「この世界の片隅に」論:戦争は私たちの顔をしていない

 

でも戦争をするのは一般市民です。兵役につくのはごくふつうの若者たちです。それに、武器をつくっているのは労働者です。(…)ヘリコプターをつくっている工場や企業、さらには、労働者たちがその工場から出て自宅に帰り、妻に給料袋を渡したり、それでなにかを買いにいったり、その翌朝、またいつものように工場に向かったりするところを見せるべきです。映像が真に自由なものであれば、そうしたことはできるはずです。(*1 p.659-660)

これはジャン=リュック・ゴダールのモントリオールでの講義録(「ゴダールの映画史」(1980))に綴られた言葉です。これに従うなら、『この世界の片隅に』はその真に自由な映像の一つだと言えるでしょう。
本作は一つの表現形式を徹底し、その自由さを成し遂げた作品のようです。しかし、少し詳しく見るととその裏にある不自由さが浮かび上がります。それは戦争という主題を選んだがゆえの不自由さです。だから、『この世界の片隅に』はアニメーションにしかできない表現を徹底し、その表現に囚われ続けた作品とも言えるのではないでしょうか。では、それはどんな表現でしょうか。
斉藤環氏はこの作品を絶賛するにあたり「ユニゾン的同期空間」という大変便利な概念を持ち出しました*2 。本稿では『この世界の片隅に』が漫画やアニメ特有の表現形式の徹底であることを確認し、アニメーションが戦争を描くことの難しさについて触れていきます。

1、
「ユニゾン的同期空間」*3 とは、絵と文字、また彼が漫符と呼ぶ擬音や擬態を表し、コマに感情を与える独特の記号など漫画に伴う様々な表現が多様でありながら、それがばらばらに存在するのではなく、組み合わさって一つの意味を形成し、機能するという漫画一般の表現形式への解釈です。そして、そのおかげで私たちは漫画を見るのではなく「読む」ことができると彼は論じました。アニメにもこれは受け継がれています。その表現は文字でも絵でもある。つまり想像的でもあり、象徴的でもありながら一つの意味に集約されていく。そして、この映画では特にそれが徹底されています。
斎藤は『この世界の片隅に』について語りながら、「マンガは顔のメディアである。」と宣言します*2 。浦野(北条)すずの顔の造形に注目してみましょう。大きく開いた5角形の縦長の瞳、それぞれ一本の線で簡略化された眉、鼻、口。このデフォルメされた可愛らしい顔を私たち観賞者は自分と同じ人間の顔として認める。そういうリアリティの下にこの作品は生まれます。
この作品に限ったことではなく、架空のキャラクターがいる、そこに自分と同じ感情を認めることで、虚構のリアリティを受け入れるというのが漫画やアニメ鑑賞の大前提と言えるでしょう。 それは内容が事実であったり、自伝的なものであっても同じです。
このように顔をデフォルメしたからと言って「幻視性」や「否認」「自閉」がこの映画の中に見られるわけではないと、斎藤は強調します。 確かに、徹底的な現地調査と郷土資料の収集に基づいて制作され*4、細やかな衣食住の風景を描いています。しかし、漫画やアニメというメディアにはそもそも作家が想像した恣意的な幻想空間を見るという前提があります。描写の詳細さや正確さはその空間の解像度を上げるように機能します。それ事態はこの作品が優れていることの証になります。ただ、戦争を描くのにそれは適さない手法だったと、ここでは論じたいと思います。そこで、戦争を描いた実写映画の例を参照します。

