の「お気持ち表明」となった。虚構の中の「放浪の王」の存在感は著しく低下していたが、まるで入れ替わるように、現日本の「王」は全国を飛び回る存在になっていた。そして、自ら体力の限界を表明するまで追い詰められたのだ。評論家の大塚英志は『感情化する社会』(2016年)において、象徴天皇制下の今上天皇の役割を以下のように説明する。

 

しかし、天皇もまた本来は宗教的な司祭であり、それこそ明治から昭和前期にかけては「神」として定義されていた。だから「国民」はその名残で神聖者としての天皇の「感情労働」を自明のことと思ってそれを彼に要求してきた。事実、天皇は「機能」として国民の感情を快適化することを局面局面で求められ、しかも、政策的提言や実践は許されず、感情労働のみが求められる。例えば被災地におもむき、彼は、感情を汲みとる。しかし、復興政策には少しも反映されない。

 

象徴天皇制とは「感情労働」(*2)を強いる制度だと大塚は語る。また、天皇は憲法下の権利を与えられていない存在であることもあり、そろそろその役目をなくすべきではないかと提言している。

 

テレビもまた「天皇」である。

今上天皇がテレビタレントのごとく、国民から愛される存在でなければならなくなったのはいつからなのだろう? 実のところ、国民がテレビ的価値観に染まったせいで、天皇がそれに従ったというのではない。国民にテレビを持たせたのもまた今上天皇だった。

1958年、皇太子明仁親王は「平民」出身の正田美智子との婚約を発表する。美智子は、日清製粉の創業者・正田貞一郎の三男で二代目社長・英三郎の長女として生まれる。それまで皇太子妃は皇族もしくは特定の華族から選ばれる習わしであったが、皇太子とは軽井沢での親善テニス・トーナメントで知り合っている。また、まだ昭和天皇に対する戦争責任を追及する戦中派の人々が健在な時代でもあり、左右双方からミッチー・ブームは困惑を持って迎えられた。

政治学者の松下圭一は「大衆天皇制」(1959年)の中で、マスコミによる「平民」との「恋愛」という方向付けがなされ、それまで皇室に無関心だった若い世代を一挙にブームに巻き込んだと書いている(*3)。

 

これまでの絶対天皇制のもとでは、天皇はときどき仁慈をたれたもうが、つねに畏怖されるべき神として「九重の雲の奥」にあった。奉安殿の御真影を想像すればよい。しかし敗戦後の天皇は背広姿となっている。その写真も家族団らんのなかで写されている。皇太子はスキーでころんだり、テニスをやっても女の子に負けてしまう。それに恋するではないか。このように皇室をかこむ雰囲気の変化は、憲法上の天皇の地位の変化以上に重要とみたい。今日、皇室は大衆にとってスターの聖家族となったのである。

 

(東宮職、小泉信三の「あまりロマンチックにこしらえるのは反対」と言う発言があった)けれども大衆は、皇太子妃を「平民」と「恋愛」の偶像として受け取らされた。(中略)天皇制を売り出しうるかどうかについて自信のなかった支配層は、マスコミに感謝してしかるべきであろう。「シンデレラ」の出現によってはじめて、皇室は大衆の「たのしい話題」となりえたのである。

 

松下は悪い政治の「悪」をスターの「美」が覆い隠すとも指摘している。皇太子は石原慎太郎や高倉健などのスター俳優と同じように、大衆のための「天皇」として扱われた。そして、「恋愛」のモデルと、それに繋がる理想の「家族」のモデルが、即位前の今上天皇によって大衆にもたらされたことに注目する。理想のモデルとは、即ちテレビで繰り返し放送されるアメリカ・ドラマの中の家族像であった。その延長上に現在の今上天皇・皇后や、私たち家族も存在しているのだ。

しかし、その家族像はどこまで有効なのだろう? 上野千鶴子の言う「おひとりさま」やオタク的な「○○はオレの嫁」という言葉は、単なる流行語ではなく、家庭を持たない層の拡大を示している。5年に1度、国立社会保障・人口問題研究所によって行われる生涯未婚率の調査(2015年)では、男性が23.37%、女性が14.06%だった。それは50歳まで一度も結婚したことがない人の割合だが、男女ともに前回より3ポイント以上アップしている。ちなみに、男性は1970年まで1%台だった。調査の回を追うごとに数値は上昇を続けているのだ。

 

テクノロジーは明るい未来を作るのか?

