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イワン・カラマーゾフへの応答

<目次>

はじめに

第1章:反定立命題と悪魔

         第1節:『カラマーゾフの兄弟』における「別の領域」

         第2節:二律背反的主人公・イワン

第2章:二律背反的世界認識

         第1節:イワンの二律背反的世界認識

         第2節:第二の二律背反的主人公・アリョーシャ

第3章:イワン・カラマーゾフへの応答

 

はじめに

本稿の主題は、ドストエフスキー文学の哲学的読解である。『カラマーゾフの兄弟』における諸問題の哲学的な言語化を、その目的とする。

全世界のあらゆる批評家や文学研究者が論じてきた『カラマーゾフの兄弟』を、今さら分析対象にすることに何の意義があるのか?ましてや「2020年代も読まれる批評」という課題への応答として、このようなテーマを選択することは適切なのか?当然噴出するであろうこれらの問いに対し、本稿の視座を述べることを以って、回答とする。

哲学者の東浩紀は、以下のように論じている。

「ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の中で提示している問題に、答えた哲学者はいないというのが僕の認識です。それは、哲学的に定式化すらされていないと僕は思います」(「思弁的実在論の現代的展開」)

『カラマーゾフの兄弟』においてドストエフスキーが提示した問いは、未だ哲学的回答を与えられていないどころか、哲学的問題として十全に言語化すらされていない。東が特に問題とするのは、イワン・カラマーゾフが問うた問題だ。

「たとえ苦しみによって、永遠の調和を買う為に、全ての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子供に一体何の関係があるんだい」 (『カラマーゾフの兄弟』)

「そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して神様に祈った、あの痛めつけられた子ども1人の涙にさえ値しないよ!」(『カラマーゾフの兄弟』)

仮に世界の終末において、永遠の調和がもたらされたとしても、歴史において刻まれた非業の死者の苦しみを帳消しに出来るだろうか?イワンの問いは、単なる無神論に還元できない、捩れたものだ。だが彼が提示する問いは、未だ扇情的な放言としての地位しか与えられていない。

本稿は、上記の東の発言と問題意識を同じくする。即ち、『カラマーゾフの兄弟』における諸問題が十全に哲学的言語化をされていないことに着目し、哲学という視座から同作品を論ずることを試みる。

『カラマーゾフの兄弟』の哲学的な言語化―この大テーマに着手するに当たり、本稿はある論考を立脚点に思考を開始する。それはスターリン時代に生きた哲学研究者・ゴロソフケルの『ドストエフスキーとカント ―『カラマーゾフの兄弟』を読む―』(以下、『ドストエフスキーとカント』)だ。書名の示すとおり同書は、『カラマーゾフの兄弟』の解釈を通じて、ドストエフスキーとカントの連関を論じている。ゴロソフケルは同書の冒頭において、以下のように記載している。

「 作者の考えによると、唯一の犯人は、俗に鳥も通わぬ里といわれる、とても辺鄙な秘密の隠れ家、要するに、ほかならぬカントの『純粋理性批判』・・・のなかに身をひそめているのである。」(『ドストエフスキーとカント』)

彼によれば、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の執筆時に仮想敵として設定したのは、カントの『純粋理性批判』だった。 18世紀のケーニヒスベルクの哲学者と、19世紀のロシアの文学者―直接的な邂逅はおろか、一方向的な影響関係さえ実証が難しい両者を並べて論じるのは、些か奇異に映るかもしれない。しかしこの2人を並列させたのは、ゴロソフケルだけではない。例えば文学者の埴谷雄高は、以下のように述べている。

「まったく方向の相反するカントとドストエフスキーが、不可能と可能の形而上学を背中合わせに挟んである黙示のごとく立っているシャム兄弟にように思われるのである」(『埴谷雄高全集』第5巻)

“日本版の『カラマーゾフの兄弟』”を書いたとも言われる埴谷は、同じく彼に決定的影響を与えたカントとドストエフスキーをシャム兄弟(体が結合した双生児)に喩えている。他にも、管見の限りでも、亀山郁夫や高橋誠一郎、アルセニイ・グリガらによって、両者の親近性が指摘されている。ともあれここで強調しておきたいことは、複数の哲学者や文学者らが直観的にカントとドストエフスキーに何らかの関係性を感じ取ったということである。

だがそれを哲学的にある程度まとまった形で提示したのは、上述のゴロソフケルのみである。よって本稿はこのゴロソフケル論を重視し、その検討から思考を開始する。それは言わば、実現しなかった2人の思想的巨人の出会いを仮構する作業となるだろう。

 

1章:反定立命題と悪魔

第1章第1節:『カラマーゾフの兄弟』における「別の領域」

「父殺しの物語」「神無き世界を描いた文学」―不穏な枕詞を冠せられることの多い『カラマーゾフの兄弟』は、数多くの謎に満ちている。その謎の一つは、「一体誰がカラマーゾフ老人を殺害したのか?」というものだ。素直に小説を読めば、犯人はスメルジャコフだと結論したくなる。しかしこの作品の錯綜した状況は、安易な断定を許してはくれない。確かにスメルジャコフはイワンに対して、次のように述べる。

「ぼくはそこで、旦那さまのテーブルの上に置いてあった例の鋳物の文鎮、おぼえておいででしょうが、一キロ以上もありそうなやつです。あれをつかみまして、振りかぶり、うしろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました。声ひとつあげませんでしたよ。ぼくは二度、三度と打ちおろしました。三度目に、ぐしゃっと割れた手ごたえがありました。フョードルさまは、血だらけの顔を上に向け、ふいにどうっと倒れました」(『カラマーゾフの兄弟』)

この生々しい自白だけを見れば、犯人がスメルジャコフであることは明らかだ。しかしこの告白の後、スメルジャコフは奇妙なことを述べる。

「殺したのは、あなたですよ、あなたが主犯なんです、ぼくは、ただ、あなたの手足を務めたにすぎません」 (『カラマーゾフの兄弟』)

スメルジャコフは撲殺を認めたにもかかわらず、自らは「手先」に過ぎないと述べる。加えて、カラマーゾフ家の次男・イワンこそ、「真の殺害者」であると主張するのだ。このスメルジャコフの言葉は、単なる殺人鬼の戯言として片付けられない。イワンはスメルジャコフの告白によって強い動揺に晒され、果てには譫妄症に陥る。さらに読者を一層の混乱へと導くのは、イワンの前に出現する悪魔である。物語の中盤には、悪魔という謎の存在が一人の登場人物として姿を現し、イワンと狂気の会話を繰り広げる。

なぜイワンは、スメルジャコフから殺害の告白を受けながらも、自らを「真の殺害者」であると信じてやまなかったのか?なぜアリョーシャは、「あなたではない」とイワンに叫ばなければならなかったのか?そして、「悪魔」とは何なのか?ゴロソフケルが取り組むのは、これらの謎だ。

「作者は、遂行された犯罪の形式的な事実の領域だけに読者をとどめてはいない。作者は読者を別の領域、良心の世界の領域、心の領域、幻想的な領域、地獄的な領域へと誘導するのである。(中略)作者が読者を、悪夢にうなされるような心の領域へと移行させるのは、フョードル・パーヴロヴィチの殺人犯を、そこの領域で読者に探させるためである」(『ドストエフスキーとカント』)

すなわち、『カラマーゾフの兄弟』は、ファクトベース的な推理小説に留まらない。そこには、「別の領域」が広がっている。「形而下」(ファクトベース的探究)に収まりきらない「心の領域」―そこでは「すべては赦される」を巡る哲学的闘争が繰り広げられている。

スメルジャコフは自らの犯行をイワンに告白したのち、殺害に手をかけた理由をイワンに投げかけている。

「それもこれも、《すべては赦される》と考えたからです。これはあなたが本気で教えてくだすったことです。なぜってあなたはあの、いろんなことをお話しくださいましたから。無限の神がなければ、どんな善行もありえないし、そうなったら善行なんてまったく必要なくなるとね。これはあなたが本気で教えてくださったことですよ。ですからぼくもそんなふうな考えにたどり着いたんです」(『カラマーゾフの兄弟』)

「すべては赦される」―それは人間が自らの行為を規定する際に、超越的存在や道徳を考慮することなく、ただ感性的欲望(ここではもっぱら金銭の獲得)に従えばよいというものである。これは哲学の一領域である倫理学に位置する命題と言える。つまりイワンがスメルジャコフに行った「教唆」とは、単にフョードルの頭を文鎮でたたき割ることではない。その殺人行為を正当化する哲学的命題を、(スメルジャコフによれば)イワンはスメルジャコフに教え、スメルジャコフはそれに基づいて殺人に手を染めたのである。