2、
冒頭にゴダールを引用したのは、ある映画群と『この世界の片隅に』を比べるためです。ゴダールが戦争と映画について話す動機には、第二次世界大戦後のフィクションの失語症的な状況に対していち早く応答したイタリアのネオレアリズモという一連の映画群が深く関わります。世界大戦という危機を経験したのち、経済的に、精神的に新しいフィクションを構築する力が弱ってしまった欧米の映画産業が、当時主流だったハリウッド式のスタジオ制作の代わりに、録音機材と手持ちカメラを持って荒廃した街路でロケーション撮影を試み、戦後のイタリア社会の実像を映し出そうとしたのがこのネオレアリズモでした。というのが、フランスの映画雑誌カイエ・デュ・シネマが用意した映画史の筋書きです。ゴダールはそもそもカイエ誌の批評家です。
ネオレアリズモの本質は戦争を描いたことではありません。カイエ誌の初代編集長アンドレ・バザンはヴィットリオ・デシーカ監督『ウンベルト・D』(1952)に登場する女中について、彼女の洗い物、水をまいてアリを払い、コーヒーを挽き、足を伸ばしてドアを閉め、自分の妊娠したお腹を眺めるという動作をとりあげ、世界のあらゆる重要事項が身近な日常生活の中からしか現れないような世界観としてこれを説明します*5 。ネオレアリズモの新しさは、戦争への言及ではありません。それは物語を推し進める表象から、意味を持つ前の日常の些細な風景の描写への転換です。その新しさは本来映画を物語から解放し、表現の幅を豊かにすることにありました。
バザンはここで『自転車泥棒』(1948)やこうした映画の影響下にあるトリュフォーの『大人は判ってくれない』(1960)を例にあげ、子どもという主体に注目します。自ら行動し物語を積極的に進めていくような登場人物ではなく、今まで見たことのないものを目にし、驚き、ただ見て聞くことしかできない子どもという主体はネオレアリズモ、それに続くヌーヴェル・バーグと深い関わりを持っています。
『この世界の片隅に』にはこれと同じ特性を見ることができます。だんだんと減っていく配給、限られた材料で作る食事、アリを眺める子ども、保存した食料からアリを払い、なくなった分の砂糖を買うため市場に赴き、キャラメル、スイカ、白米、戦中の居住空間からなくなった贅沢品と遭遇する。それを嫁ぎ先の小姑から「まだ子どもなんよ」と揶揄されるぼーっとした主体、すずの目で体験する。それはとてもネオレアリズモ的なシークエンスです。
しかし、実際に『ウンベルト・D』や『自転車泥棒』を私たちが鑑賞し、素朴に日常的な親しみやすさを覚えるかというと、それはまた難しいようです。少なくとも『この世界の片隅に』と同じくらい共感することはできない。そこにはもちろん制作された時代や、国も原因があります。ただ、ここではアニメーションと実写の違いに注目します。
先ほど詳細に取り上げたように、すずの顔は実写の実物の人間の顔よりも簡略化されています。「読む」ことができる漫画というメディウムでは、そこで描かれる顔を一つの意味に集約するため、その都度喜怒哀楽のメディアへと簡略化します。その描かれた顔を通じて私たちはそれが楽しいシーンなのか、悲しいシーンなのかを理解します。
実写映画ではプロの俳優が同じことを目指すはずです。そのシーンで求められている感情をできるだけ正確に表現するというのが、多くの劇映画でプロの俳優に求められるスキルでしょう。しかし、アニメーションのキャラクターと比べると生身の人間の顔というのはノイズが多すぎます。骨格があり、肌の肌理があり、いくらプロフェッショナルとは言っても必ず俳優と役柄の間に年齢や顔つきのズレが生じます。アニメーションの視覚表現はこうした生身の顔が持つ質感のノイズから常に自由です。
アニメーションは鑑賞者が共感しやすいように、顔を感情の記号へとデザインできる。そうだとすると、実写映画の美点はなんでしょうか。
ネオレアリズモから、ロベルト・ロッセリーニの、『アモーレ』(1948)という映画をとりあげます。二部構成の本作の第二部『奇跡』では、ワインに酔って眠ったところを行きずりの男に準強姦された羊飼いの娘が処女のまま懐胎したと信じ込み、町中を彷徨って馬小屋で子どもを産み落とします。彷徨う女優アンナ・マニャーニと彼女の顔のクローズアップの往復で、ほとんどのシーンが進行します。陣痛に苦しみ、喉を渇かせて嘲笑を浴びながら必死で産み場所を求め続ける彼女の形相は力強く、面妖で全く親しげな様子のない不気味なものです。馬小屋の暗闇の中で出産が終わると一転、赤ん坊の泣き声を聞き、優しげな母親の笑みを彼女は浮かべます。
共感的な親密さと、恐ろしい不気味さをマニャーニの顔は行き来し、観客に不安定で、不気味で、強烈な印象を残します。すずの何を感じているかを伝えることに特化した親密な愛らしい表情とは正反対のものです。生身の顔は、作品を統一する「ユニゾン」的な意図の外側からやってきて、その秩序をかき乱します。
どちらが良くて、どちらが悪いということはありません。それは作品の美学に応じて異なります。ただ、戦争という主題を描くためには生身の顔の表現が必要だったのではないか、と考えます。その根拠について以下に述べていきます。