ここで携帯キャリアのCMに注目する。ソフトバンクの「白戸家シリーズ」は2007年の登場から話題を呼んだ。架空の家族、白戸家のお父さんは犬なのだ。知らない人のために書いておくと、真っ白な北海道犬で、話すことができる(声:北大路欣也)。また、新規顧客獲得競争で争うauのCMは「三太郎シリーズ」だ。2015年に始まったこちらは桃太郎、浦島太郎、金太郎という日本の昔話に登場する英雄(au )が、それぞれが新しい家族を作って行く。ソフトバンク、au共に家族にまつわる物語消費(*3)のCMとなっている。

新しく携帯を持つ十代の子らは自ら通信費を払うことはないだろう。つまり、両親が支払うだろうことを想定して、家族が描かれるCMが制作されるのかもしれない。だが、ソフトバンクと言えば、もう一つ話題になったCMがある。「感情エンジン」と「クラウドAI」を搭載した感情認識ヒューマノイドロボットPepper(ペッパー)のCMだ。ソフトバンクはこのロボットを2014年より19万8000円(税抜)で販売している。さらに、2015年にはサントリーBOSSのCMにPepperが出演。口が悪く家族が寄り付かない寂しい老人(北大路欣也)の側にPepperがやってくるというCMも放送された。冷たい家族よりもいくら悪口を言っても平気なPepperくんの方がいいというCMだった。

これはどう理解すればいいのだろう? コミュニケーションが苦手で寂しい人にとって、感情認識パーソナルロボットは有用な技術だ。だが、それがあれば家族はいなくてもいいということになるのだろうか? 介護ロボットもそうであるが、先にあるのは革新的な技術を必要とする人々だ。そして、その穴を埋めるがごとく新製品がやってくる。新製品は社会貢献のためだけでなく、資本の論理によって造られる。実はそのCMには、おじいちゃんと仲良くしたい孫娘の姿があった。だが、彼女のいるべき位置には、ペッパーが座ってしまった。

 

経済成長を目指し、安心・便利な世界を築くことと、幸せな家庭を築くこととは、相反する価値観なのだろうか? もちろん、一部の勝者は幸せな家庭を築けるかもしれないが、圧倒的多数の大衆はそれを望もうともしなくなるのではないか? 日本の生涯独身率の上昇はそのことを証明している。「おひとりさま」でも幸せな人生を送れるように、安価で楽しい娯楽がそこいら中に存在する。

テレビもまた国民に寄り添ってきた。一人一人を助けることは出来ないにしても、感情に寄り添い慰めてきた。標準語がテレビを媒介にして広がったというのは、よく知られている。それだけではなく、規範や価値観もそこから伝達されているはずだ。『水戸黄門』に限らず、人気ドラマの主人公はある種の規範に沿って行動する。刑事、医師、弁護士、教師などの主人公が、みんなそれぞれの「悪」と戦う姿を見る中で、視聴者は規範を確認するのだ。これらのドラマが人気を得るのは、人々が生きていくための規範を求めているからなのだろう。規範とはパーソンズによれば、文化体系の一部を構成し、「内面化」を通して人格体系へ、「制度化」を通して社会体系へそれぞれ定着し、人間の社会的生活の連続性、一貫性を保証する、と説明されている。「内面化」 によって生きる指針が生まれるだろうし、「制度化」によって法律が生まれるのだろう。

昭和天皇、今上天皇の代わりとして、国民は毎日見ることの出来るテレビの中の「天皇」を自ら選び、自らの「規範」とした。テレビもまた「天皇」だったのだ。そして、そのテレビが日本で普及したのは、今上天皇が結婚したときだと既に書いた。天皇が変われば、国民が選ぶ「天皇」も変わるのだろうか?

 

「働くべき」の規範を取り除くには?

クレージーキャッツの主演映画『無責任一代男』のストーリーはご存知だろうか? 全くぐうたらなサラリーマン平仁(たいらひとし:植木等)が、真面目に働かない無責任男のまんま社長になってしまうというストーリーだ。それは無責任男(天皇)がトップにいるという風刺だったのだろう。若者の圧倒的な支持を得た。

戦争責任があるかどうかが問われた昭和天皇の時代には、テレビや映画の中の「天皇」もポジティブなメッセージを発する存在とは限らなかった。もう一人の放浪の王・寅さんもフウテンだったことを思い出す。美空ひばりにしても背後にいるヤクザの存在が常に取りざたされた。「天皇」が綺麗な存在としてイメージされるようになったのはいつからか? やはり平成になってからかだろう。「平成のクレージー」ことSMAPの初期代表作に『がんばりましょう』(1994年9月)がある。そこには東京タワーに象徴される高度成長の時代は終わり、バブルも崩壊し、それでも「いつの日にか また幸せになりましょう」と歌う脱力系労働歌だった。SMAPはテレビの中に作られた「天皇」だったが、ポジティブなメッセージを発し続けた(*5)。