さらにスメルジャコフとの面会を終えたイワンは帰宅後、悪魔との狂気的な会話を繰り広げる。そこで悪魔が主張するのは、以下のようなものだ。

「いったん、人間が一人残らず神を否定すれば、(中略)おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し、何もかも新しいものが訪れてくるのさ。生命がもたらしうるすべてのものを手に入れるため、人々は一つになる。が、それはぜひとも、現世での幸せと喜びのためでなければならない。人間は、神のような、巨人のような誇りの精神によって称えられ、人神が出現する」(『カラマーゾフの兄弟』)

「次に問題となるのはこういう点だと、この若い思想家は考えたわけです。つまり、こういう時代がいつか訪れることが可能なのかどうか、って点ですよ。(中略)人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後一千年は整わないだろから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則に従って、完全に自分の好きなように身の振り方を決めることが許される。この意味で彼には『すべては赦される』ってわけ」(『カラマーゾフの兄弟』)

悪魔の主張もまた、「すべては赦される」という倫理的命題を巡るものであり、それはイワンがかつて『地質学的変動』において論じたことをそのままなぞるものだ。それは地上の人間が一人残らず神の存在を否定すれば、既存の価値や道徳はすべて崩壊し、新しく現世の幸福と喜びを尺度とした行動規範を定立できるようになる。そうした世界において、神がないという「真理を認識した人間」は例外的に、自らの行動を新しい規則に則って規定できる。即ち「すべては赦される」。ここで悪魔の「哲学」とイワンの「哲学」は、「すべては赦される」という命題において一致している。正気を失いつつあるイワンも、以下のように述べる。

「おまえは、おれの幻覚なんだ。お前は、おれの生き写しだ。といってもおれの反面にすぎんがな・・・おれの考えとか感情とか、いちばん胸糞わるい、愚かな半面のな」(『カラマーゾフの兄弟』)

イワンは、眼前に現れた「悪魔」を自らの「半面」と一致した存在だと認める。この「半面」という言葉が示す意味は示唆的であるが、それは後述することにしよう。

ここで確認しておきたいことは、以下の2点である。第一に、イワンがスメルジャコフに行った「教唆」とは、フョードルを殺すという形式的行為だけにとどまるものではないこと。フョードル殺しが現実化するためには、殺人行為を正当化する「すべては赦される」という哲学的命題を、スメルジャコフがイワンから学んだことが不可欠であった。第二に悪魔とは、イワンの哲学的主張「すべては赦される」が形象化した存在であることだ。

それでは「すべては赦される」とは何なのか?また同命題の条件となっている「不死がなければ」「神がいなければ」とは、何を指すのか?それらの問いに回答するために必要とされるのが、カント哲学である。ゴロソフケルよればドストエフスキーは、カントの「四つの二律背反全てを(中略)小説の中で提示している」 。さらにゴロソフケルは述べる。

「ドストエフスキーは『純粋理性批判』―カントのアンチノミーを知っていたのか、それともまったく独自にカントと同じ問題を提起し、カントの論証、反対論症とは無関係に、『カラマーゾフの兄弟』のなかでそれらに答えたのだろうか?これに対する答えは二律背反的ではない。ドストエフスキーは『純粋理性批判』の矛盾論を知っていたばかりではなく、それを深く考察したのである。そればかりではなく、ある程度それをにらみながら、小説の劇的な状況の中で自分の論証を展開したのだった。」 (『ドストエフスキーとカント』)

これは、これはドストエフスキーの手記といったエビデンスに基づいた伝記的証明から導出されたものではない。ゴロソフケルによれば、『カラマーゾフの兄弟』の記述が、そのことを雄弁に物語るというのである。ここでカントの二律背反について概観しよう。二律背反とは、優れた知性的存在者である人間が、ある4つの問いを与えられると、矛盾する2つの回答(定立命題と反定立命題)を導出してしまうことである。その問いは、以下のようなものである。

第一の二律背反:

世界には時間的/空間的な端緒と終焉があるのか?

第二の二律背反:

世界には、これ以上分割できない最小の単位があるのか?

第三の二律背反:

人間には、因果関係に反して自らの行為を定立する自由はあるのか?

第四の二律背反:

世界における最高原因(=神)は存在するのか?

以上の4つの問いを人間が問うと、同時に2つの答え(定立命題と反定立命題)が導き出されてしまう。しかも2つの命題は矛盾し、両立できないはずであるにもかかわらず、である。カントが行った詳しい証明はここでは繰り返さないが、この二律背反は人間の認識能力が「感性」「知性」「理性」という異なる構成要素から成立していることに起因する。これらの能力は、物理学や数学的な問いを与えられたときには、整合的に協働する。しかし、「理性」は科学的学問に飽き足らず、「神の存在」や「霊魂の不滅」といった経験を超えた領域についての考察を、「知性」に要求する。しかしそうした問いは人間の認識能力を超越しているため、矛盾する2つの命題が同時に導出されてしまう。

やや説明が長くなったが、このカントの二律背反が『カラマーゾフの兄弟』と深く連関しているというのが、ゴロソフケルの主張だった。彼は、『カラマーゾフの兄弟』における登場人物の台詞と、『純粋理性批判』の記述を並列しながら、両者の論理的一致を指摘する。まず参照するのは、イワンがアリョーシャとの対話の中で放った台詞と、『純粋理性批判』における第三の二律背反の反定立命題である。

『カラマーゾフの兄弟』:

「苦悩が存在するばかりで、罪人はいないということだ。すべては直接かつ単純に原因が結果をもたらし、次から次へと絶えず流れ流れて平衡をたもっていくということだけだ」

『純粋理性批判』:

「反定立命題 自由というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則だけによって生起する」

「私たちの「責任能力」のどの側面が自由の結果なのか、どの側面が自然の結果なのか、私たちは知りえないし、判断することもできない。私たちにはその功罪は隠されたままである」

イワンの発言もカントの記述も、人間の「自由」を巡るものであり、その主張内容は完全な一致を見せている。どちらも世界における自然法則/因果関係が人間の行為を規定するとしている。即ち、罪人などは存在しない。罪人という概念は、道徳的に悪とされる行為に手をかけた人間に「責任能力」を問うことが出来る場合にのみ成立する。もしも当人が自らの行為を自らで規定する「自由」がなければ、単に人間は自らが属する因果関係に従って行為「させられる」だけである 。

さらにカントの主張と『カラマーゾフの兄弟』の登場人物の言葉の比較を続けよう。『カラマーゾフの兄弟』第3編「好色な男たち」において、フョードルとイワン、アリョーシャは、「神はあるのか、ないのか」という会話を繰り広げる。「神はあるのか」 というフョードルの言葉に対して、イワンは「ありませんよ、神はありません」 と回答する。それに対しアリョーシャは対照的に、「神はあります」 と答える。二人に対してフョードルはさらに、「不死はあるのか、何かほんの少しでもいいんだが?」と問うが、イワンは「不死もありません」と否定する。一方アリョーシャは、またしても「あります」と返答する。第二・第四の二律背反を参照しよう。

<第二の二律背反>

定立命題:

「世界は究極の構成要素としての単純な実体から構成されている」

反定立命題:

「世界には単純な実体は存在せず、構成要素はどこまでも分割可能である」

 

<第四の二律背反>

定立命題:

「世界には、その部分または原因として端的に必然的な存在者が属する」

反定立命題:

「世界の中にも外にも、端的に必然的な存在者が世界の原因として現実存在することはない」

上述の比較から明らかになること―それは、「好色な男たち」で繰り広げられるイワンとアリョーシャの会話の論点が、第二、第四の二律背反と一致していることだ。さらにアリョーシャが定立命題的な回答をするのに対し、イワンは反定立命題的な返答をしていることも明確である。イワンならびに反定立命題によれば、我々人間は肉体の消滅(死)とともに、跡形もなくこの世から抹消される(人間の構成要素の中に実体は認められないのだから)。また、神のような超越的存在は存在せず、人間が生きるこの世界を超えた基準等を持ち出す必要もない。

続いて、反定立命題と「すべては赦される」という命題の関連性を考えてみよう。以下において引用するのは、スメルジャコフが放った言葉である。

「すべては「赦される」からきているんですよ。これは全くあなたが教えて下さったんですから。だって、もし永遠の神様がなけりゃ、どんな善行はありはしない。そうなれば善行なんてまるで必要ないってね」(『カラマーゾフの兄弟』)

