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ソラリス/2020

 

0、

中学に入ると、気の合う友人が一人もいなくなったので、学校をさぼりがちになって家で映画ばかり見ていた。2003年ごろのことだ。リビングのテレビにつながれているプレイステーション2だけが、この家にあるほぼ唯一のDVD再生装置だった。だから、どんな映画を見ているかというのはいつも家族に筒抜けだったし、母親は「学校にも行かないで、映画ばっかり見ているんじゃない」と、ある時点までは息子に言って聞かせた。

13歳のある夜、家族が夕食を食べている席の傍らで、ペドロ・アルモドヴァルの『トーク・トゥ・ハー』(2002)を見ていた。スペインの映画だ。周囲から同性愛者だと思われている男性看護師ベニグノは、昏睡状態の若い女性アリシアを4年間看病し続けている。ある日、出産で昏睡から目を覚ました別の患者の症例を聞いたベニグノは、看護師の立場を利用してアリシアを妊娠させる。

彼がこのアイデアを思いつくのは、あるB級サイレント映画を見たのがきっかけだ。それは、際限なく身体が縮んでいく薬品を飲んでしまう科学者の話だった。終盤で親指大になってしまったその科学者は、顔だけでももう自分の何倍もの大きさの恋人とまともな性行為には及べなくなっている。そこで彼は、一糸纏わぬ姿でベッドに横たわる恋人を前にしたとき、彼女への愛を表現するために画面いっぱいに広がる巨大な裂け目となった女性器を抜けて彼女自身の中に入っていくことになった。

アリシアの妊娠が明るみになった後、ベニグノは投獄されるが、妊娠した子どもを流産したアリシアはそのショックで意識を取り戻す。彼女の回復の報を受けたベニグノは獄中で自殺する。

息子がその映画を見ているのを見ていた母親は唖然とし、それ以来どんな映画を見ているかについて何も言わなくなった。この個人的な経験は何を意味するのか。大げさに言えばそれはきっと、画面の母親に対する束の間の勝利だ。画面は親にできない教育を子どもにほどこし、親以上に子どもを引きつけた。

最近、街を歩けば、まだ歩くのもままならない幼児にスマートフォンを持たせて泣き止ませている親を度々見かける。きっとテレビが一般家庭に普及してからというもの、ずっと前から「画面」という装置は母親に次ぐか、もはや取って代わろうとするほど強力な子守だったのだ。1990年前後に生まれた世代にとって、3歳だか4歳ごろにVHSで何度も同じアニメーションを繰り返し見た記憶のある人は多いはずだ。テレビに続き、VHSレコーダーが普及すると、今度はそれで同じ映像を繰り返して見ることができるようになり、VHSはやがてDVDに代わり、今度は動画の配信サイトに代わり、再生機器もテレビからパソコン、そして携帯電話のそれへと変貌した。今では小学生は芸能人よりもスポーツ選手よりもYoutuberに憧れるという。

だから反対に、テレビを見ながらご飯を食べるなんて、まあはしたない、としつけられて育ったなんて話も同じくらいよく耳にしたことがあって、そういえば母親は、映画ばかり見ているな、の前は、テレビばかり見ているな、と注意していたのでその度に、別にテレビが見たいわけじゃないんだ、と言い訳をしていた。

あまり仲のよい家族ではなかった。母と祖母はしょっちゅう喧嘩をしていた。一つ屋根の下に住む大人同士の仲が一度険悪になると、彼らがいちいち怒鳴りあっていないときも、その二人が意地を張り合うときお居心地の悪い無言の間が、小さな木造二階建ての家中に張り詰めた。

別にテレビが見たいわけじゃないんだ。その無言の間が気持ち悪いから、うるさい音をずっと流しているんだ。テレビを消してほしいなら、喧嘩しないでくれ。小学生の子どもにそう言われても、喧嘩というのはそうそうしたくて始めたりやめたりできるものでもないし、二人の大人はリビングに画面から安っぽい笑い声が鳴り響くのを許してくれるようになった。画面はそうして現実の生活の逃げ道になった。

ところで、実はこれはスタニスワフ・レムというポーランドの作家が1961年に書いた『ソラリス』という小説の作品評として書き出されている。そして、書き手は、ある種の発達論としてこの作品を解釈しようとしている。

50年も前に書かれた小説について今、論じる価値はあるだろうか。まず、現代を生きている自分の身の上を振り返ってみた。自分が触れながら育った映像というテクノロジーというか文化というか、まあそういったものがどう扱われているかを追いかけながら、当世風の解釈ができるのではないかと、少しずつこうして書き進めている。

これを書いている段階で、この試みがうまくいくかどうかはわからない。しかし結果として、この小説から、現代というこの小さな時間を解釈するための示唆がもたらされることがあれば、これは有益な試みとして幕を閉じてくれるだろう。

1、

まず、『ソラリス(Solaris)』のあらすじを紹介しておこう。

遠い未来、奇妙な海で覆われたソラリスという惑星の調査に心理学者クリス・ケルヴィンという宇宙飛行士がやってくる。彼は、惑星の上空に浮かぶステーションに到着するや否や現場がなんらかの異常事態に晒されていることを察知する。上司のギバリャンは自殺し、同僚のスナウトとはまともに話が通じず、物理学者のサルトリウスは実験室の外に出て来ない。ケルヴィンは不安に苛まれながら、ステーションが置かれた状況を把握しよう調べて回る。ある朝、彼が目覚めると、自殺したはずの恋人ハリーがすぐ横で眠っている。ハリーはどうやらソラリスの海が作り出した「客」と呼ばれる精巧な幻覚のようだ。しかし、なぜ海がそのようなことをするのかは誰にもわからない。