そして、私たちはついにポジティブなメッセージを発し続けた「天皇」が負ける姿を目撃する。SMAP解散のことだ。SMAPは既にジャニーズのトップを後輩グループ嵐に譲っていたが、震災の後には今上天皇と同じく存在感が増した。被災地復興を応援するNH特番『“明日へ”コンサート』では総合司会として中居正広が出演し、SMAPが歌う『オリジナル・スマイル』が話題になった。だが、SMAPもまた疲弊していた。以下の章で、平成という時代の終わりが告げられたのと同時に、解散を表明した国民的アイドル・グループについて考える。

 

2016年8月の天皇とSMAP

今上天皇は2016年8月8日、生前退位の意向を示す、いわゆる「お気持ち表明」を行った。今上天皇が即位する前、昭和天皇が1988年9月に大量吐血し、重体であることが発表されたときには、かなりの緊張感がテレビ、新聞などからも伝わった。今上天皇もそのときのことを思い「天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」と語っている。

安倍内閣は困惑の表情を見せもしたが、しかし、国民の反応はまったく静かなものだった。例えば、読売新聞が3日後に発表した世論調査においては、「よかった」が93%となっている。82歳という高齢を気遣う反応が多かったようだ。その年、月25日公務をこなす日もあり、ネット上には「ブラック日本の象徴」という言葉も飛び交った。

 

「お気持ち表明」の2日後、人気アイドルグループSMAPが、所属事務所の社長・ジャニー喜多川に解散の意思を表明している。翌日、ジャニーズ事務所の役員会議において、年内での解散が正式に決定。そして、8月14日には報道機関にもその内容が伝えられた。このとき芸能界的事情によってコントロールされたマスメディアは別にして、その解散を巡りネット上には様々な意見が噴出した。「SMAPはなぜ解散することになったのか?」「悪いのは事務所なのか?」。日本国民統合の象徴であるはずの天皇よりも、平均年齢40歳を超えたアイドルの解散に強い関心が集まったのだ。一体、この現象は何だったのか?

SMAPはなぜ解散したのか? 実のところ私は、事務所の横暴説はないと思っている。今上天皇と同じく体力の限界説を考えているのだ。それは肉体だけでなく精神的にも。SMAPだけでなく、国民的となった存在には必ずそのことを考える時期がやってくるのだ。いつ引退するのがいいか? 例えば、アニメ監督の宮崎駿は、まだまだやれると惜しまれながら(一度は)引退した。一方、サッカー選手のキングKAZUのように50歳を超えても戦い続ける選手もいる。引退の仕方はそれぞれだ。どのような最後を迎えるかにその人物の物語の一番濃い部分があるのかもしれない。

日本国民は「天皇」が大好きだった。「天皇制は必要か?」という議論は「テレビは必要か?」という議論と似ている。「天皇」もテレビも国民の気持ちに寄り添っているのだ。「天皇」が行う感情労働とは、人間の精神を疲弊させるような、どちらかと言えばAIに任せたい仕事ではないだろうか。「AIの時代」の到来前にも関わらず、その役目を人間に押し付けているから、みんな磨り減ってしまったのではないか? 天皇にしても、アイドルにしてもだ。

 

ベーシック・インカムで日本型社会主義

ソヴィエト連邦崩壊以降、資本主義は化粧をする必要がなくなった。むき出しの欲望をそのまま露出する。アメリカでは2008年、サブプライムローン問題を発端にした金融危機が起こる。政府は7000億ドルの公的資金を市場に投入して世界恐慌を回避する。だが、「貧困は自己責任と言い放ってきた」ウォール街への不満は国民の間で広がっていた。2011年にはウォール街占拠運動があった。富の集中は問題であり続けている。であるなら、もう一度、資本主義に対抗する勢力が必要と言えるだろう。そう、理想的な社会主義と言われた日本型社会主義の復活である。もちろん、それは日本型雇用をベースに築かれるのではない。BIによる日本型社会主義だ。