第四の二律背反における反定立命題は、「世界には最高原因(=神)は存在しない」というものだ。上記のスメルジャコフの言葉を読む際に注意すべき点は、反定立命題が「すべては赦される」の条件になっていることである。即ち、「すべては赦される」は単独で成立する命題ではなく、「神はない」という反定立命題を条件として必要とする。また悪魔は、イワンに対して以下のように語っている。

「もしそのときがいつまでも来なくても、どうせ神と不死はないのだから、新しい人間には以前の奴隷的人間のあらゆる道徳的限界を飛び越える事もゆるされる」(『カラマーゾフの兄弟』)

「あらゆる道徳的限界を飛び越える事もゆるされる」―やや表現は異なるが、スメルジャコフの発言と同じく、これは倫理ならびに道徳の無効性を述べたものである。そしてどちらも、反定立命題(「永遠の神様がなけりゃ」「どうせ神と不死はないのだから」)を条件として成立している。そしてこの条件(=不死/神はない)とそれから導出される命題(すべては赦される)の関係は、カントの反定立命題の下では「道徳的な理念と原則はその妥当性をことごとく失う」 、「経験論は宗教と道徳からあらゆる力を奪い取る」 という主張と一致する。すなわち反定立命題を受け入れるとき、一切の道徳や倫理がその基盤を失ってしまう。そこに成立するのは、”父殺し”さえ正当化される世界である。

ここまでの主張を簡約しておこう。イワンがスメルジャコフに対して行った教唆には、「すべては赦される」という殺人を正当化する哲学的主張が含まれていた。また、その「すべては赦される」とは、反定立命題を条件とした際に成立するものである。即ち哲学的/形而下的位相における「真の殺害者」は、反定立命題であり、悪魔とはその現実的形象である。

第1章第2節:二律背反的主人公としてのイワン

ゴロソフケルの主張は続く。彼はイワンを「カント的二律背反の主人公」と位置づけている。イワンの提示する「神はない」「不死はない」「罪人はいない(=自由はない)」などの主張は、カント的二律背反における反定立命題と立場を同じくするものである。その点から考察すると、イワンは「反定立命題を体現した人物」であるといえる。しかしドストエフスキーは、イワンを単なる「反定立命題を体現した人物」としてのみ描いているわけではない。それは、イワンの一側面に過ぎない。イワンは、「二律背反の天秤棒の上で揺れ続ける」人物として描かれている。カントは以下のように述べている。

「ある人が、相争う二つの理論の内のどちらかを明確に支持しなければ自分の置かれた窮地から逃れる道がなかったとしよう。その場合にはその人は、絶えざる動揺の状態に置かれる事になるだろう。今日は人間の意志が自由であることを確信したとしても、明日になれば、自然の連鎖が解き難いものであることに思いを致して、人間が自分を自由だと考えるのは自己欺瞞に過ぎず、全てのものが自然であると考えるだろう」(『純粋理性批判』)

これは、二律背反の両命題の間を揺れ動く人間の様子を描いたものである。二律背反に直面した人間は、あるときは自由であり、魂は不滅であり、神は存在すると固く信じてやまないだろう。しかしその確信はすぐに動揺に曝され、人間は外界に従うだけの動物と変わらない存在であり、肉体の死とともに人間は跡形もなく消え去り、神のような最高存在はないと考える。この二律背反の天秤棒は絶えず揺れ続け、それに捕われた人間はその動揺から逃れ出る事ができない。

イワンもまた、その動揺に曝された人物であった。彼は反定立命題を積極的に主張するだけでなく、カント的な批判の立場からの主張も行っている。

「ぼくはおとなしく白状するが、こんな問題を解く能力はぼくには少しもない、僕の頭脳はユークリッド的なもの、地上的なものだ。(中略)だからこの世と無関係の問題なんか解けるわけがない」(『カラマーゾフの兄弟』)

この「ユークリッド的」「地上的」な頭脳は、『純粋理性批判』における経験の範囲外を認識できない人間の認識能力と等しい。また「この世と無関係の問題」とは、経験可能な範囲を超えた、神や霊魂、不死といった理念的な問題である。「イワンはカントのいったことをドストエフスキーの語彙で正確に繰り返し、悟性にとっての仮想的世界[中略]は認識不可能([]内筆者中略)」 だと述べている。これは、人間の認識能力を批判してその限界を知り、理念的な問題は理論的理性では解決し得ないものであることを明らかにしたカントの批判的立場と等しい。つまり、イワンの立場は、反定立命題でのみ説明できるものではない。

さらにゴロソフケルはイワンを、反定立命題を主張する「若き思想家」 であると同時に、定立命題を代表する「深い良心」 であるともしている。イワンは、理性的には反定立命題に惹かれながらも、心情的には定立命題に惹かれていた。イワンは、アリョーシャとの対話の中で、以下のような主張をしている。

「俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、我々には全く計り知れぬ神の叡智も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。」(『カラマーゾフの兄弟』)

これは「神はない」「すべては赦される」というイワンの発言と大きく異なるものである。イワンは、単なる無神論者、反定立命題の体現者であるばかりではなく、定立命題的側面も持っている。先ほど本稿は、イワンが悪魔に対して発した「おまえは、おれの幻覚なんだ。お前は、おれの生き写しだ。といってもおれの反面にすぎんがな」 という言葉を引用した。この“半面”が指すのは、「反定立命題」であるが、文字通りそれはイワンの“半面”に過ぎない。彼は定立命題と反定立命題という二側面を持った人物なのである。

さらにイワンの動揺は、ゾシマによって明確な言葉を与えられている。

「この理念はまだあなたの心の中で解決されておらず、あなたの心を苦しめている。[筆者中略]あなたもいまのところは絶望のあまり雑誌に論文を書いたり、社交界で議論をしたりして自分を慰めておられるが、ご自分の弁証論を自分でも信じてはおらず、胸に痛みを感じながら、心の中でその弁証論を嘲笑しておられるのです。この問題はあなたの心の中では解決されてはおりません。そこにあなたの大きな悲しみがあるのです。なぜならば、それは執拗に解決を要求するからです。[筆者中略]肯定のほうに解決できなければ、否定の方へも決して解決されるものではない、それはあなたの心の特性であることは、ご自分でも知っておられるはずじゃ」(『カラマーゾフの兄弟』)

ゾシマは、「不死」や「神」という理念に関わる弁証論に悩まされ、解決の道の見つからないイワンの状態を言い当てている。この二律背反の両命題を不断に動揺する存在としてのイワン―ゴロソフケルは彼のその側面を見て、彼を「二律背反的主人公」とよんでいる。

さらにゴロソフケルは、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』においてカントとの決闘を試みたのであり、カントは「ドストエフスキーの対立者」 であったのだとする。ゴロソフケルは、カントの立場とイワンのそれの相似を主張し、イワンを譫妄状態に陥らせたことが「カントの否定」を意味すると述べる。イワンもカントも、二律背反の解決を理性によって解決しようとした。カントは、理性の実践的使用によって、二律背反の解決を試みた。ゴロソフケルによれば、それは「形式理論の確証で武装した知から発するところの道徳」 であり、心情や直観と区別されるものである。イワンもまた、「理性に無意識の経験的、偶然的な解決ではなく、意識的、絶対的な解決を求めた」 。しかしそのイワンは、理論的に二律背反の解決を求めようとしたものの、結局譫妄症に陥る。つまり、理性を失ったのである。これは人間の知性が「単なる理論的知性の手段だけでは解決できない弁証論に際していかに苦しむか、そして同時に、この争論が理論的見地だけで行われるとすればいかに滑稽なものであるかを、明らかにする」 という。

ゴロソフケル曰く、ドストエフスキーが試みたことは二律背反の理論的解決ではなく、思弁と感性の二つを同時に受容することによる解決である。それは、ドミートリイにおいて為されている。ドミートリイは、下記のように語っている。

「知性には汚辱としか映らないものが、感情には完全な美と思えるんだからなあ」(『カラマーゾフの兄弟』)

この言葉を引きながら、ゴロソフケルは以下のように主張する。

「作者(筆者注:ドストエフスキー)は、この錯覚を実在として受け入れるよりほかには、つまり、ミーチャにおける二重世界の矛盾を受け入れ、実体化した矛盾に潜む生活の意味を公唱するほかになかった」(『ドストエフスキーとカント』)

「問題はテーゼ、またはアンチテーゼにあるのではなく、それらの永久の決闘にある。それはドミートリイにとっては秘密と神秘の結合であり、悲劇的で悪魔的な美としての生活を彼に開いてくれるものなのである。要は戦闘にあるのであって、どちらかの側の勝利にあるのではない」(『ドストエフスキーとカント』)

