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文芸評:ロベルト・ボラーニョ「第三帝国」;ゲームのように殺し合わない

『第三帝国』*という邪なタイトルは作中に登場するゲームの名前だ。タイトルは読者に本物のナチスドイツとゲームとの、小説との関連を期待させる。その期待を推進力にして小説を読み進ませる。このゲームは人の生死を占う邪悪な暴力装置だろうか、それとも単なるボードゲームだろうか。
しかし読み終えると、本作の真の狙いは、読者が、物語の消費者がたびたびそうして物語が劇的になることを望みすぎる傾向をからかうことにあるように見える。私たちは物語に劇的な展開を、つまり登場人物が死ぬことを期待しすぎてはいないだろうか。そして物語と同じように、現実の死やテロリズムを解釈しようとしてはいないだろうか。小説、映画、アニメーション、自己啓発本からキャッチコピーまで物語を生み出すメディアに囲まれすぎ、現実を物語ることを覚えすぎた私たちに、現実と物語とは別物だと改めて思い出させる。
『第三帝国』は2003年に50歳で亡くなったチリの作家ロベルト・ボラーニョの遺稿から見つかった。執筆は1989年とされる。
物騒な名前のボードゲームで、プレイヤーがヨーロッパの地図が描かれた盤上で第二次世界大戦に参加した各国軍の駒を操り、対戦相手と領土を奪い合う。1対1での対戦も、チーム戦も両方可能なようだ。
小説は、このゲームのドイツ・チャンピオン、ドイツ人の青年ウド・ベルガーの8月20日から9月末日までの彼の日記(とその後日談)として綴られる。9月2日以降の記述は、彼と彼が休暇を過ごすスペインの湾岸リゾート地で出会った、上半身が火傷に覆われた経歴不詳の火傷のゲームの対戦が占める。対戦の描写を一部引用する。

四一年夏。イングランドにおけるドイツ軍の戦況は満足のいくものだ。以下の部隊がある。第四歩兵部隊がポーツマスにあり、SRと第四十八装甲部隊による補強 を受けている。橋頭堡に駐留を続ける第十歩兵部隊の補強には第二十および第 二十九歩兵部隊が当たっている。イギリス軍は兵力をロンドンに集中させ、航空 部隊を空中戦に備えて交代させる(直接ロンドンに飛んで行くべきだったのだろ うか? そうは思わない。)……(248ページ)**