3、
『この世界の片隅に』の作品構造に見通しを立てるため、本作を3幕劇として整理してみます。第一幕は広島で過ごす子ども時代から結婚まで、第二幕は義理の姪ハルミと自分の右手を失うまで、第三幕はその後というふうに見てみましょう。第二幕の中間に作品の重要な転換点になるプロットポイントがあります。すずに径子が「二人分」と大盛りのご飯を盛った茶碗を渡し、産婦人科に通院する彼女のショットが挟まれ、次のショットで径子は米粒2粒だけの茶碗を「今朝余分に食べたから、こんくらいでええやろ」と渡します。すずの妊娠が一度示唆され、それが撤回されています。
このプロットポイントの前後にもまた、重要なシーンがあります。闇市での買い物の帰りに朝日遊郭に迷い込んだすずは遊女と思しきリンという女性と知り合い、心を通わせます。原作で彼女は夫の周作が結婚前に入れ込んでいた遊女として登場し、周作は彼女のことが忘れられないのではないかというすずの葛藤も描かれます。
妊娠を示唆するご飯茶碗のシーンの後、すずの幼馴染で水兵をしている水原が訪ねてきます。周作は夜中に、すずに水原が泊まっている納屋に赴くように促します。結局2人は交わりませんが、このシーンはリンの件についてのうしろめたさと、すずが妊娠しない体なのではないか、という周作の二つの思いを示唆しています。
『この世界の片隅に』の第一幕はすずの子ども時代、第二幕は結婚によって大人になることを強いられ葛藤しながらも恋愛を楽しむ彼女のモラトリアム、第三幕は身内の死によって自己像の再形成を強いられ、大人になっていく彼女を描いています。彼女が大人になるというのはどういうことか。すずは広島で親を失った子どもを拾い、家族に迎えます。いつまでも子どものように振る舞い、子どもを産めない彼女が親になるというのがこの物語の骨子でしょう。
本作が成功させている「ユニゾン的同期空間」とは想像的なものと象徴的なものとが入り混じったままの語りです。それは母親が子どもに語るような語口ではないでしょうか。作品という母親が子どもである観客に向かって物語を提供します。そのためのインターフェースとして、すずの顔があります。彼女の顔が観客にとっての母親の顔である、と論じるつもりはありません。しかし、子どもから親になっていく彼女の物語を通して私たちは映画の中に入っていく。そしてそれは、一つの美学で統一された閉じた世界の正体です。その閉じた世界は、そこで戦争を描くこととの食い合わせの悪さにつながります。

4、

戦争に関することのなかできわめておもしろいのは、ドイツとか日本とかでは、指導者たちが有罪を宣告され、そのほかの人たちは、命令に従っただけだという理由で有罪にならなかったという事実です。(…)かりに人々に、手を血だらけにした下っ端の連中を処刑するだけの勇気があったとすれば、市民生活全体を変えることもできたはずです。だから戦争というのは、市民生活を存続させるためのものにほかならないと言えるわけです。」*1p.651

再びゴダールの講義録からの引用です。この言葉を見ながら以下で作中での市民生活と戦争の関係について見ていきましょう。空襲の中で、義理の姪のハルミと共にすずが義父に抱え込まれて守られるとき、義父は「わしらの2千馬力が鳴らしとるのう」と誇らしげにつぶやきます。兄の影響で軍艦に詳しいハルミは、水兵である水原の来訪を喜び、「ハルミも水兵さんになりたい」と言います。
敗戦後、家族とともに玉音放送を聞いていたすずはこう口にします。

