『クリーピー』の「穴」は原発の「穴」。

黒沢清監督の映画『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)には、原作となるサスペンス小説がある。だが、映画では原作において謎解きがされる後半はほとんど使われていない。これはかなり大胆な改変と言っていいだろう。黒沢はインタビューにおいて「探し求めていた犯人が隣に住んでいた」という秀逸なアイデアを中心にして映画を撮ったと語る(以下、監督の発言はすべてYoutube上にある『C2 WEB版』でのインタビューによる)。映画はサスペンスでありながら、さらに、不穏な音楽が観客の恐怖心を煽り続けるにも関わらず、なのに、どう観たって滑稽でしかない登場人物の姿が描かれるコメディ映画になっている。これは一体どういうことなのだろう?

もちろん小説をまんべんなく映像化することは出来ないし、映画監督がどこに焦点をあわせるかは自由であるだろう。だが、映画で消し去られた部分が、以下のような箇所であったことを知れば、そこに理由があると知ることになる。ごく簡単に書くと、前川裕著『クリーピー』(2012年)は、脚に障害を持つ女性が、連続殺人をすることによってそれまでの不幸を乗り越え、幸福を得るというストーリーになっている。凶悪犯を殺した彼女に罪はないと言えるのだろうか? それを小説の「自由」と言うのはかなり難しい。これは文学批評で「俗情との結託」と呼ばれているものだ。文芸批評家の渡部直己はその言葉を創った大西巨人や、物語の本質として読者に突きつけた中上健次ら小説家の名前を出しつつ、以下のように書く。

「物語」とはたえず、常ならぬものにたちこめる劇的な落差に鼓舞されてあり、「俗情」はまさに、その落差を求めるのである。したがって、この欲望に無防備である度合に応じて、物語の根はたえず〈差別〉を求め、〈差別〉は「物語」を生む。『近代文学と〈差別〉』(P12、1994年)

物語作家は落差に誘惑される。しかし、それに自覚的であり、抗う必要がある。黒沢は小説の大部分を削って出来た「穴」を、映像として具現化したまさに「穴」を用意することで飛び越えて見せる。その「穴」に人々は吸い寄せられ、繋がれたわけでもないのに離れられなくなる。刑事・谷本は「そっちに行ってはダメだ」という観客の願いも虚しく、まんまと「穴」に落ちる。谷本は間違いなく死ぬと観客は知っている。それでも、その見事な落ち方を観て笑いを堪えることが出来ないのだ。怪作とも言えるコメディ映画が誕生した。これは「穴」にまつわる映画なのだ。

 

登場人物にはそれぞれが持ついくつかのメタファーがある。それを説明する為に、映画のあらすじを簡単に紹介しておく。日野市一家三人行方不明事件は、当時中学生だった長女の早紀を残して、両親と兄がこつぜんと消えた事件だった。大学で犯罪心理学を教える高倉幸一は事件を探るうちに奇妙なことに気づく。早紀がかつて住んでいた家と隣二軒の配置が「コの字型」になっており、事件は真ん中の家で起きていた。そして、高倉が現在住んでいる家も隣二軒と「コの字型」に配置されており、真ん中には西野の家がある。これは単なる偶然に過ぎないのだろうか? 西野の存在が高倉の中で大きくなって行く。

ある日、西野の娘・澪が「あの人、お父さんじゃない」と高倉に告げる。西野家に入り込み、父親を殺させ、男は澪の父になりすましていた。西野家の奥には頑丈な金属製の扉があり、そこから地下に降りると「穴」が口を開いている。そして、澪の父と兄の遺体がそこに捨てられるのだ。男は自ら殺しはしない。言葉と薬物でコントロールして、それをさせる。凶悪犯としての姿を西野が見せ始め、ついに高倉と対決することになる。しかし、既に西野によって薬漬けにされた妻・康子に注射を打たれ、高倉も西野の家族にされてしまう。そして、ラストに向かうわけだが、最後の対決で「これがあんたの落とし穴だ!」という決め台詞と共に、高倉は西野を銃で撃ち殺す。この「落とし穴」という言葉が観客の印象に強く残る。

黒沢が映画のテーマにした「穴」とは一体なんなのだろうか? それはラストになってはっきりする。凶悪犯・西野が死んだことで、観客はこれで平和な日常が戻ってくると安心する。しかし、それで終わらないのが黒沢の映画である。そこから康子がゆっくりと歩き出し、田んぼの縁まで来て絶叫する。顔面は蒼白で既に人間ではないように見える。高倉はそんな妻を抱きしめようとするが、康子は身を委ねることを拒否するかのように、背中に爪を立てて叫ぶのだ。観客はそこで初めて康子が「ゴジラ」になったことに気づく。西野は「原発」のメタファーであり、銃で「穴」を開けたことで放射能が流出する。それを浴びた康子はゴジラになったのだ。

西野という連続殺人犯は「巨大地震」のメタファーでもある。高倉の授業では、連続殺人犯には、秩序型、無秩序型、混合型があり、その中で混合型についてはほとんど分析不可能であることが告げられる。彼らが殺人を犯すきっかけも、周期も連続性も、すべてが混乱していて手の打ちようがないと語るのだ。高倉は巨大地震の予知が不可能だと語る「地震学者」のメタファーなのだ。西野は高いところから双眼鏡で「コの字型」に並ぶ家を探すが、それは「原発」を探す「巨大地震」という表現だ。そんなバカなと思うかもしれないが、繰り返すように、この映画はコメディなのだ。

黒沢は西野の人物造形において、完全な悪にはしなかったと語る。「法律にも捕われない自由な存在。極端に言えば無責任シリーズの植木等のような」と表現している。つまり、西野は凶悪犯である一方で、高度経済成長時代のヒーロー「無責任男」でもあるわけだ。これは日本の経済成長と原発が切り離せなくあったという意味になるだろう。澪によってビニール袋に詰められ、真空パックにして「穴」に捨てられた遺体、それはもちろん「放射性廃棄物」である。また、康子が西野に打たれる「注射」は、原発の立地する地域に配られる「交付金」であるだろう。それにより善良な人々も「穴」から離れられなくなる。

 

原発事故をコメディにすることを不謹慎と言う人がいるだろうか? しかし、そうではない。福島県の双葉町、大熊町、浪江町を中心に、事故から6年が経過した現在でも帰宅困難地域は存在している。そんな取り返しのつかない事故が起こったにも関わらず、それでも原発を必要とすることこそ不謹慎なのではないか? それでも日本は原発を諦めない。この姿を外から観れば、この映画のようにこっけいに映るのではないか?

再び、ラストシーンを観てみよう。康子が運転する自動車で移動する。しかし、その背景はまったく現実感を欠いている。黒雲の中を走っているかのように風景は重く動かない。ここからはファンタジーだと表現しているのだ。つまり、西野はラストで死んでいるが、それが現実の出来事なのかは判断がつかない。当然と言えば当然のことではある。日本は巨大地震の繰り返しによって出来た島国なのだ。突然、落とし穴に落ちる。落ちるとわかっているのに落ちる。巨大地震が多発する日本列島では、原発の危険は自明のはずだ。それは突然の「落とし穴」としていつか必ず我々の眼前に顔をだす。そこにいる者は危ないとわかっていてもその「穴」に落ちるしかない。いつかはわからないが間違いなく西野は再び動き出すだろう。そして、ゴジラの号砲が今も耳の奥で鳴り続けている。

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