働かなくても一定の金額が国民に一様に支給されるベーシックインカム(以下BIと略す)の試験導入がフィンランドや、アメリカのカリフォルニア州などでも開始されている。BIのメリットには、最低限の生活保障と行政コストの削減などがある。一方、デメリットには、巨額財源の必要と勤労意欲の減退懸念があると言われている。デメリットはあったとしても、AIやロボットが一般化した時代には、求人は激減するだろうし、それを手当てする必要に政府は迫られる。それを無駄な公共投資で補うというのは悪手だろう。

 

今年3月4日にイタリアで行われた総選挙では、主要政党の2つが BI導入を公約としてアピールしている。一つは元コメディアンのベッペ・グリッロが創設した「五つ星運動」。そして、元首相であり、元ACミラン・オーナーでもあるシルヴィオ・ベルルスコーニの「フォルッア・イタリア」だ。共にポピュリズム政党と呼ばれており、財政難の中、BIの実現性は低いと言われている。 イタリアで公約がどれほど守られるものなかのかはわからないが、注目される出来事ではあったはずだ。結果は過半数を取る政党はなかったものの、2つの政党が躍進し、与党(中道左派)の一人負けとなっている。3月現在、首相は決まっていない。

日本ではBI導入を公約に掲げる政党はない。それはポピュリズム政党がないという意味ではない。BI導入を求める国民がまだ少ないのだ。「働かざる者食うべからず」の規範はまだまだ生きている。人間は仕事をしないとダメになってしまうのだろうか? 日本ではそう考える人が多いようだ。しかし、BIだって働くことなしに生活を維持できるわけではない。想定される7万円では現在の生活を維持することは不可能だろう。

BIにもいろんなパターンがあり、現在ある社会保障にプラスしてBIを導入する場合もある。日本においては年金に対する信用の低下から、将来不安を解消する役割も期待できる。

 

AIは私たちの神となるのか?

AIが導く未来に希望を持つことは可能なのだろうか? AIが普及し、BIで最低限の生活が保証されればそれでいいのだろうか? 近代以降、人類は技術革新に務めてきた。だが、それは結局のところ、家族の座るべき食卓にロボットの席を作るだけだったのではないか? ロボットが一人に一台充てがわれる未来が理想の未来なのだろうか? 規範は私たちの社会が目指している究極の目標の如何によって変わる。ならば、いま私たちはどこを目指しているのかが問題になる。規範とは私たちが生きていくための地図でもある。そして、労働が必要でなくなる大変化の時代が近づいている。新しい地図が求められているのだ。

 

2017年9月22日、元SMAPのメンバー3人が「新しい地図」として再出発した。所属は元マネージャー飯島三智によって設立された事務所・CULEN。最初の活動の舞台はネットメディアだった。草彅剛はYoutubeに、稲垣吾郎はブログに、香取慎吾はインスタグラムにそれぞれ降臨した。それは「天皇」から降りた彼らの人間宣言を思わせた。また無料インターネットテレビ局AbemaTVでは11月2日から4日に渡って『72時間ホンネテレビ』が放送された。

その番組のテーマソングは新しい地図の3人が歌う『72』だった。そこには、「ずっとずっと こんなふうに遊んでいられたら」という歌詞があった。作詞、作曲、編曲全て元ピチカート・ファイヴの小西康陽だ。

現在、子供達の将来の夢として、「ユーチューバーになりたい」というものがある。「それは仕事なのか?」と大人は考えるかもしれない。しかし、子供たちが大人になったとき、その世界には労働がなくなっているかもしれないのだ。であるなら、その夢も叶うかもしれない。私たちはそんな予測不可能な時代を生きている。新しい天皇も、公務より遊びを優先したらいいのではないか? そもそも平安時代には、天皇は芸事に秀でた人として尊敬を集めた。京都に移住してリスタートするのもいいのではないか?(おわり)

 

*1:このデータを出した国際NGOオックスファムは、このニュースの後、2011年のハイチ被災地支援の際に、職員が児童売春をしていた疑惑が発覚、問題となっている。

*2:感情労働とは、アメリカの社会学者、 A・R・ホックシールドによって提唱された概念で、感情が労働内容の不可欠な内容であって、かつ適切・不適切な感情がルール化されてるような労働のこと。例えば、看護師やマクドナルドの「スマイル0円」などが挙げられている。

*3:松下圭一「大衆天皇制」は、月刊誌『中央公論』の1959年4月号に収録された文章で、後に宇野重規編『民主主義と市民社会 第3巻』に収録されている。

*4:大塚英志『物語消費論』。

*5:SMAPは昭和天皇のコピーとして、テレビの中の「天皇」として存在したという文書を以前書いた。

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/2335/

 

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