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キャラジェクトの誕生

■序――概説

 映像技術の話から始めよう。近年、3DCG技術は飛躍的に進歩している。一昔前まで機械類の動きや背景のシミュレーションにのみ用いられるものであった3DCGは今やキャラクターの表現においても何ら特別なものではなくなっている。ディズニーがセル・アニメーション部門を閉じたことは有名な話であるが、日本においても『楽園追放』、『けものフレンズ』、『BLAME!』、『宝石の国』など3DCGによるキャラクター描写を多用した、あるいはフル3DCGで作られたアニメが近年多く作られ高い評価を受けている。
 しかし、CG時代のアニメについて、特にそこで起きている「キャラクター」概念の変化について論じた文章は皆無といっていい。
 技術と表現が変わる以上、そこで描かれるものの存在論的立ち位置が変化するのは当然のことであるのに、である。故に本論では3DCGの諸文化に見られる新しいキャラクター像について論じる。

 そもそもキャラクターとは何なのか。 そのことを考えるためにいわゆる「ゼロ年代」に行なわれた諸サブカルチャー批評を参照してみよう。それらのテクストの主な関心は「キャラクター」という概念に対するものであったからだ。そこではキャラクターこそが最も先端的に時代的変化を表象しその可能性を切り開くものとされていた。どういうことか?
 まず重要なのはキャラクターは単なる架空の登場人物とは異なるということだ。ゼロ年代に行われた批評においてしばしばキャラクターは単一の物語によって汲みつくし得るものではなく、n次創作の世界を渡り歩く可能性をもった存在者であるとされる。このことは同人系即売会のみでなくweb上でも様々な形でn次創作を目にするようになって久しい私たちには直感的に理解し得る定義だろう。また批評家の東浩紀はある時代以降のキャラクターが確固としたオリジナリティを持ったものとしてのみあるのではなく、オタクコミュニティにおける「データベース」――これは言葉通りに実在するものではなくある種観念的なものである――に登録された「萌え要素」の組み合わせで作られていることも指摘している*1。キャラクターは自身の物語から想定される「潜在的な行動様式の束」=個性のみでなく、同じ「萌え要素」を持った別の無数のキャラクターが持つ「潜在的な行動様式の束」さえも性質としてどこかに幽霊に憑依されるように背負っているというわけである。
 また視覚的要素という表層に、性質という人格に関わる深層がデーターベース化というプロセスを通って立ち現れてしまうというこのキャラクターの在り方は、「GUI」(Graphical User Interface)を採用して誰もが直感的に操作可能となったWindowsOSのPCの普及などとも並行性があるという。例えばGUIを採用したOSにおいては様々な指示――フォルダを開いたりファイルをゴミ箱に捨てたり――は視覚的アイコンに働きかけることで行われる。つまり、GUI以前の文字入力で操作を行なっていたOSと異なり、操作という意味に関わる象徴的な事柄が画像のような純粋に視覚による想像的なものと同じように「図像」として表面に現れているのである。東はこのような時代精神を「過視的」という言葉で形容している。*2
 また東の弟子筋にあたる村上裕一は彼が「ゴースト」と呼ぶさらにラディカルなキャラクターの在り方について言及している。村上によれば「ゴースト」とは何らかの「データベース」自体のキャラクター化である。まず原作の物語がありそれにn次の創作が連鎖していくのではなく、ほとんどオリジナルのないn次の創作の集積に立ち現れるものをゴーストという*3。村上は例として「やる夫」や「初音ミク」を挙げているのであるが、それらが2ちゃんねるやニコニコ動画のようなCGM(Consumer Generated Media)で生み出されたものであるということは重要だろう。この例は時代精神の例を超えて具体的にアーキテクチャがコンテンツに影響を与えているといえる同時代的相互関係といえる。例えば初音ミクはクリプトン社が開発した音声合成ソフトであるが、そのパッケージに書かれたほとんど設定が空洞となっている人物絵にソフト使用者たちが作った楽曲によって物語や性質が与えられていき、その集積が「初音ミク」というキャラクターを作り出したのである。
 これらのキャラクターの生態に共通するのは、キャラクターは物語を超える自立した固有名であり、付随する諸々の物語や状況に真正性の序列はなく「フラット」であるということである。つまり今ここの物語や状況に現前しているものは本質ではなく、制作と消費の運動を駆動する背後の固有名こそが本質であるというということだ。そしてこのキャラクター観はGUIのフラットさやCGMの公共性に対応する時代精神でもあった。
 しかし、これは現在でも正しい認識なのだろうか。