今から50年以上前に書かれたこの小説を現代に論じる意義について確かめるため、これまで「ソラリス」にどんな光が当てられてきたか振り返ってみよう。本書の第2章「ソラリス学者たち」では「この惑星は赤色と青色の二つの太陽のまわりを回っている。(…)そういった惑星の軌道は、二つの太陽の相互回転の際に生ずる重力の戯れの結果、絶えず変化する。1」と、説明されている。

惑星ソラリスは、「ソラリスの海」と呼ばれる液状の物質に取り囲まれていた。ソラリスを発見した学者たちは探検隊を派遣し、それぞれの専門分野で調査を進めるうちに、この惑星が二つの太陽に挟まれた不安定な重力場で一定の軌道を保っているのは、ソラリスの海がなにかしらの意志を持った巨大な知的生命体だからではないかと仮説を立てるようになる。

「ソラリス」はある点では「コンタクト」とその失敗の物語だ。ソラリスの探索を続ける人類は、この海がなにかしらの意思疎通が可能な生命体であることを期待し、あらゆる方法で海との交流を試みる。そのために電気からX線まで様々な刺激を海に浴びせるが、どの刺激にも2度は同じ反応を返してもらえない。試みはことごとく失敗する。

失敗は何を意味するか。本書の大きなテーマの一つは、何もかもが「わかる」わけではないという事実を人類に突きつけることにある。ソラリス研究の失敗の連続はこうして人間が「自分のことを聖なる接触(コンタクト)の騎士2」だと思っていると暴き始める。

人間は「人間的で気高いから、宇宙に住む他の種族を征服しようなどとは思わない。ただ、自分たちが貴重と見なすものを彼らに伝え、その代わりに彼らの遺産を受け継いでしまおう3」としている。彼らは何かを理解しようとし、自らの持っているものさしであらゆるものを計ろうとするあまり、わからないものの前で思いとどまるということができない。それをレムは「人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。他の世界なんて、どうしたらいいのかわからない。いまある自分たちの世界だけで十分なんだが、その一方で、それだけじゃもう息が詰まってしまうとも感じている。そこで自分自身の理想化された姿を見つけたくなるのさ。4」と辛辣に批評する。

ただ、こうして「コンタクト」は失敗しました、では小説が終わってしまう。

そこで、ソラリスの海が送ってよこす「客」とは結局何なのか、という問題がケルヴィンたちの前に残される。毎朝、彼が目をさますと隣には自殺したはずのかつての恋人ハリーが寝転んでいる。「客」とはソラリスの海が勝手に、探索者の深層心理を解析し、それをコピーしてよこす人間もどきだ。そして「客」は他の宇宙飛行士たちの前にもやってくる。当人にとってのなんらかの重要人物の周到な再現が、朝起きると横で眠っているという現象は、ケルヴィンだけでなく彼の同僚たちにも起きてきた。そして、ギバリャンはこの幻覚を消そうとして、狂気に苛まれ自殺した。

「客」とは何か。それは海の習性なのか、意志なのか。どの程度それは海の本質に関わることなのか。彼らには最後までわからない。レムはなぜこのような要素を使って人類とソラリスの海との関係を描こうとしたのか。

2、

決してそう想定して書かれたわけではないだろうが、『ソラリス』のある一節はまるで今にも生まれようとする赤ん坊の姿を想起させる。

「そして私はまたもや重要な瞬間を見逃してしまった。惑星が現れた瞬間だ。気づいたとき惑星はもう巨大で平たい姿を広げていた。その表面の縞の太さから、まだ自分が遠くにいると見当をつけることができた。いや、遠くではなく、高いところにいると言うべきだろう。というのも、天体からの距離が高さに変わる、あの捉えがたい境界をすでに過ぎていたからだ。私は落ちていった。相変わらず落ち続けていた。5

宇宙飛行士ケルヴィンは、ソラリス到着の瞬間に「自分と惑星」であるはずの関係が「自分と地面」という関係に変わる瞬間をこうして一つ一つ言葉にして確かめている。彼が見逃したとして悔いているのは、「接近」が「落下」に変わる瞬間だ。

地球に生まれた者にとって、地面は最初から当たり前のように地面だった。だから全体像を持った総体としての「地球」は、宇宙飛行士だけが知っているが、一方、宇宙に飛び出したケルヴィンのような宇宙飛行士は今度、別のある星への着陸のときに「地面」というものをもう一度認識し直すことになる。それは二度目の誕生だ。

「親」にも同じことがいえるのではないか、例えば母親。その人は、自分が生まれてくる前はただ一人の女性であり、個人であり、誰かの娘であり、誰かの姉か妹か、もしくは誰かの恋人か妻であったかもしれない。それなのに、子どもにとっては生まれた時からその子が死ぬまでずっと彼女は母親でしかない。

とこんなことを言って、ねちっこいマザコン談義だと思われ、うんざりされても困るので、いやそういう話がしたいのではないことをことわっておかなければいけない。ここでは、子どもを持った女性が何かの覚悟を得て誰もが、母親という役割を立派にこなすようになるという話をしたいのでは決してなくて、多くの母親がもちろん、個人としての時間を払い、子どもを生み、育て、養うのだろうけれど、その一方でまたその多くの母親が、自分の子どもがある程度大きくなれば、その彼または彼女対して、ときに母親のほうから感情をむき出しにしたり、悩みを相談したり、むしろ母親であるという立場を利用して子どもっぽく威張ってみせたりもする。

