死を与えられる 『この世界の片隅に』/『ビルマの竪琴』論

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              ――だからきっと、彼らはイサクだった。

 

 

 

 

 

 

 

・これは「生きていた者たち」の痕跡の話             これは「死んだ者たち」 の声なき声の話

彼女が腕を失った時、彼女が晴美を失った時、彼女が晴美を救       彼が命を失わなかった時、彼が多くの同胞を救えなかった時、
えなかった時、彼女は初めて「死」に直面した。          彼が死者を弔い始める時、彼は初めて「死」に直面した。

 

 

 

――死とは存在者の内容ではなく存在しているということそのものに最も深く関わる事象である。日常によって忘却された存在そのものは死を直視することで立ち現れる。死は絶対に代替することができない。私の代わりに死んでもらうことが可能だとしてもそれは「私の死」ではない。必ず訪れる代替不可能な死だけが私を私として条件づけ、ゆえに私たちの全ては死に関わっている。*1

 

 

 

彼女は晴美の死を与えられた。「死を与えられる」ということ。   彼は無数の死を与えられた。「死を与えられる」ということ。
決して代替不可能なはずの他者の死を与えられるという矛盾。     代替不可能な名も知れぬ他者の死を与えられるという矛盾。
どんなに鮮明に描いても、どんなに悲惨さを訴えてもそれを表    彼が死者の山に対して目を背け走り去ろうとする時、そこに現れて
象してしまうことは偽りだろう。 死者に与することはできない。   いたのは生の痕跡なき純粋な死の形式だった。*7                                                                
それゆえ片渕須直*2は、与えられた死を空想的、主観的に描     追憶すら不可能な絶対的な見知らぬ他者の死。カメラレンズが
いたのだろうか。                                   主観を通さず世界を眺めるように、水島一等兵はそれを目にした。
畑の空爆のシーン、晴美を時限型爆弾で失ってしまうシーン。*3   しかし、
死の作画を他のシーンのと異なったものにすることによって、この  水島は死者について語る痕跡-寄り代を何一つ持ってはいない。
作品において他者の死は到達不可能な個人性を保っている。     それゆえに彼は祈る。
この作品において他者の死は、生者の生活の中に生きた痕跡とし   新たに言葉を紡ぐことのできない彼は、声ではない媒体に非-言葉を
てのみ残っている。*4                      記録する。
例えば、妹に残る被爆の跡に家族を。*5              例えば、インコに理由なき理由を。
例えば、失われた右腕に母親の姿を。*6              例えば、音楽に共同体の記憶の言葉を。

 

 


*1 筆者が本論全体を通して意識しているのはハイデガーの現象学的存在論と思われる。
*2 アニメーション映画版『この世界の片隅に』監督。
*3  『この世界の片隅に』は、広島県江波市に生まれて同県呉市の北條家に嫁ぐすずが太平洋戦争まっただ中の日本で、戦争の凄惨さに覆われながらも何気なく美しい日常を過ごしていく物語である。アニメーション映画版では、何度も反復され描かれる段々畑にて昭和20年3月19日に空襲を受けるシーンがあり、そこではあたかも絵を描くことの好きなすずが絵具をキャンバスに塗りたくっているかのように実際に起きている空爆が空想的に描かれる。またその後5月16日ではすずは義姉の娘晴美を連れて街中を歩いている中時時限型爆弾の爆発を受け、晴美の命と右腕を失う。そのシーンも本編とは異なる作画や撮影処理がなされており、また、すずの悔恨のモノローグによって一瞬の時間が長く引き延ばされている。このように劇場版『この世界の片隅に』では徹底して死や戦争は空想的に描かれるのだが、晴美を失った後すずは日常に違和感を覚え始める。その後のすずがサギを空爆から逃がそうとして死にかけるシーンでは空想の余地なく空爆が描かれる。ここでは死への直面によって日常性が崩れ、「死」自体(それは決して晴美の死についてではない。晴美の死については原理的に知ることはできない。それは死、そして存在という概念自体である)が現実性をもって現前しているといえるだろう。事実、この時点の彼女は日常が続くことの幸福を疑い始めている。(空襲で家を壊された者に対して独白する「あの人、家を壊してもらえて、堂々この町を出ていけたんじゃろか……」などを参照)。それでも、戦後の彼女は葛藤の後に日常に回帰していくわけであるが……。
*4 しかし死自体に固有名を与え死者を現前させる「痕跡」を『この世界の片隅に』は発見する。
*5 原爆が故郷である広島に投下された後にすずは帰省する。そこでは母と父は既に亡くなっており、布団に臥せる妹すみの手には被爆の跡である斑点が浮かんでいる。
*6 物語終盤、原爆投下により母親を失った孤児は「腕を失っている」という類似からすずを母親と思いこむ。
*7 『ビルマの竪琴』は、いわゆる「ビルマの戦い」を舞台にしており、大量の仲間の死やビルマの悲惨な状況を目にすることとなった水島が、僧となり、日本に帰る仲間に別れを――インコが覚えた呟き、手紙(これついては後述する)、音楽という形で――告げる物語である。本論では主に市川昆による劇場版が論じられている。
 大量の仲間の死の後、彼は放浪する。ビルマの僧に助けられた彼は僧の衣を盗む。彼は見ず知らずの日本兵の死体を何体も目にし、弔わずにはいられなくなる。その中には家族の写真などの痕跡を残す者もあるがその多くは、何の痕跡も残してくれない。彼が浜辺で見ることとなる死体の山はその極北である。