カントは、二律背反を「錯覚」として扱い、それの理論的解決を試みた。しかしドストエフスキーは、ドミートリイにおいて、その矛盾を矛盾のまま、受容させようとした。ゴロソフケルによれば、そこに両思想家の相違があるという。そうゴロソフケルは結論している。

さて、本章の終わりに当たり、まとめに入ろう。本稿はこれまで、ゴロソフケルの論証を概観してきた。それによれば、『カラマーゾフの兄弟』にはファクトベース的な領域には収まらない哲学的領域が存在する。その領域において繰り広げられるのは、カント哲学的な二律背反の世界であり、「すべては赦される」という命題もカント哲学の内部から導出されるものである。だがドストエフスキーはカントを打倒すべき敵として見做していた。ドストエフスキーは、イワンとカントを重ね合わせ、イワンを悲劇的結末に陥らせることによってカントの理論的な二律背反の解決を拒絶したのである。

本稿は、このゴロソフケルの節の大枠を踏襲する。それは、『カラマーゾフの兄弟』に哲学的領域を見出し、その領域をカント哲学によって解析するというものだ。しかし本稿は、ゴロソフケル説の不十分性と誤謬も同時に指摘する。不十分性とは、未だカント哲学的な言語化が十全に為されていないということである。それについては、「二律背反的世界認識」と名づけられた次章で扱うことにしよう。また誤謬とは、カントが二律背反の「理性的解決」を求め、ドストエフスキーはイワンを譫妄症に陥れることによってそれを否定したというものだ。これについては、譫妄症の解釈の妥当性ではなく、カントの道徳哲学を「心情を排した理論的なもの」と見做すその見解に対して異を唱える。また本稿は、カント哲学から『カラマーゾフの兄弟』を読解したとき、ドミートリイではなく、アリョーシャにおいて二律背反に対する一つの回答を見出すことができると主張する。これについては、第三章「イワン・カラマーゾフへの応答」の課題とする。

2章 二律背反的世界認識

前章において、われわれはゴロソフケル説を参照した。それによれば、『カラマーゾフの兄弟』には哲学・理念的な次元が存在する。その次元で登場するのはカント哲学における二律背反であり、イワンは二律背反の定立命題と反定立命題の間を動揺する存在として描かれていた。そして、彼の生み出した「反定立命題=悪魔」は、フョードル殺しの理念上の犯人であることが明らかになった。

本稿が続いて考察するのは、悪魔を生み出したものが何であったのかという問題だ。その問題に応えるために本稿は、悪魔を生み出したイワンについて論じる。ゴロソフケルの指摘する通り、イワンは定立命題的側面と反定立命題的側面の両側面を持った人物である。そして、「神はいるか」などの問いが、人間の認識能力を超えていることも、彼にはわかっている。しかし彼は、積極的に神を拒絶するに至った。その理由は何であったのだろうか?ゴロソフケルは、この問いに十分な答えを与えていない。

そこで本稿は、イワンの「二律背反的世界認識」を明らかにする。イワンが定立命題と反定立命題の間を動揺する存在である事は、ゴロソフケルも述べていた。しかしそれは、イワンの定立命題的発言と反定立命題的発言を並列するにとどまっている。だがそれらの引用だけでは、イワンの動揺を十分に表現しきれない。それらの一見矛盾する主張を繰り返した背景には、彼なりの世界認識があった。本稿はそれを、イワンの「二律背反的世界認識」と呼び、それの探求を本章の課題の一つとする。

さらに本章では、イワンに加え、アリョーシャについても論じる。本章では、アリョーシャの「動揺」について論じ、彼をイワンに続く「第二の二律背反的主人公」として描くことを目指す。

第2章 第1節 イワンの二律背反的世界認識

「プロとコントラ」におけるイワンの言葉について考察してみよう。

「俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、我々には全く計り知れぬ神の叡智も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。我々がみんなその中で一つに融和するとかいう、永遠の調和も信じる」(『カラマーゾフの兄弟』)

「結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在する事は知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の作った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ」(『カラマーゾフの兄弟』)

この主張からわかるとおり、イワンは神の存在やそれがもたらす「永遠の調和」を認めている。しかし同時に彼は、「神の世界」を認めないとする。この二つを綜合すると、イワンが掲げる主張は、「神が存在すること、ならびにそれが齎す永遠の調和も認めるが、神が存在したこの世界を認めない」というものだ。

これは明白な矛盾ではないだろうか?しかし、イワンが矛盾するカント的な二世界を認識していたと考えれば、その整合性が明らかになる。一つは、神によって「永遠の調和」が齎される理念的な世界(叡智界・物自体の世界)、そしてもう一つは、神が創造した現実世界(現象界)である。このイワンの論じる二世界は、二律背反的である。即ち、物自体の世界における神の存在を考えることは出来る(定立命題)。しかし、現象界においてそれを見出すことはできない(反定立命題)。カントは以下のように論じている。

「必然的な存在者は感性界の系列の全く外部に存在するものであり、超世界的な存在者として、純粋に叡知的なものとして考えねばならないのであり、このことによってのみ、必然的な存在者はすべての現象の偶然性と依存性の法則に従うことから免れる」(『純粋理性批判』)

神という必然的な存在者を考え得るのは、感性界のまったく外部の領域においてのみである。ただその理念的な世界においてのみ、もしくは第一の定立命題でいうところの「世界の始原(=神による創造)」という経験を超えた領域においてのみ、我々は神を考えることができる。これを本稿は、イワンの「二律背反的世界認識」と呼ぶ。

イワンが「神の世界」に異を唱える契機となっているのが、幼児虐待と領主に殺された少年のエピソードである。イワンはアリョーシャに対し、「何の罪もない」 子供がその親や領主によって虐待され殺されるという残酷な事件を羅列する。彼らには道徳的な悪は一切ない。にもかかわらず、苦痛の末に「虫けら」のように殺されていく。さらにそのような残虐行為をした加害者は、それに見合うだけの刑を受けることも無かった。

「俺に必要なのは、報復だよ、でなかったら俺は我が身を滅ぼしてしまうだろう。その報復もそのうちどこか無限の彼方などじゃなく、この地上で起こってもらいたいね。」(『カラマーゾフの兄弟』)

「たとえ苦しみによって、永遠の調和を買う為に、全ての人が苦しまなければならぬとしても、その場合、子供に一体何の関係があるんだい」 (『カラマーゾフの兄弟』)

ここでは、イワンにとっての「神」が、現実界において「福徳一致」を齎すべき存在として描かれている。つまり、人間の行いとそれに対する報いを一致させる存在こそが、イワンにとっての神なのである。このイワンにとっての「神」は、カントにおけるそれと類似している。どちらも道徳的に正しい行いをした者に、幸福を齎す存在なのである。

しかし二律背反的世界認識の下では、その神は物自体の世界にのみ見出しうる存在にとどまっている。現実世界は、罪なき者たちの「苦しみ」に溢れている。その両世界を並べ、イワンは以下のように述べる。

「そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して神様に祈った、あの痛めつけられた子ども1人の涙にさえ値しないよ!」(『カラマーゾフの兄弟』)

先述の通り、イワンは確かに物自体の世界における神とそれが齎す「最高の調和」を認めていた。しかし現象界は、「最高の調和」などまったく認められない福徳不一致の世界である。イワンは、現象界における悲惨な現実と、物自体における「最高の調和」を天秤にかけ、後者の無価値性を主張した。即ち、神を拒絶したのである。

本節での考察により、以下の事柄が明らかになった。まずイワンの主張の前提となっている世界認識ならびに「神」概念が、カント哲学におけるそれらと類似していることである。イワンにとっての神は、「福徳一致を実現すべき存在」である。またイワンは、現象界と物自体の世界という二世界的世界認識を持っているが、これもカント的なそれに極めて近い。後者の世界においてならば神の存在を考えうるが、前者においてそれは不可能だ。そして、「悪魔=反定立命題」がイワンの中で生まれたのは、現象界における福徳不一致による。「徳と幸福を必然的に、そして最高善のために十分なほどに結びつけることは期待できない」  現象界の現実を眼前にし、イワンは物自体の世界にしか妥当しない神とそれが齎す「最高の調和」を拒絶したのである。