 重要なのは3DCGで描画される対象には「あらかじめ潜在的に空間が存在している」ということである。セルアニメ―ションによって作られた映像や漫画のコマ割りによる運動が「平面の連続により仮想される空間」を扱っていたのに対して、3DCGには動きの前にあらかじめ仮想の3D空間が存在している。本論ではこのような3Dの空間に根差した立体性を持つキャラクターの身体、及びその現前性について論じる。3DCGの性質を前景化させて現れる3DCGのキャラクターは、その強い現前性故に「今ここ」が優勢となる。
 3DCGデータはそのデータのオリジナリティ、つまりキャラクターの身体の同一性を保ったまま完璧に別の空間で再現することができる。これは従来のn次創作とは全く異なるキャラクターのn次創作であり、初音ミクを巡る文化においては「MMD」(MikuMikuDance)と呼ばれる動画群で実際に行なわれていることである。村上は『ゴーストの条件』においてMMDを扱いながらもそれをn次創作の系譜に連ねるのみでMMDがもつ身体性について言及することはなかった。また昨今話題となっている「VTuber」(バーチャルユーチューバー)は基底現実にある実際の身体をも基盤とする3Dキャラクターである。彼らの身体もまた「モデル」としてクローンのように「オリジナル」が配布され再現されることがある。あるいは同時代の情報機器に目を当ててみよう。かつてのWindowsPCのようにスマートフォンは近年爆発的に普及した。WindowsPCにおけるGUIが「視える」ものであったとすれば、スマートフォンにおけるタッチパネルは「触れる」ものである。「触れる」という行為が身体の接触を意味している以上それは本質的に身体を現前させる。今や時代は視覚を特権化する「過視的」なものではなく身体を特権化する「過触的」なものとなっているのだ。*4
 ゼロ年代の批評ではこのような新時代のキャラクター概念を正確に把握することはできない。それゆえに本論はこのような新しいキャラクターの在り方を扱う。たしかにキャラクターの実在はオリジナルの物語情報のみに還元され得るものではない。しかし本論で提示するキャラクター概念は制作と消費の運動に還元されるものでもないのである。現前するキャラクターからは記述と運動によって汲みつくせない「ただそこにいる」という実在性が開かれている
 議論を先取りするならば、本論はこのようなキャラクターの在り方を「キャラジェクト」と呼びそれを「メディウム(その表現を支える媒体)を身体として強く前景化させながらそこにありありと現前するキャラクター」のことであると定義する。あたらしいキャラクター文化においてはこの「キャラジェクト」性の高まりがみられるのだ。
 人間とは異なる存在の身体的現前は映像やキャラクタ―文化のみの話ではない。本論はキャラクター論を主題としながらも現代思想における「オブジェクト指向存在論」やVR、AR、IOTなどによって技術と世界が溶け合っていくこの社会自体とも共鳴していくことを志向するだろう。
 2018年現在現実と非現実、人間と非人間の距離は技術によりかつてなく近くなって来ている。そしてその影響はあらゆる文化において見られるものだ。「キャラジェクト」について考えることはもはやキャラクター文化だけの問題ではないのである。2020年代はキャラジェクトの時代になる。

 次の章からはアニメ『BLAME!』、『宝石の国』などのプロフェッショナルな3DCGアニメ作品に対する作品論や「Vtuber」というアマチュアベースも多く参入するコンテンツを主に論じ「キャラジェクト」という概念に迫っていく。
 作品と状況が更新されている以上、批評は新展開を迎えなければならない。それでもなお本論がゼロ年代批評と同じくキャラクター論を展開するのは、現代そして20年代にもキャラクターこそが最も先端的に時代を表象しその可能性を切り開くものだと信じているからだ。そのためにはゼロ年代の思索を引き継ぎつつも、それらを更新することが必要となるだろう。

注1 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』参照。
注2 東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」などを参照。
注3 村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』 参照。
注4 東浩紀自身このような情報環境の変化に気づき「触視的」という言葉を生み出している(東浩紀「触視的平面の誕生」(『ゲンロンβ21』 ゲンロン 2018 収録)参照)。しかし、この用語からも分かる通り東は未だ「視ること」のパラダイムから抜け出ていないように思える。

 

■キャラジェクト化する世界

ⅰ『BLAME!』とはなにか

 元々『BLAME!』は1997年に月刊アフタヌーンにて連載が始まり2003年に連載を終了した漫画作品であり漫画家弐瓶勉のデビュー作でもある。『BLAME!』では「モノによって駆動する世界」を描いたのであるがそれはディストピアSFの定型である「機械によって支配される人間社会」とは異なっている。以下簡単に作品を説明しよう。
 『BLAME!』は、サイバースペース「ネットスフィア」が建築物を構成する「超構造体」によって構築されるようになった未来を描いている。未来において人類は「感染」により「ネット端末遺伝子」を失い「ネットスフィア」に接続することができず、都市の不法移住者と見なされ「セーフガード」と呼ばれる防衛機構により排除される状態にある。このような世界において、無秩序に拡張を続ける都市中を主人公霧亥が「ネット端末遺伝子」を持った人間を探して旅していくという物語が『BLAME!』である。
 『BLAME!』にとって重要なのは、「ネットスフィア」の支配レベルである「統治局」が物語序盤で霧亥と共闘姿勢を取り始める点である。「統治局」によれば人間が「感染」して以降都市の「建設者」(建築機械)は際限なく都市の建設を続け、その結果都市自体をハードウェアとしている「ネットスフィア」内も混乱が加速し、「統治局」は人間不在でそれを止めることができないらしい。このような非人格的なものにより「自動的」に生じてしまう世界の変化や生態系といったものは『BLAME!』においてくり返し描かれる主題である。
 『BLAME!』は、そのセリフや内面描写を徹底して排除した作風と相まって、モノによって構成される世界――それはもはや人間の似姿であるAIによるものですらない――を最高の完成度で描いている。モノはディストピアSFのように人間社会を管理するのではなく、個別的な自身の世界を作りあげているわけである。
 本論がこれから提示する「キャラジェクト」の概念はキャラクターの身体に関わるものであるが、この身体は人間のそれとは異なる。「キャラジェクト」の身体とは生々しい肉体というよりは冷たいメディウムとしての支持体である。それゆえに世界を構成するものの唯物性を徹底した『BLAME!』の分析を進めることは本論にとって重要な課題となる。

ⅱ劇場版『BLAME!』における身体

 『BLAME!』は2017年にポリゴン・ピクチュアズにより3DCGで劇場アニメ化された。
 20年前の漫画である『BLAME!』が今アニメーション化されたことの時代的意義について語ることもできると思われるがまずはその映像について考えてみよう。
 劇場版『BLAME!』において目立つのは、複製される同型のモノが度々描かれていることである。例えば自動工場でのワンシーンに注目してみよう。まず『BLAME!』世界における貴重な携帯食料である「シャキサク」が大量に生成される。ロングショットでは巨大な立方体にしかみえないそれはカメラ近づくと大量の「シャキサク」でできていることが判明し、バラバラと崩れ出す。その後登場人物「シボ」による工場へのクラッキングに足がつき、人間を襲う「セーフガード」である「駆除系」が大量に生成される。これらは皆一様の姿をしており、いかにも量産的な印象を受ける。こういったオブジェクトの「量」による圧倒感は現在では実写映画にも多く用いられており、3DCG技術特有のものである。3DCGにおいては同一のモデルを「複製」し仮想の空間に再配置することが容易であるためだ。
 しかしここで注意したいのはこの後に「駆除系」に頭部を破壊されたシボが自身の身体を工場から生成するシーンである。『BLAME!』においてはキャラクターに魅力的な人格を与えつつも「駆除系」や「シャキサク」などの「モブ」や「アイテム」と同じ仕方で「キャラクター」が扱われている。同じ「その空間にあるもの」として。これはBLAME!世界の唯物論的世界観を端的に示すものであるのだが、同時に新しい「キャラクター」観を自己言及的に表してしまっているとも捉えられる。どういうことか?