〈第三帝国〉の特徴は、ゲームのプレイヤー同士が共有するバーチャル空間が完全なフィクションではない点だ。ゲームの描写を構成する実際の地名や実在する軍隊用語、実在の軍人の名前は本物の歴史資料を連想させる。また、「僕の好きな将軍たち」という章でウドは自分が憧れるドイツ軍人を次々に紹介していく。データベース的な章と言ってもいいかもしれない。ゲームは歴史資料のデータベースを素材に構成されているとも言っていいかもしれない。
作中では、「コピー」というアイテムがユニークな役割を果たす。これはウドがゲームの「手」を練るためのお供で、〈第三帝国〉のルールブックや、駒の配置(作中では「ヴァリアント」と呼ばれる)を取り上げる専門誌の記事のコピーを指す。ある日、《火傷》も「コピー」を持参する。ウドは「誰から〈第三帝国〉のコピーをもらったのか**」と問い詰める。それは地元の図書館から取ってきたのだと後で明らかになる。《火傷》はたかがゲームの攻略本に、本物の歴史資料を接続する。
ドイツ人ウドはドイツ側としてゲームをプレイすることに誇りを持っている。そのドイツが第三帝国ナチスドイツであったとしてもだ。一方、対戦相手の《火傷》は地元のスペイン人ではないようだ。彼の凄惨な体の火傷は、事故ではなく誰かに意図的に付けられたものだと作中の噂話が仄めかす。ゲームと歴史は関係を持っている。小説はそう、暗示する。
同書日本語訳付録の解説で、翻訳家の都甲幸治が20世紀の南米の政治運動を描いたボラーニョの他のいくつかの小説(例えば『はるかな星』と『アメリカ大陸のナチ文学』(ともに1996))を使って、本作中では明らかにされない《火傷》の出自を南米大陸と仮想定している。第二次大戦後、軍事裁判の制裁を逃れた一部のナチス軍人は南米に逃げ込んだ。その内のまた何人かを、ボラーニョの出身国でもあるチリの独裁者ピノチェトの政権が匿っていた疑いがある。そして《火傷》はかつて反ピノチェトの抵抗勢力として、革命闘争の中で政権からの制裁を受けたのではないか。それで、火傷を負ったのではないか、そしてピノチェトに加担したナチスの軍人を恨んでいるのではないか。そう推測する。
駒(国家とその軍隊)や盤(土地)、「コピー(可能世界)」といった要素はゲームが始まる前なら、そのゲーム展開のシナリオの素材でしかない。そうしたデータの羅列は対戦ゲームのシナリオとして分化する前の、撒かれただけの物語の種と言ってもいい。データベースという平原でプレイヤーは、どちらかが勝つという二者(あるいは複数者)択一の戦いを繰り広げる。対戦ゲームにはきっと、「どちらが正しい物語か」という物語同士の闘争という側面があるのだろう。勝った側は、自分にとって都合のいい物語を報酬として収穫する。本物の戦争のように。
ウドをゲームで圧倒し始めた《火傷》は「勝った者が負けた者の命を好きなようにする**」とウドに提案する。多くの読者にこういう予感がよぎるだろう。「ウドはゲームに負けて、《火傷》に殺されるかもしれない」。
しかし、『第三帝国』は白熱するゲームの描写を次々と実況していくバトル漫画やスポ根ドラマのような小説ではない。日記だ。描写は散漫で、展開は遅々として進まない。恋人と休暇を過ごしに行楽地を訪れた男は、当地で出会った同年代のカップルとビーチでくつろいだり、ディスコに行ったりとだらだら過ごす。同じルーティンを繰り返し、誰かがいなくなるとまた別の誰かがやってきて別のルーティンが始まる。そのうちの一つにゲームがあるにすぎない。
ウドはホテルのオーナーの妻フラウ・エルザに惚れている。彼女にちょっかいをかけたり、ホテルの客室係にわざと無礼な態度をとってフラウを困らせる。ウドは、母親に甘えるような幼稚な淡い恋愛感情をフラウに向ける子どもっぽい人物として描かれる。オーナーもフラウもドイツ人だ。
やがて、恋人や友人に取り残されたウドは神経症的になり、ホテルの部屋に引きこもって《火傷》とのゲームに没頭し、パラノイアックな妄想を始める。例えば、ホテルの夜警が逢瀬を監視しているとか、《火傷》がゲームを上達させたのは、病気で寝たきりのため姿を見せないフラウの夫、ホテルのオーナーが《火傷》に入れ知恵しているからだとか。孤独な男のホテルの部屋は散らかり、においが立ち込め、だらしない心がありもしない不安に引き寄せられる。散漫な散文だ。不安はウドに、そして彼を通して読者に物語を、ゲームの勝敗という明確なプロットを欲望させる。
ホテルの客室係から聞き出した情報を頼りにウドはオーナーの寝室を訪れる。オーナーはフラウとの逢瀬もゲームの展開も全てを見透かしていた。超越者のような立場で突然登場するオーナーは、フラウ、ウドと合わせて、父、母、子というエディプス的な関係を連想させる。オーナーはゲームについて「あれは競技なんかじゃない。第一、もちろん話は〈第三帝国〉のことなどではない。あいつが君になにをしようとしているかということだ**」「降参しろ、荷物をまとめて、支払いを済ませたらどうだ? そして国に帰るんだ**」と警告する。なんと妄想は現実だった。彼は恐らく読者が今か今かと期待して読み進めてきた戦争とゲームの関連、ゲームが実際の命をかけた殺し合いであるという疑いが事実だと明言する。

「歴史書をひもといてみればすぐにわかるさ」彼の声は弱弱しく、疲れたように響いた。「ドイツ語で書かれた歴史書でもわかる。戦争犯罪人に対する裁判が始まるのさ」
(中略)
「…いいかい、あの哀れな青年の悪夢の中では、裁判はおそらくゲームの最重要行事だ。それだけのためにあれだけの長時間、ゲームに費やしているんだ。ナチを縛り首にするために!」(349ページ)**

 

