時をかけるいとうせいこう

ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』について、作家の池澤夏樹は「『ユリシーズ』の最大の功績は、小説をプロットから解放したことである」と述べている。ここではいくつかの方法で、物語ることから自由になった小説を取り上げる。それは筋立てを失い、読みにくくなった難解な小説とも言えるだろう。なぜ読みにくくなる必要があったのか。一部の小説が筋立てて物語ることを放棄する動機について検討したい。
一方、現代日本のクリエイターいとうせいこうの小説家としての経歴を並行してたどることにもする。いとうは必ずしもそうした「わかりにくい」小説の書き手ではない。だからこれは一見突拍子もない組み合わせに見えるかもしれない。しかし、結果的にはそのやり方を通して一部の難解な小説が現代の日本を生きる私たちにとって身近なものになることを期待し、書き進めることにする。

1、

いとうせいこうは1988年、『ノーライフキング』で小説デビューした。本書の序盤で、ある小学校の校長が「問題はディス・コン・ゲームだ!!」と言った瞬間に朝礼の壇上で脳溢血のために頓死する。「ディス・コン」とは作中で当時の現代日本の子どもたちを夢中にさせる家庭用ゲーム機の名前だ。小説の中では、日本中の子どもたちがディス・コンのキラーソフト「ライフキング」に夢中になり、ゲームの裏技や攻略法を共有するためのネットワークを全国展開している。
ゲームの序盤で主人公が倒す「ファッツ」という敵キャラクターに校長を見立てた子どもたちは、彼の突然死を象徴的な事件として扱い、これをきっかけに現実の世界で「ノーライフキング」というゲームが始まったと妄想する。それはクリアしなければ呪い殺されるゲームだという。
「ノーライフキング」というゲームは子どもの遊びが現実社会を脱構築する可能性だ。一般社会では、構成する言葉、例えば法律や行政の文書、事実を伝える報道の表記は、現実の社会を一つのコードとして間違いなく機能させるために、言葉と事実とのリテラルな対応関係を保持しなければならない。そこで小説は「校長の死」という一つの事件事実に「呪いのゲームの始まり」という項目で割り込み、事実が織りなす社会のコードを、全国の子どもたちが噂の中で夢想する架空のゲームというシステムに組み直す。それは現実よりも一層恣意的で、幼稚で遊びに満ちたシステムだ。
彼らはゲーム攻略のための情報共有に家庭電話と塾のコンピューターを用いる。小説の発表は88年だが、2010年代を生きる私たちはそこにグループチャットや、攻略サイトの掲示板のイメージを重ねたほうが、理解しやすいだろう。
噂の体系を扱ったもう一つ別の小説を取り上げる。1975年、アメリカの作家ウィリアム・ギャディスは実験小説『JR』で更にラディカルな技法を用いた。
JR』では表題と同名の主人公が株式を通じて一大グループを作り上げる成功譚と、彼が通う中学校の人間模様、ロングアイランドとマンハッタンで繰り広げられる2つの遺産相続争い、そうした俗世のいざこざから距離を置きたがる作家、劇作家、音楽家、画家たちの生活が繰り広げられる。
この小説はほとんど会話文だけで成り立ち、誰がいつどこで話しているかという情景がほとんど説明されない。その会話文には言い間違いや、人違い、事実誤認が入り混じり、ちょっとした口調で誰の言葉であるかの特定することを読者に求める。そうした要領の悪い情報の束から小説のあらすじはぼんやりとだけ思い浮かびあがる。
なぜそんなまどろっこしいことをするのか。これは、作家なりのリアリティの追求なのだろう。『JR』のスタイルは、当時であればこれは喫茶店の隣の席から漏れ聞こえる会話のようなものかもしれないが、今ならSNSのタイムラインを流れる見知らぬ他人の噂話だ。現実で私たちが耳にする生の声に近い。私たちの人生がほとんどの場合、明確な筋を持たないこと、そうした筋らしきものがあるとしても、現実の生活の中から無意味で不正確な情報の束の中からぼんやりと浮かび上がるくらいでしかないことを思い出せば、この小説の形式をリアルだと感じるはずだ。
「ノーライフキング」で、いとうは夢想する子どもたちという物語を一つにまとめるために三人称を用いた。一方、ギャディスはその役割すら放棄し、タイムライン状の字列をそのまま読者に手渡す。ギャディスはまず人称からほとんど自由になった。そして、一方では株や相続の手続き、企業の社内文書や人事をめぐる社会のコードを、デマ、誤認、流言の入り混じるいい加減な玉石混交のコードの素材に分解し直し、もう一方で物語を作る小説の言葉を、組み立て前の素材に戻した。
両者の共通点を挙げると、『JR』にも子どもが登場する。13歳の若きビジネスマンJRはいいかげんで要領の悪いことをぺらぺら喋る大人たちの社会の切れ目を縫って一足飛びに成功の階段を駆け上がる。中学校に設置された公衆電話で彼が「遊ぶ」のは現実のマネーゲームだ。