ⅲ3DCGにおける潜在的な空間性

 例えば漫画や2Dアニメ、小説においてそこで描かれる一つ一つの絵や描写は当のキャラクターそのものではない。漫画であれば各コマの絵から、2Dアニメであれば各原画から、小説であれば各行の描写からなんらかのふるまいが生まれそこにキャラクターが見出される。
 対して3DCGにおいてはそこにキャラクターの身体が3次元座標にデータとしてあらかじめ存在している。まず仮想的な空間に身体がありそこに「ふるまい」を与えていくわけである。このことはキャラクターの存在論にとって重要な違いだ。
 美術批評家の黒瀬陽平によれば時に遠近法的空間はキャラクターのデータベース性を損なってしまうという。序章で述べたように、東は「萌え」文化においてキャラクターが確固としたオリジナリティを持ったものとしてのみあるのではなく、オタクコミュニティにおける架空の「データベース」に登録された「萌え要素」の組み合わせで作られていることを指摘している。例えばデ・ジ・キャラットというアニメショップ「ゲーマーズ」の公式キャラクターは「ネコ耳」、「メイド服」、「アホ毛」などその視覚的要素のほぼすべてが「萌え要素」で作られている。

(東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』p66より デジキャラット)

 ここで重要なのはこのように高度に様式によって部分部分に引き裂かれたキャラクターの存在は「スーパーフラット」な平面性によって作り出されているということだ。例えば黒瀬は『あずまんが大王』のアニメ版について、本質的に遠近法的単一の視点によらない(バラバラのセルが重ねあわされた)ものであるアニメ――これはキャラクターのデータベース性と一致するものである――を遠近法によるカメラアイの忠実な再現によって捉えてしまっており「失敗」していると指摘している。*1
 この点から考えると3DCGで作られたキャラクターの存在論的新規性が分かるだろう。3DCG空間はカメラアイによって捉えられた空間であるどころか、仮想的にシミュレートされた3次元の立体的な空間そのものであるからだ。3DCG時代のキャラクターは、映像論的にデータベース的に引き裂かれ浮遊することができない。そこには身体がありありと現前してしまうのである。3DCG技術は技術の問題だけでなくキャラクターの存在論的立ち位置をも変えてしまう。仮想的な空間で一定の座を占めているという点において「シャキサク」や「駆除系」と「シボ」は等価である。例え絵コンテなどよって構図の決定=図と地の決定が先だって行われていたとしても、立体とは様々な視点を潜在的にそなえる現前性を持つからである。
 このようなキャラクターの問題は映像表現にも影響を与えている。例えば3DCG技術の発展にともなってカメラの在り方は大きく変化している。『BLAME!』に限らず近年、マーベル・シネマティック・ユニバースなどの映画作品にも多分に見受けられる傾向であるが、仮想的なカメラはその仮想性故に潜在的な空間を自在に飛び回り、モデルを立体的に描き出していく。このダイナミズムはあらかじめそこにある仮想的な空間=身体に支えられている。あるいはシボの身体の変化に注目してみよう。劇場版『BLAME!』の物語ではシボの身体は3回ほど変化する。最後の変化は、工場で生成した身体をセーフガードに破壊された結果、シボの脳が格納されている腕だけになりその腕が歩き回るというものだ。この描写は3DCGによって行われていることによって実際に身体が破損し腕だけになったという異様な感覚を強く喚起させる。その腕がつい先ほどまでシボという素体の腕部分であったことが前景化されるのだ。

(映画『BLAME!』より シボの腕)

 『BLAME!』原作では最終的にはシボの身体の変化がネット端末遺伝子の発見と強く関係してくることになる。
 キャラクターの機械的な身体を描く『BLAME!』という物語であったからこそ、その映像化は3DCGでなければならず、ある意味において3DCG化されたことによって『BLAME!』が作品として完成したとすらいえるのだ。

注1 黒瀬陽平 「キャラクターが、見ている。」

ⅳ 幽霊ではないキャラクター

 劇場版『BLAME!』におけるシボという存在者について考える上でもう一つ注目して見たいシーンがある。それはシボの登場シーンである。「くされ祠」なる場所にて1752万6000時間助けを待っていたというシボであるが、彼女は霧亥に発見される以前から「くされ祠にはセーフガードより怖い亡霊が出る」という噂になっていたという。
 この「(亡)霊」という言い回しについて考えてみよう。東浩紀は『存在論的、郵便的』で哲学者ジャック・デリダの「幽霊」というキーワードに注目している。デリダにおいて幽霊性とは宛先のない手紙のようなものであり、反復し再来するもの=「エクリチュール」の性質であるのだが、それは後に東が考えることになる「萌え要素」のそれと同じものである。くり返しになるが「萌え要素」は架空の「データベース」に登録されており、特定の「萌え要素」を持ったキャラクターは、同じ萌え要素を持つその他の無数のキャラクターの記録さえもどこか背負っているわけである。データベースモデルにおいては他のキャラクターあるいは物語が「萌え要素」という「エクリチュール」に幽霊のように張り付いているのである。
 しかし実際のところシボの新しさはかつてのデータベースモデルにおけるキャラクターの幽霊性とは異なる部分に存在している。そのことについて論じる前にその足掛かりとして別の文化現象に言及しなければならない。バーチャルユーチューバーについてである。