「親」というイデアルな役割が先にあるのではない。もちろん親が、いわゆる親らしく振舞ってくれる時間と同じくらいに、その人が自分の子どもを妹か弟のように、または配偶者のように、恋人のように都合よく扱ったりする時間もある。つまり子どもの前でさえ、母親なら母親は一人の女として、または人間として振舞うことがある。しかし、どんな風に振舞おうと、彼女によって演じられた複数の演じられたキャラクターの混淆をその子は自分にとっての「母親」としてまず認識する。するしかない。それがどんなものであっても、子どもは「これが母親か」と認めるしかない。だから、生まれたときから自分の保護者が、当たり前のように存在するときのその「当たり前」とはそのくらいいい加減なのではないだろうか。というような親のような地面の上に私たちは立っているのだ。

個人的には親とは自分にとってそういうものであったし、私の友人にも少なからずそういう経験をした人がいる、なんて自分の話にしてしまうと、今度は逆にそんな体験をしたのはお前だけだろうと、サンプルの特異性ばかりが増して、せっかくここで補強しようとした信ぴょう性に逆効果だろうか。そのせいで、ここまで書いたものが、ずいぶん少ない人数にしか実感を持って届かないものになるかもしれない。そういう不安にも陥るが、ともあれその私と同じようにそういうある意味でどこか子どもに対して子どもっぽい、「不完全な」親を持ったその友人は、そういえば最近母親を亡くしたばかりで、葬式が終わった後、父親が死んだ奥さんを思い出して、妙な眼差しを自分に向けてくるようになったとかいう話を聞かせてくれて、ああ、そういうのは首から鎖骨のあたりにぞわーっとさざなみが立つように感じるよね、って言うと、そうそう、わかるわかる、なんて答えてくれて、この話をした話自体をまた別の友達に話したりすると、そうそう、そだねー、すごくわかるね、私はお姉ちゃんからそういうのを感じたことがあって、そのとき確かに首のあたりがぞわーってしたとか言うのだけど、やはりこれでは統計データとしてはあまりに心許ないので、きっとこの部分は後で消すことになるだろう。

そこで、最初に書いた『トーク・トゥ・ハー』の体験は、この気味の悪いささやかな近親相姦の兆しに、即効性の消毒液として役割を果たした。映画を見た後、母親が「ハリー・ポッターとかそういうのを見ているんだと思ってた。そうではないのね」と言って、なにかを理解してくれたとき、じゃあ、なにを見ていたのかと言われると、答えに窮するが、そうして母の子に対する興味がぞわーっと一度、反対向きのさざなみとして引いていった。

数年後、母親が一人で住む自宅のマンションに、そのとき親しくしていた女の子を連れて行ったとき、彼女を前にした瞬間、また同じようにこの首筋のビッグウェーブがやってくる。そのとき、これは『トーク・トゥ・ハー』のときのあれか、とか思ったりもして、確かに、母が知らず知らずそれまでまとっていた「女」とか「恋人」とか「気安い友人」みたいな役柄が、一瞬抜け落ちて底に穴の空いたコップから漏れた水みたいにこぼれ、その女の子のほうにすうっと吸い取られていった。

母はどうやらその女の子のことを気に入ったらしく、実際に彼女よりも5センチほど身長の高かったその彼女のことを「背が高いのね」と言うと、それは言葉通りの意味なのか、なにか含みがあるのかなんとも言えないトーンを帯びたが、確かに母はいつもよりも少し小さく老いて見えた。それはある意味、それまで自分が母親というケルヴィンにとってのハリーみたいなものだったのだし、それが少しそのときに終わったのだと感じられる体験だった。

ケルヴィンの前にソラリスの海がハリーの幻覚を丁寧に何度も送ってくるのは、彼女が彼のトラウマだからだ。それはハリーが深層心理で欲するものであり、それゆえに彼自身でもある。それは彼の記憶が作り出した幻覚だ。しかし、ケルヴィンが「客」のハリーのことを本物のハリーであるふりをして扱ってあげないとケルヴィンはハリーを受け取れない。ケルヴィンがこのやりとりを「これはもう演技だった6」と嘆くが、その演技がないと彼は「客」を通じた海とのやりとりに参加できないので、結果としてステーションはその演技を上演する専用の舞台装置になる。

201711月に、地方から出張で上京していた友人と新宿で待ち合わせて、土曜の夜の仕事終わりだったからもう22時を過ぎていたのだけれど、一緒にラーメンを食べながら、その友人の仕事の話なんかをすると、その人が舞台用のプロジェクション・マッピングの仕事をしていたということもあって、じゃあいっそのこと、その日に公開した『ブレードランナー2049』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)を見に行くかということになって、雨の降る深夜の歌舞伎町のネオン街を二人で一本のビニール傘をさしながら映画館を目指して映画館に行ってその映画を見ると、それがまるで映画館の外と同じ真夜中の歌舞伎町の街路を観光客気分で歩くみたいな映画だったので驚いた。

そして、真っ暗な廃墟を照らす近未来のネオン街で繰り広げられるこのSF映画が去年、まずさいそに『ソラリス』のことをより現代的なテーマの中で思い出させた。そこではケルヴィンとハリーの恋愛劇が見知らぬ星のそれではなく、テクノロジーと資本主義経済、そしてデータの海の物語として再演されている。