覚悟の上じゃないんかね。最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね。今ここに5人おるのに。まだ左手も両足も残っとるのに。
飛び去っていく。うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が。ああ、海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃな、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかな。ああ。なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったな。*6

ここからはいろいろな気持ち、あるいは彼女の置かれた状況への気づきを読み取ることができます。「覚悟の上じゃないんかね」「うちらのこれまでが。それでいいと思ってきたものが。だから我慢しようと思ってきたその理由が 」というすずの素直な言葉には、むしろ戦争に勝ってしまえば、彼女は素直にそのときは喜んだのではないかということが想像されます。
一方で「海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃな」というのは、戦争加害者としての日本への気づきを想起させます。自分たちの食べているものは自分たちが侵略した台湾や朝鮮半島、中国の一部や東南アジアから来てもいる。自分たちは暴力で侵略行為を行っている。だからより大きな暴力にも「屈せんとならん」のです。
『この世界の片隅に』の中で一貫して描かれるのは全体主義体制下での日本の庶民の生活です。全体主義とはなんでしょうか。
ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』(1951)の中で自国ドイツでのホロコーストをモデルケースとして、ヨーロッパの社会問題としてユダヤ人迫害の精神性を遡り、どうしてこのようなことが起こったのかを検討しています。その最終章「イデオロギーとテロル」の中で全体主義の本質を「テロル」(terror, ドイツ語の「恐怖」)という言葉で定義します。彼女によるとテロルは「或る目的の手段ではなく、自然的もしくは歴史的過程の絶えず必要とされる執行」という言い方で、自然の過程でそうなってしまう原理として論じています*7 。それを、例えば国民全体を一つの戦争に駆り立ててしまうドミノ倒しのような運動の最初の一押しとしてイデオロギーの概念を導入します。
「テロル」というのはそこから派生したテロリズムという言葉のほうが現代には馴染み深いでしょう。こう書くとそれは一層直接的な暴力を連想する言葉になります。アーレントの論ではそれがホロコーストとして現象化したものの原理として登場しました。つまり、現代でもこの原理は現役ではたらいているのでしょう。
『この世界の片隅に』という作品をこの定義に照らしながら、さらには二度目に引用したゴダールの言葉を思い出しながら見返してみましょう。そこに描かれるのは、大日本帝国という国家のイデオロギーに押され、あとは坂を転がり落ちるように戦争へ、一つの暴力衝動へと歴史の中で自然の成り行きとして駆けていかざるをえなくなったこの国の一般市民の生活です。国家による戦争の被害者として、この国が侵略した国からすれば加害者としての市民像が浮かび上がります。
ここで、この作品が唯一直接的に現実的な死を扱ったハルミの死のシーンを詳細に見てみましょう。空襲の後、すずと手をつないだまま、爆弾が落ちた穴を覗き込んだハルミは不発弾の爆風によって、彼女が繋いでいたすずの右手と共に失われます。直接経験された死は作品の中で、まず暗転として描かれます。そしてそこに線香花火のような白い光が煌めき、稚拙な描線となってすずとハルミを描いては消え、消えては描きます。やがてその白い描線は不発弾があった道路の見取り図を描き、その坂の先に走って二人で逃げ延びるというすずの空想が現れます。
すずが描いたイラストとしてそこに海が現れるのですが、軍艦であり、それを楽しそうに数えるハルミの姿になります。ハルミを失った反動で思い描いた幸福な空想の中に軍艦が登場します。軍隊の保持に対してかなりセンシティブな憲法を持った国で何十年も生きてきた私たちにとっては、これがかなりいびつなイメージとして感じられるのではないでしょうか。
『この世界の片隅に』は反戦映画ではありません。戦時中、この戦争という高揚に是も否もなく一方的に巻き込まれていった人たちが、身近な存在として描かれます。それ自体は決して悪いことではありません。しかし、そうして彼らは戦争の被害者にも加害者にもなりました。「ユニゾン的同期空間」は、その後の結果から見た価値判断を一つの完結した閉じた世界として作品の中に包み込んでしまいます。
『この世界の片隅に』をポリティカルにコレクトかどうか判断することはナンセンスです。この漫画の、映画の作り手がそうした政治的な意図を持っていたと論じる気はありません。しかし、アーレントの定義に従って作品を読み直すと、全体主義の体制下の生活を綿密に観察するうちに、本作がテロルの詳細な肖像画のように見えてきます。「ユニゾン的同期空間」とはそれを可能にする最適のツールだったのではないでしょうか。私たちはそれを顔の描写の中で確認しました。
アーレントは全体主義とは個人の自由がなくなってしまう社会のことだと言い、本来なら法律がその自由を保障するために機能するべきだと主張します。ここに描かれたのは母と子の間の語りが撞着し、父親的な法制度が飲み込まれて機能しなくなった空間ではないでしょうか。
現実的な領域を描いたハルミの死、そして敗戦を乗り越えてもなお、その空間は「8月15日、16日、17日、そして9月」と連綿と続いていきます。この作品が「戦争」という現実世界の現象に対して取った態度は、それを個人ではどうすることもできない大きな災難、気がつくと巻き込まれてしまうもの、逃れられないものとして扱うことでした。
少し皮肉な言い方をすれば、本作が世代や客層を超えて広く受け入れられた理由はそのような破綻のないシームレスな方法論、敗戦や人の死というものも淡々と自らのコードの中に巻き込んでしまう作品だった点にあるのかもしれません。