ⅴ Vtuberの身体性

 東浩紀や村上裕一がキャラクター論を書いた頃、ネット動画上の創作文化の中心はMAD動画などのn次創作であった。
 しかし2018年現在のネット動画には新しい波が生じてきている。バーチャルユーチューバー、いわゆるVtuberだ。Vtuberは主に3Dモデルによるアバターを用いるユーチューバーを指す。*1バーチャルユーチューバーの起源をはっきりと定めるのは難しいが、この言葉の初出はVtuberキズナアイによる自己紹介動画である。*2
 ある意味ではVtuberは3DCGアニメのキャラクターよりもより強い身体性を持っているともいえる。なぜならばVtuberは2重に身体性を獲得しているからだ。
 一つはアバターの向こう側にある身体である。キャラクターの動きを作り出す際に現実の人間の動きをトレースすることは現代では映画やアニメーションの制作の現場でも行われている。いわゆるモーションキャプチャ―やロトスコープと呼ばれる技術であり、映画『シン・ゴジラ』で野村萬斎の動きを参照することによりゴジラの動きが作り出されたことや全篇ロトスコープのテレビアニメ『惡の華』が話題となったことは記憶に新しい。しかしVtuberの身体の在り方がそれらと異なるのは、時にVtuberは向こう側にいる身体を持った人間の存在を隠そうとしないという点である。
 例えばVtuberのねこます(バーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさんと呼ばれている)はキツネの耳の付いた少女のキャラクターをアバターとするVtuberであるが、その声は男性のものであり、また「世の中、世知辛いのじゃ~!」といった決めゼリフも元々は彼の「コンビニバイト」の経験や金欠から生じたものである*3。あるいはVRにおいては向こう側の身体性が意図せず現前してしまうことがある。VRChatというVtuberの一部も参加するゲームでは3D空間上でアバターを用いたチャットが行えるのであるが、ある動画にはVRChat中にリアルタイムでモーションキャプチャをしていたあるプレーヤーがてんかんの発作を起こし、アバターは床で痙攣を続け、ぜーぜーといううめき声だけが響いている様子が収められている*4。これは映画の時代には映像にとっての外部であったはずの現実が今や映像と切り離せない要素となっていることを意味していることがらだ。ここではキャラクターは幽霊を背負うのではなく身体と「衝突」している。
 もう一つの身体性は前述したような3DCGの身体性に起因するものであるのだがVtuberにおいてはさらにラディカルに展開されているともいえる。
 まずVtuberの始祖ともいえるキズナアイであるが、自己紹介などを除いた実質初めての企画において彼女が行ったことが「体力測定」という身体に関わるものであることに注目してみよう*5。グリッドが描かれただけの殺風景な3D空間で活き活きと動きまわるキズナアイはいかにもそこにいるという感覚を与える。
 しかしそれ以上に重要なのはその身体のぎこちなさが前景に現れる諸シーンである。例えば垂直跳びにおいて技術の都合上キズナアイは「跳ぶ」ことができずそこで体をぎこちなく震わせるしかない。
 このようなぎこちなさはVtuberの動画においてしばしば技術的な問題によって前景化される。例えば前述したねこますは金銭や技術の都合上アバターのCGが貧弱であることを語っていた。あるいはVtuber、TeTeにおいては作り手の技術の問題で目がモデルから浮いて空間に留まってしまったこと自体を「ネタ」として動画を投稿している*6。これはシボの身体の破損ともパラレルなことがらである。
 そして重要なのはこのような身体の「バグ」がむしろそこに現前する身体性を強く現してしまうという点だ。普段私たちはドアノブを扉を開ける機能として捉えている。私たちがドアノブ自体の物体性について考えるのはドアノブが壊れた時であり、その時初めてその扉を開けるという機能に回収されないドアノブの身体性を発見するのだ。Vtuberの動画においてしばしば起きてしまう「バグ」はその身体性と強く結び付いているのである。

 (動画「動いたけど大切なものを忘れてしまったTeTe [2]」より Vtuber、TeTe)

 では、この強い身体性の現前という問題系はキャラクター論を超えて時代的にどのような意味を持っているのだろうか。

注1 実際のところこの定義は完全ではない。2DCGによるのアバターや人形などをアバターとするユーチューバーもまたVtuberと呼ばれているからである。本論はVtuberを重の身体性という観点から論じるために暫定的にこのような定義を満たす者達に絞って考えてみたい。
注2 「【自己紹介】はじめまして!キズナアイですლ(´ڡ`ლ)」 https://youtu.be/NasyGUeNMTs
注3 「それはとっても世知辛いなって【002】」 https://youtu.be/DoVh4Fc43Bo
注4 「REAL SEIZURE in VIRTUAL REALITY With FULL BODY TRACKING [ VRChat ] REAL」 https://youtu.be/2bIZ0kWpiD4
注5 「体力測定をやってみる!」 https://www.youtube.com/watch?v=pU3iGpwKxKc
注6 「動いたけど大切なものを忘れてしまったTeTe [2]」 https://youtu.be/9ug6i6mlz8k