 レプリカントという人造人間と人間とが共存するようになった世界で刑事として働く K と、彼を慕うホログラムの人工知能ジョイ。K は新しく購入したポータブル機器を使って、パートナーのジョイを家から連れ出すことができるようになる。しかし、自宅から遠く離れたところで、彼の行く手を阻む敵の攻撃によってこの機器かは破壊され、彼のことをよく知っているジョイは永遠に失われる。

 しかし、都市に戻った K の前にクラウド AI彼女が、巨大なホログラムの身体を持った街頭広告として再び現れる。ジョイは、ときにバレリーナのコスチュームに身を包み、ときにピンク色の裸体を晒し、いかにも広告らしい媚態で彼のことを見つめ返す。元々企業が生産した製品であったはずのジョイは、まるで人格を持つパートナーのように所有者の Kに仕えた。彼もまた彼女とのやりとりに没入したが、彼が心を見出したはずのそのデータの集積が消去された後、彼女はどうしようもなく物(プロダクト)として彼のもとに帰ってくる。

 『ブレードランナー2049』のジョイはまるで企業が作り出した商品としてのハリーのようだ。男は失われた恋人を欲し、思い出を再演するサービスが提供され、女はそのために商品としてやってくる。ステレオタイプなジェンダー観のもとで行われる、ショウケースの中の食事シーンのようなやりとりだ。

 しかし、商品としてやってくるのは明確な機能を持った、つくりものの女なのだ。それは、一つの人格というよりもむしろ、オーダーメイドのおしゃぶりに近い。彼女たちは人格=キャラクターであるように見えるけれど、同時に人工のメディアそのものでもある。しかし、消費者である男たちがそこに心を見出すからこそ、心の有無という問題がもはや人格やその人だけの固有性とは関係のない、ただ共感できるかどうかだけが重要な問題になる。

 この状況で『ソラリス』の作者、レムが私たちの好奇心について、ある種の意地悪な批評をしている。私たちは自分の知らないものやことを知りたいと欲するが、それはつまり自分がほしいものを知らないということでもある。そして、人は自分の知らない物を与えられたとき、それが何であるかに気づくことができず、受け取ることができない。だから、手元にはいつも自分がよく知っている、自分の欲しいものだけがやってくる。これを彼は「鏡」という一語で表現する。

 もちろんその「客」が本物のハリーでないことをケルヴィンはよく知っている。だから彼はハリーを何度も破壊する。彼はそうしてハリーではないものを受け取ろうとする。自分が知らないもの、自分が欲しているかどうかもわからないものを受け取る可能性に賭け続ける。しかし、その度にケルヴィンの元に何度も彼女は戻ってくる。

 ところで、ハリーが帰ってくるのは今風に言えば、海というクラウドに彼女のバックアップがきちんと保存されているからではないだろうか。

 ジョイの撮影は、人工で作り出した霧にプロジェクターで映像を投影することで行われた。そして、それは都市に降り注ぐ雨に映された街頭広告として視覚化する。クラウドA.I.である、彼女はデータの海からできた雲を通って都市に降り注ぐ雨粒でもある。

 映画が終わったあとに、夜明け前のよく濡れた新宿の街を歩きながら、コンビニとキャバクラと、ファミレスと、街頭広告に照らされながら考えたのは、『ソラリス』に登場する「鏡」でできた舞台装置とは、つまりこの夜中の歌舞伎町のような都市だということだ。鑑賞後に駆け込んだタイル張りのテカテカ光るトイレのことが忘れられない。ずらっと並んだ真っ白な男性用便器の群れはすべてCGでできていたのではないかとさえ、思えている。あれは確かにそのとき、垂れ流される小便を一つ残らず受けてくれていただろうか。

 

3、

 

 あの夜の歌舞伎町から、ずっと作られた夢の世界に紛れ込んでしまったのではないか、という安っぽい設定で発想されたSF映画や小説はたくさんあるだろう。

 特定の感覚刺激を記録し、ユーザーに体感させることで実際にはその場にないものを体感させるバーチャル・リアリティ(VR)技術が急激に注目を集めだしたのは2016年のことだ。その歴史は1930年代の、飛行機シミュレーターの開発まで遡ることができる。2012年のヘッドマウント・ディスプレイ「Oculus Rift」の開発や、2016年のサムスンによる、スマートフォンの装着で手軽に使えるモバイルVRGear VR」などの一部普及で、VRはモーターショーやメディアアートのメインコンテンツになった。

 ブームから2年余りが経過し、コンテンツのバリエーション不足や、車酔い、機器の高価さなどがネックになって売り上げは伸び悩んでいるともされるが、仮想現実世界を作り出そうという欲望は人類の根幹にあるのではないか。というのも、あの夜の歌舞伎町がVRではないとしても、ああした都市というものがまるで仮想現実のように、目に映る光景すべて人工物で埋め尽くそうとする欲望でできていることには代わりないのだ。VRが映像コンテンツとして普及するなら、それは画面から飛び出す映像だ。そしてそれはホログラム以上に、より力強く鑑賞者のほうに飛び出してくる。画面というのが鑑賞者と、向こう側の世界を隔てる水槽であったとすれば、VRは津波のように鑑賞者を襲い包み込む。

 2004年にスタジオジブリが制作した長編アニメーション映画『崖の上のポニョ』(以下『ポニョ』)は、ある意味そのようなVR世界を体現した作品だ。

 海の女神と海底に暮らす魔法使いとの間に生まれた魚の女の子ブリュンヒルデは、父親の眼を盗んでこっそりと家出し、海沿いの街にやってくるが、海底に捨てられていた空き瓶のゴミに体を詰まらせて身動きが取れなくなってしまう。入り江に打ち上げられていたブリュンヒルデを助けた少年宗介は、彼女を「ポニョ」と名付ける。