5、
本稿の主張は『この世界の片隅に』が「ユニゾン的同期空間」の崩壊可能性を描き損ねた、という点にあります。これは実写映画なら避けられた事態です。ただ、これは単純なメディアの優劣比較論ではありません。最後に、この方法論に違和を描き入れることができたアニメーション方法論の可能性について検討したいと思います。
それは「ユニゾン的同期空間」の崩壊とは、つまり、キャラの顔の崩壊です。宮崎駿監督の『崖の上のポニョ』(2008)を見てみましょう。人魚であるポニョの顔は女の子としての白い楕円の入った黒目の瞳と、太い縁線で描かれた目に鼻と口がついた統一的な顔立ちとして描かれます。一方でその顔は焦点の定まらない塗りつぶしの黒目が入った大きな白い円、穴を示す二つの短い線だけが書き込まれた鼻、横に大きく伸びた線としての口という人間ではないものの顔立ちにも変化します。これは半魚人である彼女が超自然的な能力を操ることと関わります。そして、それは海が陸地を飲み込む災害のイメージと重なって、「ユニゾン的同期空間」の境界を守ったり壊したりして行き来をします。漫画は、そしてそこから方法論を得たアニメは確かに、顔のメディアです。そうであれば、その世界の秩序の崩壊は顔を統一する秩序、目の描き方によって変えることができる。完結した方法論を崩すとき、漫画やアニメは強固な現実と向き合うもう一つの武器を手に入れるのではないでしょうか。

引用:

*1『ゴダールの映画史』ジャン=リュック・ゴダール、ちくま学芸文庫、2012

*2『すべては「すずさんの存在」に奉仕する』、「美術手帖 2017年2月号 アウトサイダーアート」、美術出版社、2017

*3『戦闘美少女の精神分析』斉藤環、ちくま文庫、2006

*4「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」日経ビジネス、2016.12.8

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/230078/120600064/?n_cid=nbpnbo_twbn

*5『映画とは何か 下』アンドレ・バザン、野崎歓訳、岩波文庫、2015

*6『この世界の片隅に』片渕須直監督、2016

*7『全体主義の起源3 全体主義』ハンナ・アーレント、大久保和郎、大島かおり共訳、みすず書房、1974

参考資料

『映画史 3A 絶対の貨幣』ジャン=リュック・ゴダール、1995、フランス

『ウンベルト・D』ヴィットリオ・デシーカ、1952、イタリア

『アモーレ』ロベルト・ロッセリーニ、1948、イタリア

『崖の上のポニョ』宮崎駿、2008、日本

『手塚治虫はどこにいる』夏目房之介、1992、筑摩書房

文字数:8675

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