ⅵ 触覚性の時代
 哲学者の大森荘蔵は「夢まぼろし」*1という短編の中で幽霊という概念と人との違いを存在/非在ではなく「見えるがふれえぬもの」と「見えてふれうるもの」という「動物的な区分」によって生み出されるものであると定義した。しかし東=デリダの「幽霊」はそれとは異なる。
 東浩紀のデータベースモデルは『動物化するポストモダン』によって明確に打ち出されたモデルであるが、そこでは冷戦の終焉などに象徴される「大きな物語の終焉」によって人類が統一された世界観や進歩史観を持てなくなり不可避的に「動物化」(これはもともとアレクサンドル・コジェーヴの用語である)せざるをえないこと、第3世代オタクが「萌え要素」に対して動物化しつつもそれを冷静に捉えるデータベース的観点をもちうる可能性が語られていた。重要なのは「今ここ」の情動とは別に冷静な視線が存在し、今ここには見えずどこかに形を持って実在しているわけでもないデータベース上の幽霊を参照しているという点である。序章で述べたように、たしかに東は「過視的」という言葉を使い全てがフラットに可視化された動物的社会について考えていた。しかし彼は可視的なものの中に新しい「見えないもの」の存在を見出そうともしていたのである。
 しかし、Vtuberやシボのような3D性を前景化させた3Dキャラクターにおいてはその強い現前性により「今ここ」の感覚が強く喚起される。たしかに3DCGのキャラクターが旧来の仕方でn次創作されることはあるだろう。しかしそれ以前に3DCGキャラクターは空間に現前しており、VRChat上では疑似的に「触れる」ことができる存在である。さらに衝撃的な事実として、Vtuberの一部はその身体を3Dモデルとして視聴者に配布することがある。配布されたモデルによって行なわれるn次創作――あるいはn次コスプレ――はオリジナルの3Dデータを仮想的な空間に置くという意味においてオリジナルの身体の同一性を保ってしまっている。ここではデータ=シミュラークルの実在化が生じているのである。これは従来のn次創作とは大きく異なる。
 些か強い言い方をするならば、このことは今日のキャラクターは大森荘蔵のいうところの「動物的な区分」を受け入れさらに「見えてふれうる」ものしか存在しない世界に住まう他ないということである。しかしこのことを悲観する必要はないのかもしれない。ねこますは言っている。

 VRと現実だったら完全に分断されてると思うんですけど、スタンドアローンのデバイスとHMDのカメラの入力と、あと3Dのレンダリング結果を疑似的に合成するってなるとインターネットと現実はシームレスに繋がると思います。*2

 現実は拡張を続け、その中で私たちは日々変化を遂げていっている。Rhizomatiksは「Dynamic VR Display」と呼ばれる人間に合わせてリアルタイムにVR空間を生成する技術を開発した*3。VR/ARなどの技術は現実と虚構を混ざり合わせ、それらが相互に影響を与えあうことを少しずつ可能にしている。ねこますの身体の2重性は私たちに新しいジェンダーの在り方を啓発する契機となるかもしれない。「ポケモンGO」は数々の社会問題を引き起こしもしたが、同時に運動不足による生活習慣病の改善やそれまで多くの人に知られていなかった様々な土地の存在を知らしめることになったかもしれない。スマホアプリ「SNOW」は人々に形式上の本人性を残したままソーシャルな別の顔を与えている。初音ミクは「ニコニコ超会議」において立体映像としてそこにいる存在者として出力されている。「東京ゲームショウ2017」にてソニー・インタラクティブ・エンタテインメント・ジャパン・アジア(SIEJA)の展示ブースにいた人間のモデルを人々はロボットと錯覚した*4。 SNS上ではbotと人を間違えることがある。果たして私たちよりも、例えば3DCGで作られた「Saya」*5 の方が非人間的だといえるだろうか? 本来互いに外部であるはずの虚構と現実は「見えて触れられる」という動物的な情動を媒介として関係をもちあっている。虚構と現実を、あるいは非人間的なものを区別することが無意味となる時代は既に到来しかけている。それらは唯物的かつ多層的な一つの現実を形作っているのである。
 

注1大森荘蔵『流れとよどみ』収録
注2 「『バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん』ねこます氏にインタビュー! アバター文化は世界を変えるのか?」 https://www.youtube.com/watch?v=8AEXr67NP5I
注3 「紅白のPerfume演出に使われた「Dynamic Virtual Display(ダイナミックVRディスプレイ)」がどうすごいのかわかるムービー」 
https://gigazine.net/news/20170104-dynamic-virtual-display/
注4 「人間か?ロボットか?東京ゲームショウで撮影された動画が海外でも話題に」 https://switch-news.com/whole/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%8B%EF%BC%9F%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%81%A7%E6%92%AE%E5%BD%B1%E3%81%95/
注5 「CG女子高生「Saya」、満面の笑顔は苦手…そのワケは? 制作者に聞く」 https://withnews.jp/article/f0170913000qq000000000000000W03610701qq000015874A

ⅶ  『宝石の国』と実在論化するデータベース

 本論ではこれまで3D空間におけるキャラクターの現前性について語ってきた。そこではデータベース的な幽霊性は弱まり「今ここ」が優位となることを述べた。この論をさらに補強するためデータベースモデルのような「ツギハギさ」を扱いながらもそれを即物的に変化させている作品について少しばかり考えてみたい。
 まずは、ほぼフル3DCGで作られた(一部手書きのカットも入る)2017年に放送されたテレビアニメ『宝石の国』について考えてみよう。
 『宝石の国』の原作は月刊アフタヌーンにて2012年から連載中の市川春子による漫画である。
 アニメ公式サイトでは『宝石の国』の物語は「今から遠い未来、かつて存在した生物が、不死の身体をもつ「宝石」になった世界で、月から飛来する謎の敵“月人”と宝石たちとの激しい戦いを描く」もの*1であると説明されている。『宝石の国』もまた『Blame!』同様に唯物的なオブジェクトの世界を描いている。そして『宝石の国』にもキャラクターの「身体」の問題系が見出せる。
 本論の文脈で重要なのは主人公であるフォスフォフィライトの体が何度も壊れ、それが視覚的にツギハギされていくという点だ。ここでデータベースモデルにおけるデ・ジ・キャラットを思い出してみればそれが視覚的にツギハギであったことがわかる。デ・ジ・キャラットは「猫耳」「ネコ耳」、「メイド服」、「アホ毛」といったデータベース上の記号によってツギハギになっている。しかし、フォスフォフィライトのツギハギ性とデ・ジ・キャラットのツギハギ性は異なっている。フォスフォフィライトは物語の中で実際に破壊と修復をくり返すからである。ここには物語外のデータベースの参照はなく、実際、修復の度に付け加えられるオブジェクトはいわゆる「萌え要素」には含まれないものだ。
 また、フォスフォフィライトのツギハギ性の新規性はその映像表現にも表れている。
 アニメーション研究者のDIESKEは『宝石の国』においては原作とアニメ別々の仕方で表現の「虚構性」を前景化しているという*2。まず、DIESKEは前述した黒瀬と類似の仕方で『宝石の国』原作の「スーパーフラット」さを論じ、その後にアニメ版の2D的なもの,3D的なものの両者を含む多用な質感の混交に「虚構性」を見出している。
 ここで重要なのは同じ虚構性の前景化が全く異なる仕方で行われているということだ。片方はスーパーフラットつまり一つ一つのオブジェクトが現前しないということによって、もうひとつは一つ一つのオブジェクトが現前しすぎるということによって。
 アニメ版『宝石の国』では質感のアンフラットさによってオブジェクトが現前してしまう。例えば主人公フォスフォフィライトは物語のある時点で両手を失い合金でそれを補うのであるが、アニメ版では体の他の部位に対する合金の異質さを際立たせている。フォスフォフィライトはそのツギハギの各オブジェクトが空間に立ち現れてしてしまうが故にデータベース=スーパーフラットの原理を無効化してそこに現前してしまうのである。フォスフォフィライトはデータベース的幽霊にとり憑かれているのではなくオブジェクトによってツギハギされたキメラなのである。