2、

約15年間のブランクを経て、いとうは2013年に『想像ラジオ』で小説家としての活動を再開する。
本書は東日本大震災直後の被災地を舞台に5つの章からなる。その第1、3、5章は、DJアークと自称するラジオDJの番組放送から成る。DJアークは樹の上で仰向けに横たわったまま毎日午前2時46分に、電波の代わりに聞き手の想像力を媒介するという不思議な番組を放送している。彼は、あの世とこの世の境目で同じように迷子になった亡き人らの声を聞き取り、死者にも生者にも向けて放送し続けているらしい。
第2章ではDJアークの噂を聞いたSという作家と彼のボランティア仲間が、死者の声を聞くことができるかという問題について議論を交わす。第4章では、Sが震災の半年前に亡くなった彼の恋人と、彼女とのやりとりを想像しながら会話を書くことによって彼女と交信する様子が描かれる。
第4章はすべて会話文で構成され、第1、3、5章も地の文を作るDJアークと会話文として登場するリスナーの会話で進められる。地の文としての三人称や、単一の一人称はほとんど用いられない。いとうがギャディスの作風に接近したと言いたい衝動にも駆られる。しかし、実際にはそれよりも、ラッパーや舞台俳優として活動するいとうが、セリフのような形式で小説を書くようになったというほうがより正確だろう。
そうしたセリフ的な文体は、陸地に津波が迫る情景や、倒壊した建物の中を彷徨う様子を同時中継するカメラのように事細かく描写する。『想像ラジオ』に限らず以後、他の短編でもドキュメンタリー的なリアリズムと複数の一人称が混在する多声的な構成が、復帰後のいとうの特徴になっていく。
彼の小説はどうして急にそうした多声的な要約しがたいものになったのか。つまり、わかりにくくなったのだろうか。少し乱暴に『想像ラジオ』が何を言いたい小説なのか考察してみる。第4章で「生者と死者が持ちつ持たれつ」の関係で「一緒に未来を作っていく」ということが強く主張されている。彼が本書全体で、人の死について思いを馳せていることは明白だ。しかし、彼が災害や人の死というものと向き合った結果、なにを提示したかということを作中に探すと、この小説はとても頼りない構成をしているように見える。
生者と死者について語りながら、オカルトに陥ることを警戒し、「彼岸」の前で足踏みし、生者と死者の境目を仮設定し、そこから流れるラジオ放送というファンタジーを作り、混沌とした状況の中で希望を見出そうとするかなりリリカルなモノローグが続く。個々の章もそれは描写自体は綿密ながら、あくまでそれは目の前の状況をばらばらに実況する声であり、どういうふうにどんな未来をつくるかということは結局試行されない。「人の死」という大きなテーマは宙づりのままだ。
言ってみれば『ノーライフキング』というのは壊す小説だった。20世紀の世紀末を目前にひかえた末法のムードの中で、社会のコードを壊してからかい、乗り越えるまでを子どもの遊びとして描いた。しかし『想像ラジオ』コードが壊れた後から始まる。震災によって現実の中でそれまでの通念=コードが壊れてしまった世界で、それでも有効な言葉を拾い集めなければいけない、と作家は使命感に駆られているようだ。
いとうは短編『どんぶらこ』(2017)で、今度はより多数者の「死」である老死について書き始める。

3、

『どんぶらこ』は介護が必要になった両親を自宅近くの施設に引越させた男性と、彼の父親、両親の自宅介護と生活費のやり繰りに苦しむ別の女性それぞれの一人称が混ざるポリフォニックな小説だ。
表題の「どんぶらこ」は昔話「桃太郎」の桃が川を下る擬態音を連想させる。「どんぶらこ」と「桃」というモチーフだけを追いかけてみると、最後の場面で両親の介護をしていた女性が亡くなった母親の遺体をピンク色のスーツケースに詰めて川に流す場面に突き当たる。全体としては介護の苦悩が続く陰鬱な描写の中で、赤ん坊が入っているはずの桃の中に老人が入っているというイメージだけがユーモラスに残る。
以下ではこのユーモアに、いとうが死とどう向き合うのかという今後の展開を見出し、他の小説の技法が死や老いという問題とどう付き合ってきたかの考察へと離陸したい。
1922年にスコット・F・フィツジェラルドが発表した短編「ベンジャミン・バトン」の主人公は老人として生まれ、老いる代わりに若返り、赤ん坊として死んでいく生涯を全うした。ここでも老人と赤ん坊の姿が重ねられる。いとうの「どんぶらこ」が志向するのはそうした赤ん坊として生まれた人がまた赤ん坊に還っていくイメージではないだろうか。「ベンジャミン・バトン」の終盤の一節を以下に引用する。

 

思い出すことができなくなってしまった。最後に飲んだミルクが温かかったのか冷たかったのかも、何日たったのかも、はっきりしない-ベビーベッドと馴染みのナナの顔しかうかばない。やがて、何も憶えられなくなった。空腹のときに泣く−それだけ。(参考文献6.