まるで神のお告げだ。いかにも芝居がかったやりとりだが、一方でこの小説にはあからさまな宗教の話が出てこない。孤独や不安が物語を欲望し、そうして欲望された物語同士が対立する話なら、宗教と戦争の話題が現在でも歴史の中でも最も身近なトピックではないだろうか。
ここ数年、欧州都市の街路を唐突に破壊して回るのはもちろん第三帝国の軍人などではなく、代わりにローンウルフ型やホーム・グラウン型と呼ばれるテロリストたちだ。そして、テロのたびに、まるで判で押したようにイスラム国は犯行声明を出し、メディアは現場で「アラーの名のもとで」と誰かが叫んだと報道する。それが組織犯であれ、単独犯であれ、一部のメディアと犯行を起こす側、促す側の人間が、一つ一つの犯行がイスラム過激派のグローバル・ジハードというバーチャルな物語に紐付けされることを望んでいる。つまり、事態が大げさになることを。
今年3月からのたった3ヶ月で3回のテロを経験したイギリスのテリーザ・メイ首相は、3回目の発生を受け、演説を打った。彼女はテロリズムが持つ「最近の傾向」について、「何年も計画と鍛錬を積んで注意深く筋書きが練られた***」テロだけではなく、「インターネット上で影響されて突発的に犯行に及んだ単独犯***」や「露骨に他の犯行を真似た犯行***」といった粗雑な事例にも警戒する必要があると分析し、「計画と実行という点では、ここ最近の襲撃は互いに無関係のもので、私たちが直面している脅威には新しい傾向がみられるようだ***」という見方を強調した。個々の犯行が「大きな物語」に接続し得ないバラバラの活動であること、そしてそれはイスラム教とは無関係のものだということを強調し、暴力の連鎖を避けようとしたようだ。
小説に戻る。本稿は「ウドはナチだ。《火傷》はナチに恨みを持つ者だ。ゲームでウドを死ぬかもしれない」的な大げさな解釈を打ち立てるものではない。冒頭で述べたように、そういう解釈に読者を駆り立てること自体が、本書の手口だ。
ネタをばらしてしまうと、ウドは死なない。彼はゲームに負け、殺されず、《火傷》に別れを告げる。そして、ウドはそのままゲームから足を洗う。それだけだ。〈第三帝国〉は結局「たかがゲーム」だった。
小説を読む私たちは「意味」を期待しすぎる。わざわざ書かれているのだから、それが重要なことであると勘ぐる。「第三帝国」はそういう読者の文学的な期待を散々煽ったあげく、最後に裏切る。読者がこれまで拠り所にしてきた一人称、ウドの敗北は悲劇かもしれない。しかし、たかがゲームだ。ゲームに負けたぐらいで大したことは起こらない。 本書で、狂ったようにゲームに熱中していたウドは《火傷》に敗北した後、ゲームから足を洗う。ショックからではない。そこには憑き物が落ちたような清々しさがある。ゲームは現実に直接影響を与えなかったが、彼にカタルシスを与えた。何かの片がついたようだ。物語はときに、暴力のような極端な行動と癒着する。本書はそういう悪い物語について醒めてみせる。
付言しておくが、物語を求めるな、カオスに生きよ、ということを書いているのではない。最後に小説の最終部分を引用する。休暇が終わり、10月になり、ウドは〈第三帝国〉の大会に観客として顔を出す。

シュトゥットガルトのブースに戻ると、コンラートが提供するプロジェクトのところ以外、誰もいなかった。僕は少し後片付けをし、雑誌はこちら、ゲームはあちらと分けて置き、音も立てずに大会会場をあとにした。(386ページ)**

彼がホテルを去る時の荷造りの描写は日記に書かれていない。その代わりに、ゲームの大会の会場を後にする場面でささやかな、雑誌とゲームを片付ける一文が見られる。これをゲームから足を洗う彼の最後の荷造りではないかと考えたい。目に見えないバーチャルな物語のプロットを夢想する代わりに、目に見える具体的なものを並べ直して一つの秩序の中に片付ける。それが、ゲームと現実をパラノイアックに結びつける代わりに本書が最後に提示するささやかな物語ではないだろうか。

(5107字)

*「第三帝国」の表記について劇中のゲームを表す場合は翻訳の表記に従い、〈第三帝国〉とし、小説自体を表す場合は『第三帝国』とした。
**『第三帝国』(ロベルト・ボラーニョ, 柳原孝敦訳, 2016, 白水社,
***引用元:http://time.com/4804640/london-attack-theresa-may-speech-transcript-full/(拙訳)

文字数:5140

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