(テレビアニメ『宝石の国』 第8話より フォスフォフィライト)

 あるいは、のらきゃっと、というVtuberに注目してみよう。のらきゃっとは音声認識とボイスロイドをリアルタイムで用いていることが一つの特徴である。そのため声→文字化→声化の過程で誤認識、誤変換、誤発話が起こり、そのことに前述したような「向こう側の身体」やメディウムの現前を見てとることはできるだろう。しかし本節で重要なのはのらきゃっとのモデルが他の3Dモデルのツギハギで作られているということだ。例えば、 髪は「Tda式 初音ミク アペンド」 を改変したものであり、顔は「不沈空母式 橘夏恋」を 改変したものであり、 身体は「かにひら式 レア」を改変したものであるといった具合である*3。ここでは各部分が萌え要素でありながらもそれは「データベース」を参照する従来のキャラクターとは異なっている。その各部位には強い記名性があり、その参照元であるただ一つの原型を参照しているからだ。
 つまりのらきゃらっともまた、データベース的幽霊を背負うのではなくそこにありありとある特定のキャラクターの身体によって造られたキメラとなっているのである。
 3Dの原理においてはデータベース的ツギハギはキメラ的ツギハギによって覆い隠される。

注1 http://land-of-the-lustrous.com/story/works.html
注2 DIESKE「マンガとアニメふたつの『宝石の国』読解 マンガ/アニメーションの視覚表現を中心に」
注3 「ゼロからスタート!バーチャルYoutuber、のらきゃっとです!」 https://youtu.be/nfIMlF6Y3BAの動画解説などを参照。

ⅷ キャラジェクトとは何か

 これまで私たちはキャラクターの身体について考えてきた。本論ではあえて序章で提示した「キャラジェクト」の用語を用いてこなかった。なぜならば「キャラジェクト」が抽象ではなく具体の現前という性質をもつものであり、そうであるならばでき得る限りそれを実例で示すことが必要であると考えたからだ。もはや準備は整っただろう。ここで「キャラジェクト」という概念について説明する。
 「ject」とは中期フランス語「 jeter」を由来とする語根であり、「投げる」を意味する。空に投げられるものはジェット機「jet」であり「object」とは目の前に投げつけられたものである。*1
 序章で述べたように「キャラジェクト」とは「メディウムを身体として強く前景化させながらそこにありありと現前するキャラクター」を意味する*2。それはキャラクター的意匠を視覚的にもち「潜在的な行動様式の束」による無限の創作の可能性を持ちながらも、n次創作に先立つオリジナルが強い優位性をもつ存在者である。前節まで論じたように3DCGで作られたキャラクターは仮想の空間にあらかじめオリジナルとしてオブジェ的に座を占めており、特にその現前する身体=メディウムが破損した時に強い現前性を見せるのであった。つまり3DCGキャラクターは、例えセルシェーディングによってセルアニメのような映像が装われていたとしても、身体性が現前する可能性を潜在的に持つ故に「キャラジェクト」にいつでもなり得るのである。「キャラジェクト」は今や幽霊のように浮遊するのではなくそこに身体を投げだされている。破壊されても腕のみになってもなお身体を変え動き回るシボや身体がバグでチグハグとなっても動き続けるTeTeは「幽霊」ではなく「ゾンビ」あるいは「キメラ」というべきだろう。データベースモデルが「幽霊」の比喩でキャラクターを表象していたとするならばキャラジェクトモデルは「ゾンビ」や「キメラ」の比喩でキャラクターを表象する。ここで誤解してはならないのは「オブジェ」、「ゾンビ」、「キメラ」などのグロテクスな言葉を使ってはいるが、「キャラジェクト」とはキャラクターの非人格化=モノ化とは異なるということだ。「キャラジェクト」とはキャラクターに真の意味で自律的な「今ここ」の権利を与える概念に他ならないからである。

 しかしここで一つの疑問が生じる。この定義に合致する存在者は2Dで視覚表現されたキャラクターにも存在したのではないかということだ。答えは然り。3次元空間のような現前性はもたないが、その平面的素材性を強調することによりそこに疑似的な身体性を持つにいたったキャラクターは存在している。
 次節ではこれを「準キャラジェクト」と命名し考えてみようと思う。「準キャラジェクト」について考えることは「キャラジェクト」の概念をより明確に定義づけることになるだろう。私たちは「キャラジェクト」の全貌を掴む直前まで来ている。

注1 http://gogengo.me/roots/236
注2 「キャラジェクト」とはオブジェクトであると共にキャラクターでもあるということに注意しよう。3DCG空間で「潜在的な行動様式の束」をもって動き回るキャラクターが作られていることが重要なのであって、従来からあったキャラクターのフィギュア化は「キャラジェクト」とは異なる。