続いて、イワンが創作した「大審問官」について論じたい。大審問官の世界認識もまた、二律背反的である。また「大審問官」が提起する問題は、カントの哲学において核をなす「自由」の問題と関連している。さらにそれは、「全ては赦される」の命題になっている「不死」の問題とも深く関係している。カントによれば、実践理性は道徳律と格率の一致という最上善の実現を求めてやまない。しかしそれは現実的に不可能であり、「無限の進行」を必要とする。そのことから、「霊魂の不滅」が要請されるのである。

大審問官の物語のあらすじを記載しよう。15世紀のセヴィリヤにイエスは再び姿を現わす。しかし大審問官はイエスを捕らえ、「今頃何をしにきたのか」と彼を責める。そしてかつてのイエスの行為を非難する。それは、悪魔が持ち出した「荒野の石をパンに変えてみよ」「この客殿の頂上から身を投げてみよ」「悪魔である自分にひれ伏せば、地上の全ての王国と栄華を与えよう」という申し出を、イエスが全て拒否したことに対してだ。

ただの石ころをパンに変える奇蹟。身投げしても天使が助けてくれるという神秘。地上に支配的な王国を築くという権威。イエスはこの「3つの力」を使うことを拒絶し、人間が自発的にその行為の選択を行う生き方を示した。大審問官がイエスを論難するのは、この点である。

大審問官もまた二律背反的に世界を認識していたと言える。まず大審問官は、良心の自由ではなく、奇蹟や神秘、権威といった現実的利益によって行動を規定される「不自由」な存在たる民衆に直面していた(第三の反定立命題的)。他方において大審問官は、イエスという存在も知っている。それは、自らの自由に基づいて愛の行為を行なった存在である(第三の定立命題的)。一方には民衆という反定立命題的存在がおり、他方には定立命題的なイエスがいる。これが大審問官の二律背反的世界認識である。大審問官もまた特に第三の二律背反において、定立命題と反定立命題の天秤棒の上を揺れ動く存在だったのである。

しかし大審問官は、民衆を奇蹟と神秘、権威という「3つの力」で支配することを選択する。それは、人間の「自由」に対する拒絶を意味した。大審問官は語る。

「人間は良心の自由などという重荷に耐えられる存在ではない。彼らは絶えず自分の自由と引き換えにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ。だからこそ、我々は彼らを自由の重荷から解放し、パンを与えてやった。いまや人々は自己の自由を放棄することによって自由になり、奇跡と神秘と権威という三つの力の上に王国を築いたのだ」(『カラマーゾフの兄弟』)

人間は道徳律(「天井のパン」)よりも、「心の傾向性」に沿った欲望の対象(「地上のパン」)に生きることを望むだろう。また上述の「奇蹟」と「神秘」は、宗教的理念が現実世界において実現したものである。そのような現実世界における神の力の明確な顕現がない限り、人間は信仰に至ることはできない。また彼らは「自らの良心に従った自由な選択ができる」という状況に耐えられず、「権威」にひれ伏すことを望む。即ち民衆は、二律背反的世界認識に耐えることができない。不断の動揺に晒されることに耐えられない彼らは、善悪の認識よりも「安らぎ」を求めるのである。以上が大審問官の主張である。

先述の通り、この大審問官の語りは、カントの最上善の問題と深く関係している。カントにとっての最上善とは「道徳律と格率の一致」である。それの成立のための必要条件となるのが、「自由」である。即ち、自然的世界における法則や経験的世界の事物から自由に、自らの行動を規定することだ。しかし民衆の行動は、現実的欲望対象(「地上のパン」)に規定され、みずから叡智界的なもの(「天井のパン」)を求めて行為することなどできない。ただ現象界における事物に自らを規定されるだけの感性的存在である。もし大審問官の主張するように、人間が不自由な感性的存在者であるならば、「霊魂の不滅」を考えることはできない。「不死はない」という反定立命題がここに成立する。

第2章 第2節 第二の二律背反的主人公、アリョーシャ

続いて論じるのは、カラマーゾフ家の三男・アリョーシャである。ゴロソフケルはアリョーシャを、定立命題のシンボルとして規定している。「神、不死はあるのか」という二律背反的問題に対するアリョーシャに見解は、第3編「好色な男たち」に端的に表現されている。「神はあるのか、ないのか?」 というフョードルの問いに対し、アリョーシャは、「神はあります」と断言する。また、「不死はあるのか?」 という問いに対し、「神のうちに不死もまた存するのです」 と回答する。これらは、第二・第四の二律背反における定立命題の主張と内容を同じくしている。このアリョーシャの主張を見れば、彼が定立命題のシンボルであるというゴロソフケルの主張は、妥当であるように思われる。

しかし『カラマーゾフの兄弟』における登場人物の多くは、定立命題か反定立命題のどちらかを象徴する人物としてではなく、その二つの命題の間を動揺する存在として描かれている。その最たる例がアリョーシャだ。彼もまた定立命題と反定立命題の間を動揺し、彼の中にも「悪魔」が芽生える瞬間が存在した。

アリョーシャに動揺をもたらした契機は、「イワンの話」と「ゾシマ長老の死体の腐臭」である。先節において論じたイワンの神と世界を巡る言説は、アリョーシャに発せられたものである。領主の命令によって犬に噛み殺された少年の話を聞いたアリョーシャは、イワンにその将軍に与えられるべき罰を問われ、「銃殺です!」 と述べる。

この発言からアリョーシャの動揺を読み取ることができる。罪なき少年は犬に噛み殺されたが、それを命じた将軍は「後見処分」という軽い罰を受けたに過ぎない。このイワンの話は、福徳不一致の現実をアリョーシャの前に鮮明に描き出した。アリョーシャは、彼の信じる宗教的な世界における永遠の調和と矛盾する、福徳一致の実現しない現実世界を目の当たりにさせられたのである。それでも理念的次元における神による福徳一致を重視する人間ならば、人間の手によって今ここの現実世界において裁きを下す「銃殺」を積極的に主張したりはしないだろう。しかしアリョーシャは現実的世界における解決、報復を要求し、「銃殺刑」を積極的に主張するに至った。

さらにアリョーシャに第四の二律背反的な動揺をもたらした契機は ゾシマ長老の死後の「腐臭」である。アリョーシャが尊敬して止まなかった、また人々からも崇敬を受けていたゾシマ長老だったが、その死後に彼の肉体に起きたことは「奇蹟」どころか、「腐臭」の発生だった。そして死体が腐ったという事実だけによって、人々から貶められ、「不信仰」のレッテルを貼られる。これらの一連の出来事は、アリョーシャに大きな動揺を齎した。

「何のために神は〈最も必要な瞬間に〉(とアリョーシャは思った)、御手を隠し、どうして盲目で物言わぬ無慈悲な自然の法則に自らを従わせる気になったのだろうか?」(『カラマーゾフの兄弟』)

「彼が渇望していたのは正義、あくまでも正義であって、単に奇跡ではなかった」(『カラマーゾフの兄弟』)

ゾシマ長老という徳の体現者と言っても良い人物の肉体が、普通の人よりも早く腐敗してしまった。このことは、現実界における福徳不一致を端的に表している。それは「世界において徳と幸福を必然的に、そして最高善のために十分なほど結びつけることは期待できない」 という、カントが述べた現実を示すものだ。ゾシマが体現しようとした「道徳法則」と、ゾシマの身体を腐敗させた「自然法則」は、この現実世界においては全く関係がない。どんな人間も、ただ無慈悲な自然法則に基づいた結果を与えられ、それに服従せざるを得ない。この厳しい現実を眼前にし、アリョーシャは、正しいものが福を得る、少なくとも正しき者が不条理な裁きを受けないような「正義」を要求したのである。

また、このゾシマの腐臭騒動をめぐるアリョーシャの動揺は、幼児虐待などを巡るイワンとの会話がもたらした動揺と連続的であった。ゾシマの腐臭騒動の後にドストエフスキーは、アリョーシャの心中を以下のように記述している。

「アリョーシャにとって宿命的な混乱の瞬間に頭の中に浮かんだ、ある奇妙な現象についても、黙っているつもりはない。今やアリョーシャの心にたえず思い起こされる、兄イワンとの昨日の会話の、一種のやりきれない印象に他ならなかった。まさしく今になって、それが思い起こされるのだ。[筆者中略]兄イワンとの昨日の会話を思い出すと、なにか漠然としてはいるが、やりきれぬ、疎ましい印象が、ふいに今再び心の中で動き始め、次第に強く表面に出ようとするのだった」(『カラマーゾフの兄弟』)

これらの記述は、イワンとの一連の会話とゾシマの腐臭騒動のどちらもアリョーシャにとって同質のものだったことを示している。すなわちそれは、福徳一致という「正義」の実現しない現実に対する動揺である。そして、遂にアリョーシャは以下のように述べる