 ポニョはすぐに父親に自宅に連れ返される。空き瓶を壊す際に怪我をした宗介の指を舐めて、人間の血を摂取していたポニョは半魚人となって魔力を獲得し、今度は父親が大事に貯めていた「生命の水」を使って嵐を引き起こす。津波を連れて宗介の元に舞い戻るポニョ。宗介の自宅で一晩を過ごした後、二人は職場の老人ホーム利用者たちを気遣って施設に戻った宗介の母リサの安否を確かめるため、おもちゃの船に乗って海に沈んだ街へ、航海に乗り出す。

 『風の谷のナウシカ』(1984年)や『もののけ姫』(1997年)の作者である宮崎は、人間による文明の自然環境の破壊を嘆く、エコロジストだという評価を受けるかもしれない。しかし、少なくとも『崖の上のポニョ』において、彼の作家としてのエゴイズムはそれとはまったく逆の方向を向いている。

 確かにそこでは、海の中の豊かな自然が描かれるが、それが記録撮影された生の自然ではなく、すべてアニメーションという人工物の世界であることを指摘しなければならない。ここで名前を挙げたどの作品についても、そこに現れるどの山も川も彼と彼のスタッフによって描かれている。

 その様子が極端に伝える例の一つが、『ポニョ』のタイトルバックだ。楕円形の波間の模様がうねうねと動き続ける風景イラストのアニメーションには、緑色の草がべた塗りで描かれた島が浮かび、その向こうにも海とは別の青色で描かれた波模様が描かれる。そこでは海と空との区別がつかず、青い部分すべてに波線があるので全部が海であるかのようにも見える。

 劇中、それはポニョが巻き起こした大津波のイメージで反復され、人間の暮らす街が飲み込まれる。VRとはこの大津波のようなものだ。宮崎のクリエイションの本質は自然が人間の文明を飲み込むことにではなく、むしろアニメーションのような彼の人工物が世界全体を飲み込むことにある。その優れた技術によって描き出されるアニメ表現こそが彼のフレームワークであり、彼に描かれることでこの=その世界は彼自身の鏡となる。

 津波のせいで沖に浮かんだ船たちは船なのに立ち往生し、海面に巨大な女の姿が現れる。ポニョの母親グラン・マンマーレだ。船員は皆男たちばかりで「観音様だ、観音様の御神渡りだ」と彼らは両手を合わせて、文字通りの素朴な信仰心なのか、卑猥な隠喩なのか曖昧な歓喜の叫びをあげる。水面に映るネオンのように神々しい巨大なこの観音様が『ブレードランナー2049』のジョイに酷似していることも付け加えておこう。

 つまり、『ポニョ』において、津波の後に現れる世界とは宮崎駿の欲望を具現化した仮想現実なのだ。街は海に沈み、魔法で巨大化したおもちゃの船が走り出し、海の中で巨大な古代魚たちが泳ぎ回り、時代錯誤な遊覧船でピクニックに出かける家族連れや、巨大なボートで避難する街の人たちの姿がある。『風立ちぬ』(2013)を見れば、この人たちが宮崎の幼少期の記憶であることもわかるだろう。それは美化され、好きな要素だけを事実に基づかずに恣意的に並べ立てられたノスタルジックな世界だ。

 さらに、宮崎がここで人間と自然とをどのように位置付けているかも駄目押しとして見ておこう。ポニョは劇中で何度も透明な容器に閉じ込められ、その度の宗介の力によって脱出する。最初は、海に捨てられたガラスの瓶に閉じ込められたときに、宗介がそれを割るということにおいてだ。二度目には父によって入れられた透明の球体を、宗介の血を舐めて得た力で半魚人化することで脱出する。3度目には魚に戻され、人間に戻るためには宗介の承認が必要とされるようになり、自分が閉じ込められた透明の球体に宗介がキスをすることで脱出する。

 魚や半魚人であるときには白い楕円に小さな黒い点として描かれたポニョの目が、彼女が人間になると白い目に大きな黒い瞳、その中にもう一つ小さな白い丸を描いた形で丁寧に表現される。ここでは、画面の破壊、それに続く顔の破壊と再構築によって、ポニョが自我を持っていく様が描かれる。これは作画の分析論ではないので、これ以上細かい表現の分析に踏み込んでいくことはしないが、つまり何が言いたいかというと、ここで確認した流れというのは魚であったポニョが人間になる過程なのだ。そしてそれは、作中で自然の側から超越的な力を発揮する観音様、グラン・マンマーレによって提案される。

 宮崎が徹底的に自然を描ききる世界とは、人工物の天国であり、いつまでも子どもでいる老人のおもちゃ箱であり、彼はこうして自らが作り出したものによって自らを囲みきる人間性というものを賛美する。宮崎こそ、レムが「人間は人間以外の誰も求めていない」と評するヒューマニストではないか。