ⅸ キャラクターと、見ている。

 かつて「準キャラジェクト」の存在を明確に論じた者として批評家の塚田優がいる。
 塚田優は「キャラクターを見ている」――このタイトルは前述した黒瀬による「キャラクターが、見ている」を意識したものだ――の中で高畑勲『かぐや姫の物語』の作画表現に注目している*1。『かぐや姫の物語』においてはキャラクターがその視覚的同一性を損なうほどに描画の線が蠢き、表情などが激的に変化するのである*2。塚田はこの点から主人公であるかぐや姫を「感情が高まるほど自らが描かれた存在にすぎないことが明らかになってしまう」と表現している。つまりかぐや姫が人間的なふるまいをすればするほどメディウムとしての線が前景化し、現前してしまうのである。このことはかぐや姫が本論でいうところの「キャラジェクト」と非常に近しい存在者、つまり「準キャラジェクト」であることを指し示している。
 同時に重要なのは塚田がかぐや姫のようなキャラクターの在り方にある種の「倫理」を見出していることである。どういうことか?
 塚田は月に連れ帰られるシーンにてかぐや姫が見せる静止した解読不能の感情のない表情に注目する。羽衣を着たかぐや姫は記憶を失ってしまっている。にも関わらずかぐや姫はその欠落に涙を流す。私達もかぐや姫の感情を読み取ることができない。
 この不可能性にこそ彼はキャラクターの実在性を見出している。塚田は「私たちはキャラクターを、見ている。というより、見ることしかできない。キャラクターはお手軽に所有することのできるマスコットでもなく、一方的に超越的な視線を投げかける偶像でもない」と述べ、人間の似姿としてキャラクターを解釈することもマスコットとしてキャラクターを解釈することも批判する。
 これはキャラクターに限らず他者に対する倫理的な態度の一つだろう。本質的に他者の内面を見ることはできない。他者と他者は各々孤立しており、ただその周りを巡って想像を想像でしかないと理解しながら働かせるしかない。私たちは「キャラクターが、見ている」などと安易に言ってはならず「キャラクターを、見ている」でしかありえないというのだ。
 しかし、キャラクターに対するこの認識は今や正確ではないように思える。どういうことか?
 少々の脱線をしよう。「オブジェクト指向存在論」を提唱する哲学者のグレアム・ハーマンは「オブジェクト」の次元に存在論的実在性を認める哲学を展開している。ハーマンの『四方対象』によれば伝統的に哲学や科学はあらゆる対象を根本要素である「部分」に還元するか(下方解体)対象間の関係性に還元するか(上方解体)してきたという。分かりやすい例としては前者は素粒子物理学、後者は構造主義や現象学などが挙げられるだろう。しかし、ハーマンによれば上方解体と下方解体の中間であるオブジェクトは自立して存在している。例えばこのコップが多少欠けてその構成要素が変わったとしてもこのコップはこのコップとして存在しているし、そのコップが何とも関係していなくても、素粒子の集まりとしてコップは実在として存在している。ハーマンにおいて実在的オブジェクトとはあらゆる対象のことでありそれらが関係してまた新たな独立した実在的オブジェクトを形作る。しかしハーマンによればオブジェクトの実在は全て「脱去」しており本来的に関係のないものでもあるという(それゆえに関係や部分に解体されない)。では「脱去」しているはずのオブジェクトがどうやって関係するのだろうか。
 哲学者の清水高志によればそれは「袋詰め」の原理によるものだという。例えば私が木に触れることでお互いに関係し合っているとする。この時お互いは感覚的対象として相互に捉えられている(上方解体)。しかしまた私と木は私と木を部分とする新しい第3オブジェクトの一部でもあるという(下方解体)。実在の私は感覚的な木に、実在の木は感覚的な私に出会うわけであるが、それは第3のオブジェクトの実在があってのことなのである。さらに重要なのは第3のオブジェクトを感覚的な対象として私や木が感覚的な対象として捉えることもあるということである。それはマトリョーシカではなく袋の中に袋が入りいつでも双方の包摂関係が反転し得る「袋詰め」であり3者の関係は可変的なのだ。このズレにこそハーマンは「オブジェクト」の実在を見出しているという。*1
 たしかに私たちはキャラクターを、見ることしかできない。私とキャラクターは「脱去」している。しかし私たちがキャラクターという感覚的対象に出会う時、その実在的オブジェクトは互いに「脱去」しつつも新しいオブジェクトを作り出している。この意味において私とキャラクターはただ引きこもりあっているわけではない。
 これはやや抽象的な話に思えるかもしれない。しかし、私たちは「オブジェクト指向存在論」を華麗に表象する文化現象にすでに出会っている。Vtuberだ。
 Vtuberの向こう側に生身の身体が存在していることはすでに述べた。そしてねこますのような一部のVtuberにはそのことをあえて隠さずに表出する傾向があることも述べている。ではここでねこますを例にもう一度考えてみよう。向こう側である生身のねこますは自身の作ったVRモデルの感覚的対象と身体的に出会う。彼の作ったモデルは「みここ」と名付けられている。確かにそれらは「脱去」している。上手くたなびかない袖、曲がってしまった耳、ぎこちない手足の動き、それらの不和が「脱去」を強く印象付ける。私たちは本来的に引きこもっており他者を感覚的対象としてしか受け取ることができないからだ。しかし、私たちはそれでもそこに「バーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさん」という第3のオブジェクトの実在を見出し得るのである。
 塚田の「キャラクターを、見ている」は元々黒瀬の「キャラクターが、見ている」に対する批判の側面を持つものだった。詳しくは述べなかったが黒瀬の論文はキャラクターのデータベース性を平面性に見出し、それをイコン画における「逆遠近法」と結びつけることで私たちが私たちの知覚の形式=遠近法でキャラクターを見ているのではなく、「キャラクターが、(私たちを)見ている」という趣旨のものだ。データベース集積=をまとめた固有名が幽霊的にこちらを見ている。これに対して塚田は「線の運動」によって生じる「虚構性の現前」=「準キャラジェクトの現前」から私たちは「キャラクターを、見ている」ことしかできないと主張した。これはキャラクターをデータベース的構造に還元(上方解体)するか線の集積とに還元(下方解体)するかといった選択に他ならない。しかし、「準キャラジェクト」を超え「キャラジェクト」という概念を手にした私たちは、「オブジェクト」という概念を手にしたハーマンと同じようにその二つを同時に斥けることができる。
 私たちは「キャラクターと、見ている」。キャラクターとリンクするVtuberに限らず、私たちが「キャラジェクト」と出会う時そこには強い空間的現前性があるからである。キャラクターと私たちが「出会う」時、そこには一方的に相手を見るのでも、一方的に相手に見られるのでもない「袋詰め」の関係が生じるのである。「キャラジェクト」の存在は、私たちとキャラクター=他者との関係が「脱去」しながらも関係し合う「袋詰め」であることを教えてくれる。
 私たちは脱去している。徹底的に決定的に他者の実在を汲みつくすことは絶対にできない。しかし同時にただひとりぼっちなわけでもないのだ。キャラクターはそこにいる。