「ぼくは自分の神に謀反を起こしたわけじゃない、ただ〈神の世界を認めない〉だけさ」(『カラマーゾフの兄弟』)

これはイワンの主張と全く同じものであり、アリョーシャがかつて「反逆」と名付けたものである。

しかし見落としてはならない事が、一つある。「神の世界を認めない」と主張しながらも、アリョーシャが依然として神を信仰していたという点である。

「だが彼の心の中で根本的な、いわば自然発生的な信仰の何かが揺るがされたというわけではない。彼は自分の神を愛していたし、たとえふいに不平を言いかけたとはいえ、やはり揺るぎなく神を信じていた」(『カラマーゾフの兄弟』)

彼の信仰は揺らいでいなかったのである。「揺るぎなく神を信じる」と「神の世界を認めない」とう一見相矛盾する両命題も、二律背反的世界認識を前提にすれば、両立し得る。即ち、物自体の世界における神を信仰で受容しながらも、神を見出すことのできない現象界を認識し、それを拒絶する。彼もまた、イワンに続く「第二の二律背反的主人公」だったのだ。

 

3章:イワン・カラマーゾフへの応答

本稿も最終章に入る。これまで本稿は、カント哲学の観点から『カラマーゾフの兄弟』の哲学的言語化に取り組んできた。残る課題は、イワンが提示した問い、即ち二律背反的世界認識に対する第三の立場を提示することである。だが、これまでの論考で明らかになったとおり、この二律背反の牙城はあまりに堅牢だ。果たしてどのように本稿は、このアポリアに回答をすることができるだろうか?この「イワン・カラマーゾフへの応答」と名づけられた本稿は、一体どのように応答をすることができるだろうか?

本稿は、カントの読み直しによってその応答を試みたい。本稿は冒頭において、「出会わなかった2人の思想的巨人の出会いを仮構」すると述べた。これまでの章において、それはドストエフスキーをカントという射程から読み、言語化するという作業において為された。本章では、哲学的言語を与えられた『カラマーゾフの兄弟』の諸問題に対し、再びカントを召還して応答を試みる。

そうした問題設定をするならば、本稿はカントの道徳哲学へと歩みを進めなければならない。周知の通り、カントは『純粋理性批判』において二律背反を完璧な形で提示した後、『道徳形而上学原論』や『実践理性批判』などにおいて、道徳論を論じた。カントに拠れば、感性的な欲望によって規定された行為は、一切の道徳的価値を持たない。それは有限なものによって縛られた不自由なものだからだ。真に道徳的な行為とは、自らの行為を「法則」に従って規定する自由なものであるとカントは主張する。

しかし、このカントの道徳論の内部に足を踏み入れると、袋小路に陥らざるを得ない。カントは、「道徳法則」といった超越的概念を持ち出す。だが先の章において確認したとおり、カントは経験的/超越的という二項対立を厳格に設定している。カントによれば、人間は超越的概念(神、自由、霊魂の不死)を認識することはできない。それは、有限な感性的存在者である人間の本性に由来する。だがカントは、理性の実践的使用に基づいた道徳哲学を展開する。つまり、理性的判断を現実に適用することによって、自然的因果関係から自由に自らの行為を規定するという道徳哲学である。

だが、こうしたカントの道徳論は、経験からの独立性を志向する余り、あまりに非人間的に見える。この点に対する批判は枚挙に暇が無いが、例えばフランソワ・ジュリアンは、カントの「道徳は純粋ではあるが、純粋であるがゆえにもはやわたしたちの心を動かさない」と述べている。これは、感情を徹底して排除した結果から帰結する当然の批判であるといえよう。カントの前では、アダム・スミスの「共感」も、ルソーの「憐れみ」も不純物として除けられてしまう。

本稿の文脈からカントを批判するならば、その難点はそれがあまりに“弱い”ことに収斂する。本稿は先の章において、「大審問官」について考察した。イワンが語ったこの物語によれば、人間は心の傾向性(地上のパン、奇蹟、神秘、権威)に規定された存在者である。ゆえに大審問官は、イエスの示した自由の道を否定して、大衆の欲望に従った治世を行った。その大審問官に対して、イエスはただ接吻を以って返すことしかできなかった。

成程、確かにこのイエスの行為を、カント的な「自由」の行為として解釈することもできるだろう。イエスは、自らを完全に否定し、その身を火刑にかけようとしている大審問官に対しても、“愛”と呼ぶに相応しい行為を貫いた。だが、そうした行為は、彼の信念を変えるまでには至らなかった。またこのイエスの行為と類比的にアリョーシャがイワンに対して行った接吻も、同様だ。イワンが「改心」をしたといえる瞬間があれば、それはアリョーシャによってではなく、スメルジャコフが彼の哲学的示唆によって殺人を犯し、その結果悪魔に襲われるようになってからだ。要するに、カントはその道徳的行為から感情を排したために、それは現実的効果を全く持たない空疎な理念と化してしまった。それはあまりに“弱い”のだ。カント的立場から、ドストエフスキー的な問いに回答するために、本稿はこの“弱さ”と向き合わねばならない。

だが実は、カントは道徳と感情が接触する面について論じている。カントは『実践理性批判』において、人間が道徳的に行為するためには「動機」が必要であると述べている。先ほど本稿は、ジュリアンによるカントの道徳は「わたしたちの心を動かさない」という批判を参照した。この批判は正しい。しかしカントは同時に、自らが設定した厳格な道徳的行為の実行に人間を向かわせる感情的な「動機」についても考察している。

ではカントは、何が「動機」になると考えたのか?その回答に行き着く前に、カントの辿った論証を駆け足でなぞってみよう。カントは、道徳法則が感情に影響を与えうると述べている(その逆はあり得ない)。それはまず、ある感情の破壊として表れる。

「<自負>については、純粋実践理性はこれを完全に破壊する。道徳的な法則と一致する前から存在する自己尊重の欲求は、すべて取るに足らないもので、いかなる権能ももたない。」(『実践理性批判』)

ここで言われている「自負」とは何か。それは、「自分を立法的なものとなし、無制約的な実践的原理とする」心である。こうした感情を実践理性は、「完全に破壊する」。

自らを立法的なものと見做し、それを無制約な実践的原理とする―これまで『カラマーゾフの兄弟』の読解を試みてきた本稿の文脈では、イワン・カラマーゾフの人神を想起するのが自然だろう。再度の引用となるが、イワンと悪魔の狂気の会話の中で、悪魔はイワンの思想をそのままなぞる。

「いったん、人間が一人残らず神を否定すれば、(中略)おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し、何もかも新しいものが訪れてくるのさ」(『カラマーゾフの兄弟』)

「人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後一千年は整わないだろから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則に従って、完全に自分の好きなように身の振り方を決めることが許される」(『カラマーゾフの兄弟』)

カントはドストエフスキーと同様、神なき世界における道徳の失効に対して危機感を抱いていた。全ての定立命題が失効する経験論の世界では、人間は自ら新しい原則を打ち出し、自らの行為を好きに規定するようになる。その果てがイワンの「人神」である。そう考察すると、以下のような解釈が成立する。つまり、カントが道徳法則という経験的要素を一切排した超越的概念を提唱した際の「仮想敵」は、イワン的な「人神」だったということだ。

カントの道徳を巡る語りには、常に人間の有限性が前提とされている。カントの著作には、何度も人間と神の比較が登場する。それによれば、人間にとって道徳は「義務」として現れざるを得ない。なぜならば人間は感性的欲望に左右される有限な存在者であるから、そうした心の傾向性に逆らって道徳的行為へと自らを向かわせるしかない。だが、神という純粋な理性的存在者にとっては、こうした感性―理性という緊張関係は存在しない。カントがここまで厳格な道徳を志向した動機の1つには、この人間の有限性を強調することによって、「自負」に支配された人間が「人神」となり、自ら好き好きの道徳的立法を行うことを防ぐことだったと言える。

また、こうした「自負」の破壊という否定的契機に加えて、カントは道徳法則が感情に肯定的に影響を与えることについても論じている。

「道徳法則は自負を破壊することによって、すなわち謙虚にさせることによって、最大の尊敬の対象となる」(『実践理性批判』)

「尊敬」-この月並みな言葉が、カントが道徳の実行の唯一の「動機」になるとする感情だ。何度も繰り返している通り、カントは道徳からあらゆる感情を排除している。だが道徳法則が人間の感情に影響を与えるという点について、彼は否定しない。そして道徳法則に対する尊敬という感情が人間を道徳に向かわせる動因となる。