 嵐のあとの『ポニョ』の海底世界は、スティーブン・スピルバーグが1990年に映画化し、シリーズ化した『ジュラシック・パーク』によく似ている。それは、恐竜と人間とを含めた本来同時に存在するはずのないものの複製品が同時に寄せ集められたコンテンツのバイキングのようなテーマパークだ。それはサービスとしてのVRが消費者から期待され、成し遂げようとしている真の姿だ。こでは実現しつつあるそのような技術について、例えばスピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』(2018)やトロントに建てられた大型VR体験施設『VOID』のような例を挙げることもできるが、羅列以上の意味がないので詳しく検証はしない。これからもそうしたVR製品は多く作られるであろう。それはむしろ、都市や郊外といった人工物に囲まれた「安全な」生活そのものがVRを作り出すのと同じ動機で動いているからだ。

 ここまでの流れを少し整理しよう。二つの太陽に挟まれたソラリスという惑星に、その光を反射するソラリスの海という生命体らしきものがあり、人類はそれに知性を期待し、自分たちを生み出した地球の海の似姿を見ようとする。こうして人類は二つの海に挟まれる。

ソラリスの海を調査する人類はそこから有益な知見を獲得することができない。しかし、そのようにして調査を進める人類の自然科学もまた、地球のそもそも彼らにとって未知であった自然環境の中で培われた。人類がソラリスの海から、有益な知識が得られないという物語は、果たして人類は地球の海の本質を一度でも理解することができていたか、というまさしく鏡のような問いかけとして現実にとって返す。子どもはその女性を母親としてしか知らないが、そもそも「母親」とはどういうものかを知らないのと同じだ。

人類にとってソラリスの海は、地球の海の鏡のように彼らの前に立ち現れる。しかし、これは、海が鏡のようにはたらくものだという意味ではない。地球の海のことさえ、人類はどのくらいよく知っているのか定かではない。人類はソラリスの海のことも、地球の海のこともよく知らないのかもしれない。しかし、地球の海に関しては、なにかしらのとっかかりをつけて、自分たちの文明の内部に取り込んできた。そうして海と触れ合うためにはフレームワークが必要だった。それでもそれがあったらあったで、今度はそれはただフレームの中にとらわれているだけではないかという発想にとらわれる。そこで今度は、フレームを壊し始める。

 ジョイが壊れ、ハリーが自殺するとき、それはその向こうにある海との「コンタクト」のチャンスになる。ハリーにジョイの姿を重ねるとき、私たちはソラリスの海を現代社会のデータの海の問題として読むことができる。私たちを生かし、甘やかすサービスを壊すとき、ある意味で私たちはサービスそれ自体との出会いにさらされる。つまりそれは、自分が生まれる前の一人の人間としての母親と、子はどのように知り合えるかという問題だ。

 

4、

 

 『ソラリス』では、惑星ソラリス探索の歴史とケルヴィンがソラリスで経験する体験とが並行して描かれる。人類とソラリスの海の交流は一方でケルヴィンが、海が送ってよこすハリーを破壊として、もう一方で彼が読む歴史資料の中の探索として並行する。

 ステーションの図書室を訪れたケルヴィンはギーゼという学者による、ソラリスの海が作り出す構造物についての網羅的な記録を読みふける。海には幾度となく、ゼリー化したり固形化したりしながら立体的な構造物を作り出す習性が見られたが、そこにはなんら規則性が見出されなかった。構造物には、「山樹」「長物」「キノコラシキ」「対称体」など、あまりユーモアの豊富でない学者によって名前が苦し紛れに付けられ、不鮮明なフィルム資料とともに実態の判然としないものとして、語り継がれている。

 ギーゼの人生の多くは中でも、模造形成体(ミモイド、以下「ミモイド」)と呼ばれる構造体についてその記述の多くを費やされた。構造物を描写した部分について少し長めに引用しよう。

ある日、海の表面化の深いところで、何か黒っぽいものが姿を現す。それは扁平で大きな円盤のようなもので、縁はぼろぼろになり、表面はまるでタールを注ぎかけたようだ。十数時間後にそれは層状になって、いくつもの部分にはっきりとわかれていく。同時に、それは周囲を押しのけるようにして上に、つまり海面に向かってっすんでいく。それを観察する者は、自分の下で激しい戦いが行われているのだと思い込んでもおかしくはない。なぜならばその周囲一帯から、まるで唇がすぼんでいくように、そして生きた筋肉でできたクレーターが閉じていくように、同じ速度で進行する無数の円形の波が次々に押し寄せてきて、海の奥で膨れ上がった、揺れ動く黒っぽい亡霊の上に積み重なり、そそり立ったかと思うと、崩れ落ちるのだから。何十万トンもの波がそんなふうに崩壊するたびに、難病かの間、引き伸ばされた粘りつくような、そしてあえて形容すれば、ぴちゃぴちゃというような轟音がとどろいた。なにしろ、ここではすべてが途方もない、怪物的な規模で起こるのだ。黒っぽい形成物は下に突き落とされ、そして次々に押し寄せる波の打撃がそれを押しつぶし、引き裂いていくように見える。そして濡れた翼のように垂れ下がった個々の切れ端から、細長い断片の群が分離し、くびれて長いネックレスのようになり、互いに溶け合って浮かび上がり、まるでそれに付着したような母体の円盤状の塊を持ち上げようとする。その間にも上からは、次々と波の我が落ちかかり、中心の円盤はますますはっきりと沈み込んでいく。このゲームはときには1日、ときには一ヶ月も続く(…)ギーゼは、この種のものを「未熟ミモイド」と呼んだ。(…)「成熟ミモイド」というのは、明るい表皮を持つポリープ上の瘤が群生したもので(その規模は通常、地球の町よりも大きい)それが目的とするのはその外部にある様々な形を猿真似することだ……。(…)そこにつ売り出された様々な形の森は、茎上に突起を伸ばした組成物が母体の支配から解放されたことを明らかにしている、という。