 

老人と赤ん坊とをつなぐためにここでは「忘れる」というキーワードを経由する。例えば、オランダの詩人J・ベルンレフは「アウト・オブ・マインド」という作品を書いている。アルツハイマー病の主人公が一人称で語り生活の中から様々なものが姿を消していく様子が描かれる。本書は老いと認知の病という着眼点から、私たちがよく知っている時間と空間を言葉を使って解体していく。
小説は良くも悪くも言葉に縛られたメディアだ。冒頭に挙げた「ユリシーズ」をはじめとするいくつかの小説は言葉のルールの解体を目論んで来た。ここで取り上げたのはそのバリエーションのわずかな一部でしかないが、確かにギャディスは社会のコードを解体し、ベルンレフは時間と空間を認識するためのコードを解体した。そしてジョイスはここで取り上げきれないくらいたくさんの言葉のルールそのものを解体した。
テッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」(1999)にはそうした多くの小説が試みてきた解体作業の意義を批評するための足がかりを見つけることができる。
本書は、地球に突如現れた異星からの生命体ヘプタポッドと女性言語学者とのコミュニケーションの試行錯誤を描く。両者のやりとりの中で異星人と人類とは別の物理法則や数式の記号体系を持つことがわかる。人類が因果律的なものの考え方をするとすれば、ヘプタポッドは合目的的なものの考え方をしているという。
チャンは、まるで数式や物理法則の関係式も単なる言語だとほのめかしている。そして言語の違いがあれば、また別の物理法則が展開されるかもしれないというSFを展開する。主人公の言語学者はヘプタポッドの言語を学ぶことで、自分が将来持つ子になる娘の記憶のフラッシュ・フォワード(以下FF)、つまり予知夢を経験するようになる。外来語を学ぶことで彼女はタイムトラベルができるようになるのだ。チャンが描いたのはつまり、言葉を解体し、組み直すことで時間の物理法則からも自由になれるという世界観だ。
小説は言語学者のFFと異星人とのやりとりを交互に描く。FFでは学者と彼女の娘のエピソードをばらばらの時間系列で並べ、この小説の構成全体が娘の死をもって始まり、娘の誕生をもって終わるのだ。チャンの視野は時間の概念を組み直すことが、死を克服する思想に連想できることにしっかり及んでいる。
最後にいとうせいこうの『どんぶらこ』に話を戻し、最終場面を引用する。

 

どんぶらこ、どんぶらこ。
どんぶらっこっこ、すっこっこ。
午前二時過ぎ、真っ暗闇の中で私はピンク色のトランクを真冬の川へ放した。

(中略)

今の隅に開けたまま置いてあったトランクから、私は服を出した。下着を出し、ネックレスを出し、ドライヤーを出し、老人ホームのパンフレットを出し、日記代わりの小さなメモ帳を出し、靴を幾つかと化粧道具一切を出した。
そして膝を抱えたまま死んでいる母の部屋に戻った。(参考文献5.

 

いとうの小説にも母親を川に流す女性のFFが登場する。このFFは老いと記憶を結びつけるための淡い症候ではないだろうか。私はいとうが認知症をテーマにした作品を書くことを期待する。一度死と老いのテーマに魅入られた作家が、時間のコードを解体し、子どものモチーフへ戻り、「ノーライフキング」のような遊びを今度は「死」と「時間」に対して展開するかもしれない期待だ。それは全く勝手な妄想でしかない。しかし、少なくとも小説というメディアには、死、老い、時間というものを相手取るだけのポテンシャルと技法の歴史がある。これを小説の自由として断言してよいのではないだろうか。

参考文献
1. 池澤夏樹「人間に関することすべて」(ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』Ⅳ、集英社文庫、2003)
2. いとうせいこう「ノーライフキング」、新潮社、1988
3. William Gaddis ”JR” , Dalkey Archive Pr, 2012
4. いとうせいこう「想像ラジオ」、河出書房新社、2013
5. いとうせいこう「どんぶらこ」、河出書房新社、2017
6. スコット・F・フィツジェラルド「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」、永山篤一訳、角川文庫、2009
7. J・ベルンレフ「アウト・オブ・マインド」、枝川公一訳、ディーエイチシー、1996
8. テッド・チャン「あなたの人生の物語」、公手成幸訳、早川書房、2003

文字数:5913

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