だが、未だにカントの議論は抽象的過ぎるようにも見える。確かに、これまでの議論によって、カントの道徳における感情という契機が見出された。しかし、その感情を生み出す原因は、道徳法則という信仰の対象になるようなものである。こうした不確かなものを原因としている限り、カントの議論は“弱い”という批判を乗り越えることができない。

しかしカントはその尊敬の発生源となる法則について、(『実践理性批判』の中では極めて例外的に)具体的に記載している。

「尊敬はつねに人格だけにかかわるのであり、物件にかかわることはない。物件は人間のうちには心の傾きを、そしてそれが馬や犬などの動物である場合には、愛を生むことがある。あるいは大洋や火山や猛獣などの場合には恐怖を生み事がある。しかし物件が尊敬を生み出すことは無い」(『実践理性批判』)

尊敬はつねに人格だけにかかわる。この記述は極めて具体的だ。つまり尊敬という感情の発生源は、「法則」という抽象物ではない。具体的で経験的な、人間の行動が発生源となる。カントはさらに、フォントネルの「わたしは貴人の前では頭を下げるが、わたしの精神は頭を垂れない」という言葉を引きながら、以下のように記述している。

「これ[筆者注:フォントネルの言葉]にこう付け加えることができるだろう。「社会的に地位の低い、平凡な市民がいるとして、その人の性格が、わたしが自分のうちに感じることができないような高潔なものであるならば、わたしが欲するかどうかに関わらず、そしてわたしの優位を彼にみせつけるために頭を高く掲げていたとしても、私の精神は頭を垂れる」と」(『実践理性批判』)

議論はさらに具体的となった。カントに拠れば、道徳法則による尊敬という感情は、「社会的に地位の低い、平凡な市民」によっても惹起される。もちろん、人間が完全に心の傾向性から自由に行為をする事はできない。だが、単に環境的要因や欲望によって行動する人間ではなく、道徳的行為を志向する人間とであったとき、人間は「自分の自負が破壊されるような法則を目の前に認める」のである。

これまで本稿は、カントの道徳哲学が「道徳法則」という超越的理念に依拠しているという前提で話を進め、そうであるがゆえにそれが“弱い”ことを指摘してきた。だが今、その構図は改変を迫られている。つまり、人間は他人が示す道徳法則によってイワン的自負を破壊され、そこに断片的にせよ現れた法則に尊敬の念を抱き、それが動機となって道徳的な行動を行うのだ。

実はこうした構図を、『カラマーゾフの兄弟』にも見出すことができる。それは「一本の葱」のエピソードである。イワンとの会話とゾシマの腐臭騒動を経て、アリョーシャはラキーチンに促されるままに、グルーシェニカの下へ向かう。この時のアリョーシャは、グルーシェニカによる性的な誘惑にも拒否の素振りを見せないほどに、自暴自棄的だ。実はこれは、ラキーチンによる彼を「破滅」させるための謀略であったが、結局この計画は頓挫する。ゾシマの死の報を聞いた途端、グルーシェニカは十字を切りながら自らの行いを悔い始め、陰謀を告白したからだ。「恐ろしい女」「淫売」「邪悪」―アリョーシャがグルーシェニカに対して抱いていた感情はそのような否定的なものだった。彼がラキーチンの言うとおりにグルーシェニカ宅に向かった理由も、「邪な魂を見出すため」である。しかし、アリョーシャが彼女に抱いていたそうした印象は、大きく裏切られることになった。

このグルーシェニカとの面会の後、僧庵に戻ったアリョーシャは、夢の中でゾシマと会う。アリョーシャは精神的危機を脱し、以下のような想念にいたる。

「彼[筆者注:アリョーシャ]は、すべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、自らも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。「僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる」ふたたび魂に声が響いた」(『カラマーゾフの兄弟』)

ドストエフスキーによればこの想念は、「一つの思想」としてアリョーシャの「頭の中を支配」し、それは「一生涯、永遠につづくもの」だった。

あまりにも神秘的な描写であるが、これはアリョーシャが何らかの「理念」に到達したと解釈できる。ではここで描かれている「あらゆる人を赦したい」「ほかの人が赦しを乞うてくれる」は何を意味するのだろうか?一見すれば分かるとおり、これはイワンの「すべては赦される」という命題と対立関係にある。ただし、両者は「主体」が異なっている。イワン的命題における「赦し」の主体は、神である。先述の通り、本稿はこの命題を、神を見出せない現象界における道徳の失効を述べたものと解釈している。そうした超越的審級の無い世界においては、人間の行為を判断する基準は一切無くなり、「すべては赦される」。

一方のアリョーシャの「あらゆる人を赦す」という命題における赦しの主体は、人間である。また、「ほかの人が赦しを乞うてくれる」において、赦しを乞う先は神だと考えられるが、それを乞う主体は人間である。これらのアリョーシャの命題では、「赦し」を行い、他人の「赦し」を乞う複数の人間が描かれている。

この「赦し」を巡る哲学的問題はあまりに厄介なものであり、デリダなどの議論の蓄積に触れるのが本道である。だが、ドストエフスキーのカント的読解を試みる本稿は、カント的な枠組みからハンナ・アーレントを参照する。アーレントは、時間の不可逆性を基点にその「赦し」論を展開する。人間は活動を「始める」ことはできるが、事後的に「取り消す」ことはできない。時間の中で生じた「活動」は消去されること無く残り、それに続く「反活動」をもたらす。例を挙げれば、ポーランド人の男に捨てられたグルーシェニカが、その「活動」に対して「復讐」という「反活動」を行うようなものだ。

アーレントはある活動に対する復讐の発生を、まるで力学法則のように描いている。これは、人間の行為を自然的因果関係において規定されているものだとした第三の二律背反の反定立命題と、類比的な捉え方だ。では、こうした自然法則的な連鎖を止める方法はないのか?その方法としてアーレントが提起するのが「赦し」である。それは、過去に為されたある行為に対して、「復讐」という反作用的な行為をするのではなく、「赦し」という倫理的介入によって自然的連鎖を止めるものだ。さらにアーレントは、この「赦し」が人間の「行為」ではなく、「人格」に対して為されるものだとしている。そしてこの「人格」に対する赦しの根拠となるのは、人格に対する「尊敬」だという。

本稿はアーレントの導入により、「赦し」に一応の哲学的言語を与えた。これをカント的文脈で捉え返すと、「赦し」とは自然的因果関係に対する外部からの介入、カント的に言えば自由な行為だ。そしてその行為は、人格に対する尊敬を動機に為される。

この観点から『カラマーゾフの兄弟』を捉えると、アリョーシャの「全てを赦す」という命題は、尊敬を動機に他者を人格として見做す倫理的介入ということになる。そしてアリョーシャの変化を齎したのは、グルーシェニカだった。グルーシェニカはアリョーシャにとって「恐ろしい女」、言わば人格ではなく、男を誘惑し恋敵を愚弄するような感性的存在者だ。だが、そんな彼女がゾシマの死を知って、彼への尊敬の感情を高め改心に至り、自分を捨てた男に対して殺害という報復ではなく、「赦し」という行為を決断した。ここに、カントが論じた尊敬という道徳感情を通じた道徳性の発露を見て取ることができる。つまりアリョーシャは、「感性的欲望によって全てを規定される人間(大審問官における大衆)」ではなく、「他者(ゾシマ)への尊敬によって道徳感情が喚起され、道徳的行為に至ることのできる人間」を見たのである。この体験により、第二の二律背反的主人公・アリョーシャは、第三の二律背反における定立命題を、経験的世界に見出すことができた。これが彼の精神的危機を救うことになった。

だが、このアリョーシャの変化には、見落としてはならない契機がある。それは、「他の人が赦しを乞うてくれる」という命題が示すとおり、それは他人もまた「赦し」を行うという前提に支えられている。アリョーシャがたどり着いた「赦し」とは、「周囲の人間に関係なく、私は他人を赦す」というものではない。自分だけでなく他人もまた「赦す」という道徳的行為をする潜在性を秘めているという前提があるからこそ、彼も「赦す」ことができる。グルーシェニカが見せた”赦し”が彼に他人の潜在的道徳性を信じさせるに至った。つまり彼の到達した理念には、「赦しを行う他人」が契機として含まれている。

このアリョーシャが到達した「理念」の更なる言語化をするため、再度カントにおける「理念」を参照しよう。カントは『道徳形而上学原論』において、「目的の国」の描写をしている。それは、「汝自身の人格ならびに他の人格における人間性を常に同時に目的として取り扱い、単に手段としてのみ扱わない」という定言命法に従って生きる世界である。