 こういう描写が数ページ続く。ミモイドの説明がどうしても、このような要約し難い描写の羅列であることを特記しておこう。つまり、人類はミモイドを要約するための言葉を持たないのだ。それは機能も価値もわからず。そもそも全体像も把握できない。

 これはまるで、固定されず何かの表面を動いて回るカメラに映る映像のようだ。つまり、固定カメラでミモイドについて観察するはできない。固定カメラの固定されたフレームは動き回る被写体の全体像を捉えることには適しているが、それは画面全体と被写体を区別できるからだ。画面の中の何にフォーカスを当てて撮っているかが明確な時にだけ、固定カメラのフレームワークは可能である。

 ミモイドの描写とは、フレームなき所にフレームワークを立ち上げようとする運動なのだ。そしてそれこそが「コンタクト」の近道として試みられる。海がよこした何かについてのものではなく、ここでは海そのものについて迫ろうとしている。それゆえに、どこまでが海でどこからがそれが作り出した別の個体なのか区別できないものを追いかけることがここでは行われる。

 続いてそこに、動くカメラではなくどうやって人間を書き入れるかという問題が浮上する。小説の終盤でソラリスを去る直前に、ケルヴィンはソラリスの海の上空を飛行し、海面にできた古いミモイドに立ち寄る。彼はそれを古い都市のようだと形容し、「ここに飛んできたのはミモイドと会うためではなく、海と会うためなのだ」と言って、構造物の底へと降りていく。

 

黒い波が重々しく這い上がってきて、平たくなると同時に色を失った。そしてそれが退いたとき、粘液の震える何本もの糸が上がってきて、平たくなると同時に色を失った。そしてそれが退いたとき、粘液の震える何本もの糸が、人の手に触れられていないこの地の縁を流れ落ちた。私はさらに低くしゃがみこみ、その次の波に向かって手を差し出した。すると、人々がほとんど百年前に経験したのと同じ現象が、忠実に繰り返した。波はためらい、退き、私の手を取り巻いた。

 こうしてまた波に関する描写が3ページほど続く。

 ここにあるように、ミモイドは建築またはそれでできた都市のようなものとして生成し、それを通して人間はその海へと接近を許される。「ソラリス」という物語が小説という形式を持っているがゆえに、読者はそれを一つのリニアな描写の運動として受け取る。それはケルヴィンという一人の宇宙飛行士が、海に向かってミモイドの中を歩いていくときの動線なのだ。だだっ広い空間としての海に、こうして建築物が作られる時、私たちははじめてそれへのアクセスを獲得する。

 そしてそれは小説というメディアでこそ可能な試みなのだ。五感のすべてを描写によって再現することができ、リニアな運動によって先に挙げた動き回るカメラワークを可能にし、現実に存在しないものを撮影することができる。架空のものを描写する語りによってだけ、「コンタクト」は成功への道が開かれる。

5、

 最後に、私たちの時代のデータの海の話に戻ろう。90 年代に、脳の再現を目的に発展してきた人工知能研究が一度行き詰まり、2010 年代に復活した。その 一因は、インターネット上を流れるデータ転送量の増大によって注目を浴びた、ビッグデータなどのテクノ ロジーによるデータ・サイエンスの勃興がある。ネット上を流れる膨大なコミュニケーションのデータを 使って人間の脳のように思考し、応答するパターンを作り出すことが徐々に可能になり、それはプロの囲碁 選手を凌駕する「alphaGO」や、大学入試試験に合格したり、チューリング・テストを突破する AI という形 で成果を上げている。

 しかし、数学者の新井紀子は『AI VS.教科書が読めない子どもたち』(2018年)の中で「『AIが神になる?』ーなりません。『AIが人類を滅ぼす?』ー滅しません。『シンギュラリティが到来する?』ー到来しません。」と断言する。本書で彼女は我が子のように育てた人工知能「東ロボくん」がセンター試験を受け続け、偏差値57・1という有名私大の合格レベルまでは偏差値を上げるまでの苦節とAIの小史が綴られている。それ以上の偏差値に至るには、特に文章(自然言語)の読解というものが数学の計算装置であるコンピュータがいかに苦手かというのがネックになってどうにもならないらしい。

 新井もまた、他のAI研究同様、それが必ずぶつかるフレーム問題の解決の難しさを挙げている。フレーム問題とは、例えば人工知能がハンバーガーを買い物に行くとして、屋外に出え店窓たどり着き、注文するまでに、当初の買い物以外の無数の事態に直面する可能性があるため、その一つ一つの事態と当該の買い物がどれだけ関わるかということを計算するために無限の時間を使うため、まともに買い物さえできないというものだ。

 人工知能は決められたフレームの中で同じことを繰り返すだけなら最大限のパフォーマンスを発揮できる。人工知能の発達の歴史はこうした計算の処理能力の向上や手順のショートカットとして語られていく。無数の可能性の中からいかに複雑なものを理解できるように、このフレームの枚数を増やしていけるかにかかっている。

 データサイエンスの発達により、一部のコールセンターの自動音声やAmazonのレコメンド機能といったものが私たちの心をいくらか読解してサービスを提供するようになってきた。私たちの生活を取り巻く人工化は、まるで私たちを同じことを繰り返すだけの、機械の方がより扱いやすいフレームの中に取り囲もうとしているみたいだ。このフレームワークは、先に取り上げたフィルターバブルのような牢獄かもしれない。早くそれが牢獄であることを自覚し、泡を弾けさせ、オープンな海と触れ合うための窓口に開かれる必要がある。新井の発言の中で最も興味深いものの一つは、AIというものはそもそもまだできていない、なぜなら「人間の知能を科学的に観測する方法がそもそもない(…)文を読んで意味がわかるということがどういう活動なのかさえ、まったく解明できていない」からだという。