 私たちは「キャラクターと、見ている。」

注1 清水高志『実在への殺到』第7章参照。

 

 

■終――キャラジェクトの可能性

 私たちはこれまで「キャラジェクト」という新しいキャラクターの在り方について考えてきた。
 キャラジェクトは3D時代のキャラクターであり、3D空間が本来的にもつ、動きに先んじてそこに3次元の「モノ」=「オブジェクト」があるという性質が投影されている。そこではかつてのデータベースモデルのような幽霊性は後退し「今ここ」にいるということが優位になる。身体を唯物的に現前させるシボ、ヴァーチャルモデルと生身の身体の「衝突」によってキャラクターの身体性を浮き立たせてしまうバーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさん及びTeTe、体を3D特有の異質な質感でツギハギにさせるフォスフォフィライト、非データベース的に萌え要素を参照するのらきゃっとは「キャラジェクト」の代表例であり新しい時代のキャラクター像を代表している。

 本論ももう終わりが近い。ここで少しばかり抽象的な話に興じてみよう。
 批評家にして漫画原作者の大塚英志は、記号でしかないキャラクターにおいて「死」はどのようにして描き得るのかという問題を提起し、様々な議論を引き起こした。
 キャラクターの死を描けるかどうかは本論が扱うテーマではない。「死」とは理解の彼方にあるものだ。しかしここまでキャラジェクトについて考えてきた私たちは「キャラジェクト」が「壊れる」ことは理解している。そして重要なのは私たちはモノが壊れることを人が傷つくのと同じように感じることがあるということだ。
 例えばずっと使っていた万年筆が折れて前と同じものを買う。新品であり機能性は古く使っていたものよりも良い。すらすらと文字を書くことができる。しかし、どこかに違和感が残る。何かの欠落を感じる。モノに心はない、しかし人はモノに心を見出してしまう。
 例えば、豊橋技術科学大学の岡田美智男は彼が「弱いロボット」と呼ぶあえて不完全なロボットについて研究・開発を行なっている*1。彼の開発した「Sociable Trash Box」というダストボックスの形をしたロボットは自分でごみを拾うことができず、ただゴミの前でおろおろとするのみである。しかし子供はそこに「憐み」を感じてゴミを拾うという。彼はこのような「人とのコミュニケーション」に焦点を当てたロボットを「弱いロボット」と呼んでいる。

 これはモノによって人の社会をハックし改善しようとする試みであるといえるだろう。ならばヴァーチャル空間におけるキャラジェクトもまたこの世界を変え得る可能性を持つのではないだろうか。実際私たちはねこますをねこますと知りながらそれをヴァーチャルモデルみここ、とも捉える。そこではねこますは2重化されている。

 現在、世界は「島宇宙化」している。同じ考えを持つものだけで各コミュニティが出来あがり、違う考えのコミュニティとは決して相容れることはない。SNSなどの情報環境がそれを加速する。
 しかし、キャラジェクトによる「重ね描き」によって相容れない人物が別人に書きかえられている時、その新しい主体に人は興味をもつかもしれない。人はそこに現前するキャラジェクトに理性や信条を超えて「憐み」=「共感」を抱いてしまうからだ。

 これは夢物語ではない。実際、ねこますはその新しいキャラクターであるバーチャルのじゃロリ狐娘youtuberおじさんとなることで多くの人気を博した。彼はその結果バイトを辞め自身の夢に近づいたという。
 ねこますの例は小さな事柄かもしれない。しかし、ねこますは現実とVRがシームレスに繋がる世界について語っていた。私たちの世界全てがキャラジェクトによって多層化される世界は目前にある。

 キャラクターとはn次創作により物語を渡り歩く存在者であった。キャラジェクトはキャラクターであると同時にその現前性で一つの現実を多層化し島宇宙を超える存在者でもあるのだ。

注1 「あえて”不完結”にこだわる「弱いロボット」が人とモノの関係性に問うもの」  http://www.sensors.jp/post/post_78.html

 

■参考文献

東浩紀 『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』 新潮社 1998
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』 講談社 2001
東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』 講談社 2007
東浩紀 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』 河出書房新社 2011
大森荘蔵 『流れとよどみ―哲学断章』  産業図書 1981
清水高志『実在への殺到』 水声社 2017
村上裕一 『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』 講談社 2011
グレアム・ハーマン 『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』 岡嶋隆佑, 山下智弘 , 鈴木優花 , 石井雅巳  訳 人文書院 2017
東浩紀「触視的平面の誕生」(『ゲンロンβ21』 ゲンロン 2018 収録)
黒瀬陽平 「キャラクターが、見ている。」 (『思想地図 vol.1 特集・日本』 NHK出版 2018 収録)
塚田優 『キャラクターを、見ている。』 (『美術手帳』 2014年10月号収録)
DIESKE「マンガとアニメふたつの『宝石の国』読解 マンガ/アニメーションの視覚表現を中心に」( 『アニクリ7.5β 宝石の国 特集声と身体2』 アニメクリティーク刊行会 2018 収録)

 

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