これは到達不可能な理念、柄谷行人が言うところの「統整的理念」だ。柄谷に拠ればそれは「けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなもの」である。またカントはそれを「あたかも~かのように」見做すこととしている。つまり、神や霊魂の不滅といった超越的概念を人間は認識できないが、「あたかもそれらが存在するかのように」見做し行動するということだ。

カントの道徳哲学における統整的理念が、「完全な道徳を行う一人の人間」ではなく、「複数の人間から成る『目的の国』」と定められていることは、注目に値する。カントの道徳哲学は、理性的存在者としての人間という主体を定立し、その主体が強い意志によって自らの行為を規定するモデルとして理解されている。その理解に従えば、持つべき理念は「完全な道徳的行為が可能な存在」、つまり神になることだ(人間と神の存在の比較については先ほど論じた)。だが、これまでカントの「尊敬」の概念を辿ってきた本稿の視点からすれば、全く異なる視野が開ける。理念として保つべきは、互いを手段としてだけでなく目的として扱う、即ち相手を人格として見做す複数の有限的存在者から成る“場”なのだ。そもそも他の人間がいなければ、「尊敬」という道徳的行為に自らを向かわせる動機は生じ得ない。人間は他人からの影響を通じてのみ、道徳的行為に向かう動機を得ることができるのだから、これは論理的帰結でもある。

また「目的の国」について着目すべきは、カントが目的の国を統一する法則を、「汝自身の人格ならびに他の人格における人間性を常に同時に目的として取り扱い、単に手段としてのみ扱わない」としていることだ。このカントの目的の国の定義によれば、その国の成員は「手段」としても扱われる人格、つまり肉体や心を持つ個別的な人格だ(和辻哲郎もそのように指摘している)。そうした人格は、相変わらず心の傾きに左右される。にもかかわらず道徳的行為を行うのは、その動機として「尊敬」という道徳感情に拠る。つまり、他の人格がその行為において法則を示し、それに対して抱く「尊敬」が自らを道徳的行為に向かわせる。

この「目的の国」という理念とアリョーシャが到達した理念は、類比的に解釈することができる。つまり、アリョーシャが神秘的体験の果てに到達した「他の人が赦しを乞うてくれる」も、自らを強い道徳的主体として定立することを意味しない。それは常に、他人に依存している。そうした他人を「あたかも潜在的道徳性を有する存在、つまり“赦し”を行い得る存在であるかのように」見做すことに、アリョーシャの理念は支えられている。

だがこうした”場”の設定は、他人が道徳性とは逆の邪悪な行為をする際に、その影響を受けてしまうことも意味する。目的の国という理念的世界ですら、人間は有限な存在のままであり心の傾向性を有する以上、それは不可避だ。グルーシェニカはアリョーシャとの面会において、「一本の葱」という寓話を語っている。芥川の『蜘蛛の糸』のモデルとなったこの寓話では、生前に一切の善行を行わなかった性悪な女が主人公だ。死後地獄に堕ち、火の海に放り込まれた女を不憫に思った天使は、女に「一本の葱」を差し伸べ、地獄から引き上げようと試みる。しかし女は、自分も一緒に地獄から脱出しようと女にしがみついた他の人間たちを足蹴にしてしまう。その瞬間葱はプツンと切れ、それを見た天使は、泣きながらその場を去る。

この「一本の葱を差し伸べる」という行為は、過去の悪行を括弧に入れた上で、相手の善性を信じて「赦し」を行う行為と解釈できる。だが、この寓話では、そうした「赦し」は見事に裏切られる。そして、『蜘蛛の糸』における御釈迦様のような超然とした存在とは異なり、この寓話における天使は自らの「赦し」が裏切られたことに、本気で泣き出してしまうような存在だ。

アリョーシャは作者によって、『カラマーゾフの兄弟』の「将来の主人公」と定められている。だが書かれなかった第2部においても、彼が強い道徳的主体として立ち現れることは無いだろう。彼は今後も他人を「赦し」続けるだろうが、相手がそれに応答するとは限らない。そして彼はそれに超然とした態度をとることができず、その都度影響を受けるような弱い存在として生き続ける。そのような周囲の人間に依存した形でのみ、アリョーシャは主体として現れる。

では、このアリョーシャを取り囲む複数の人間とは一体誰なのか?冒頭で引用した東浩紀は『観光客の哲学』において、コーリャ・クラソートキンらに代表される「子供たち」だと論じている。そうした子供たちに囲まれた不能の父こそ、「ドストエフスキー最後の主体」だというのが東の考察である。子供や家族に代表される「偶然性」について考察していない本稿と、東の論は大きく文脈が異なるため、本稿の視座からその解釈の妥当性を判断するのは難しい。

だが、カント的に『カラマーゾフの兄弟』を読解してきた本稿も、複数の人間が並列する場における弱い道徳的主体として、アリョーシャを規定する。彼の「全てを赦す」「他の人が赦しを乞うてくれる」という想念が「一生涯、永遠につづくもの」なのだとしたら、この主人公は描かれなかった第2部においても、複数の人間に囲まれた弱い道徳的主体として、「赦し」の行為を続けるだろう。それがどのような結末を迎えるかは判然としない。だがそうした弱いアリョーシャも、倫理的介入を通じて周囲に影響を与えられる。彼が弱い中心として生成する場においてのみ、イワン的反定立命題への対抗手段はあり得る。

本稿も終わりに近づいている。これまで本稿は、定立命題―反定立命題という枠組みに従って、『カラマーゾフの兄弟』を読解してきた。そこで明らかになったのは、この世界を冷徹に見つめる限り、反定立命題に行き着かざるを得ないというシビアな現実であった。反定立命題が経験的世界における真理といわざるを得ない状況を前にして、本稿が行ったのは定立命題が経験的世界において僅かでも現出する可能性の探求だ。そこで本稿は第三の定立命題に解決の端緒を求め、カントの道徳哲学を再読した。カントの道徳哲学は、「理性的人間が強い意志の力によって自らの行為を規定する」という強い道徳的主体を前提としていると考えられる場合が多い。だが本稿は、カントの道徳哲学に尊敬という「感情」の契機と、「目的の国」における「複数性」の契機を見出し、そのモデルの修正を図った。そこに現出したのは、「複数の人間に囲まれた弱い道徳的主体」であり、このモデルを『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに見出すことができた。

とはいえこうした道徳的可能性が“弱い”ことには変わりない。この実践的行為は、ごく稀に反定立命題に辛勝を収めるだけだ。現に、イエスやアリョーシャの行為は、大審問官やイワンの信念を改めさせるには至らなかった。カントは、「わたしたちは自分の尊敬の念を外に現すことを控えることはできても、内的に尊敬の念を感じることを防ぐことはできない」と論じている。しかし、相手を人格として尊敬する行為が相手に影響を及ぼすことは必然的ではない。またそうした道徳的行為を志向する存在としてのアリョーシャは、あまりに弱い。だが、定立命題が経験的世界で効果を持つとすれば、複数の人間が位置する場において、弱い道徳的主体を定立するしかない。言わばそれは、人間社会の中に一人イエスが降りてきたようなものだ。イワン的反定立命題は、スメルジャコフによる殺人として現実化した。一方のアリョーシャの定立命題も、複数の人間の中に位置する弱い道徳的主体として生きるとき、現実的効果を持ちうる僅かな可能性が存在する―この結論はあまりに弱いものかもしれない。だが、これが本稿にできる限りの、イワン・カラマーゾフへの応答である。

 

【引用・参考文献】

東浩紀、『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、2017年。

イマヌエル・カント『純粋理性批判』第1~7巻、木田元訳、光文社、2010年。

イマヌエル・カント『道徳形而上学原論』、篠田英雄訳、岩波書店、1976年。

イマヌエル・カント『実践理性批判』、波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波書店、1979年。

柄谷行人『世界史の構造』、岩波書店、2010年。

ゴロソフケル『ドストエフスキーとカント 『カラマーゾフの兄弟』を読む』、木下豊房訳、みすず書房、1989年。

埴谷雄高『埴谷雄高思想論集』、講談社、1973年。

ハンナ・アーレント『人間の条件』、志水速雄訳、筑摩書房、1994年。

フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』上・中・下、原卓也訳、新潮社、1978年。

フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』、講談社、2017年。

山蔦真之「純粋感情の倫理学 : カント道徳哲学における尊敬の感情」、2013年(未公刊)。

和辻哲郎『和辻哲郎全集第9巻』、岩波書店、1962年。

文字数:29752

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