 そういえば、 小学生のころ、私が帰宅する時刻になると認知症を発症しかけていた曽祖母が二階からよく私の名前を叫んだ。

 同級生と歩く学校からの帰り道、隣がトヨタの部品工場の駐車場で何も建っていないので、 数十メートル離れたところからでも屋上付き2階建ての自宅はよく見えた。初め、空耳かと思った白いコン リート外壁の2階の窓から声が聞こえる。 同級生に「ああ。ちょっと。またね」と言ってから、走って帰宅する。家の前まで来て石の階段を登り、 玄関の扉を開けて中に入ると、2階から祖母が曽祖母に気味の悪い声で叫ぶな、と叱りつけているのが聞こえる。階段をそっと上がって覗いてみる。曽祖母が「なんもしとらん」とヒステリックに答える。そういうのが2日に1回よりちょっと少ないくらいの頻度であった。

 子どもの頃、家族は母、祖父、祖母、祖母の母である曽祖母、叔母の6人だった。ここまでに母という字を6回も書いて、いくつ乳房があるのだという家族構成だ。2階の一番西の部屋に暮ら していた曽祖母は、祖母や母や叔母にときどき意地の悪いことを言う気の強い人だったが、一緒に旅行に 行ったり、小遣いをくれたり、お菓子を買ってくれたり、私には比較的よくしてくれた。 彼女は戦争未亡人だった。曽祖父はサイパン島で戦死した。曽祖母の部屋の隣の和室の仏壇には彼の白黒 写真が飾ってあった。夫が出兵してから、祖母が結婚するまで母一人子一人で暮らしていたらしい。

 そうして2階から叫ぶようになったのが私が小学生の頃。中学に上がる頃にはもう施設に入るようになった。 私が子どもの頃まで一つの家に住む家族だった私たちは、数ヶ月に一度、曽祖母のいる施設を訪れた。相 部屋の真っ白なベッドに横たわる亡くなる直前の曽祖母との会話は「わからん」というやりとりの繰り返しだった。家族で次々に「おばあちゃん、誰が来たかわかる?」と聞くと、寝たきりの曽祖母は「わからん」と答えるか、私や母を、自分の甥や姪と誤認して答えた。あのとき私の名前を不気味に何度も呼んでいた曽祖母が私や、私たち家族を認識することはもうほとんどなかった。会うたびにまるで、初めて会う人のような顔をしてこちらを見てくるので、施設に入るだけでなにか時間感覚が狂ってしまうような気分になったのを覚えている

 おばあちゃん、誰かわかる?、雅彦かね、雅彦というのは曽祖母の甥で私よりもずっと年長の親戚なので、雅彦やなあてもとはるやて、わからんかね、わからん、おばあちゃん、テレビ見とるの?、見とらんで切ってええわね、うるさいだけやわ、ほんなこと言やあすな、ニュースやっとるで、人工知能やと、おばあちゃんわかりゃーすかね、わからん、まあじきね、機械が発達しておばあちゃんたあも、ほおいうのに面倒見てもらえるようになるわ、ほんでもね、機械は本が読めんのやと、なんでも機械がやるようになったらね、人間が機械に本の読み方だけ教えんならんようになるわ、小説は書けるらしいでね、ほんでも読むのはできんらしいわ、テレビの言っとることやで本当か知らんでね、ほうかね、シェヘラザードっと知っとらーすかね、なんやね、ほんな難しいことよう言わんわ、せんしょなーね、昔ね、ほういう人がおってね、王様がおったんやと、ほれでお城から離れてちったばっかし遠くに旅行に行っとったんやと、ほれで帰ってきたらね、奥さんたあと、家来んたあが、王様おらんもんで悪うことばっかしとったんやと、ほれで王様、怒ってまったもんで、家来んたあ、皆んな殺しからかあして、ほんでも気が済まんもんで、街ん中から女の人んたあ、皆んな連れからかあして、一晩ずつ一人ずつ殺してまったやないか、ほれで今度大臣の娘やったシェヘラザード連れてこやしたら、ほの人が殺されんように、王様に毎晩いろんなこと話しとったんやと、ほれでずっと殺されんかったんやと、ほうかね、ほういう本がおばあちゃんの部屋にあったもんでさ、あれ勝手に持って行って読んどるけどええかね、ええ、ほんなんやったらわしも読みたあで、今度持ってきてくれんかね、ほんなら、読み終わったやつ持ってくるで、ええわ、早よ持ってきて、なんで、いつでもええやん、おばあちゃん寝とるだけやらあ、いくらでも時間あるやん、時間なんかあらせんがね、あんたのほうが時間あるやらあ、あんたのほうが若いんやで、部屋の本、今度持ってきて、お願いやで、ほうかね、ほれやったら覚えとったらまた今度持ってくるで、ええ、覚えとったらやなくて、ちゃんと持ってきて。

 結局次に会ったとき、やはり曽祖母はその話を覚えていなかった。次も。その次も。またその次も。

 

1ソラリス学者たち

2小アポクリファ

3小アポクリファ

4小アポクリファ

5やってきた男

6ハリー

文字数:18299

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