 

 

 

 

 

ヤン・ブリューゲル「アブラハムとイサクのいる森林風景」

 

 死に直面する、死に触れるとはどういうことだろうか。我々は死を知ることはできない。しかし我々は我々が死ぬことを、存在をやめることを、ひるがえって我々が存在していることを知っている。死に直面する時我々は我々を成り立たせる形式自体、つまり存在を思う。存在は我々の内面から現れる、我々の内面を超えたものである。

 

                               東浩紀『存在論的郵便的』より

 

 

 

 ジャック・デリダは『死を与える』の中で、キルケゴール・ハイデガー・パトチュカ・レヴィナスなどを参照しつつ、旧約聖書のアブラハムとイサクの物語について論じている。
 神から与えられた試練――この意図が伝えらない「秘密」であることによって神は絶対的な他者となる――は子の殺害である。そしてアブラハムは子であるイサクにこの秘密について伝えない。2重の秘密。息子に死を与え、神に死を与えるという2重の贈与。デリダはアブラハムのこの無責任さにこそ絶対的な責任の萌芽をみてとる。アブラハムは説明をしないことによって一切の責任をその身に引き受けたのだ。
 神の声は絶対的な他者の声である。他者たちを本来的に全き異なるものとするならば、神の声は決裂しているはずの他者と他者との決裂を伝える声であり、アブラハムの内面の神と向き合う声である。アブラハムの無責任さにこそ絶対的な「他者」と「責任」が生じるという、「倫理」と「責任」が衝突するという逆説。

 

 

 

 死に直面した時、我々は存在するという形式自体に目を向け、死者の絶対的な他者性に触れる。存在をやめたものについて語るということは、語ることが不可能なものについて語るということである。
 それは沈黙の言葉である。
 すずはそれを死者の生きていた痕跡に求めた。それは死者自体ではなく、死者の生きていた痕跡に過ぎない。しかしその痕跡にこそ死者を再現前化する可能性の残滓が存在している。

 だが、水島の場合は違った。彼が見たなかば白骨化した死体の山には何の痕跡もなかった。それは「死」自体に限りなく近い他者性の極北としての死体だった。
 水島は彼らのことを決して追憶することはできないし表象することも再現前化することもできない。水島は彼らのことを何も知らない。だが彼はその死者の前でおそれ、おののかずにはいられない。彼は目を覆い走り去る。何も言うことはできない。何も思うことはできない。何をすることもできない。それでも彼は何かをせずにはいられなかった。異邦人としてビルマに残らざるおえなかった。
 彼に残されたのは、沈黙でしかありえない言葉、つまり「祈り」だった。
 祈りとは絶対的な他者と対峙した人間のおそれとおののきである。
 キルケゴール/デリダは、アブラハムがイサクに「死を与える」瞬間、死をイサクに与え、その死を神に与えるという不可能な――死は代替不可能である――2重の贈与の瞬間に、その瞬間のおそれとおののきに絶対的な他者の芽生えをみてとった。
 水島は死者に死が与えられ、死者の死が自らに与えられるという不可能な2重の贈与の瞬間に、瞬間のおそれとおののきに絶対的な他者と触れ合ったのだろう。それは生の痕跡を残していないがゆえに徹頭徹尾、解釈不能な、「死」自体、「非-存在」自体であった。

 

 

 

 

 

お気に入りの音楽にはどれも、音楽そのものに付加された古い音がいくらかまじっている。ギリシア語本来の意味でのムーシケが音楽そのものに付加されているのだ。いわば「付加された音楽」、大地をえぐり、やがて、わたしたちの苦しみのもとである叫びをめざすもの、だが、その叫びは名付けようもないばかりか、その出所を見たことさえない。目に見えない音、永遠に視覚とは無縁で、わたしたちの内部でさまよっている音。まだわたしたちの目が見えないころ。呼吸もできないころ。叫ぶこともできないころ。だが、耳は聞こえていた。 (パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』 高橋啓訳)

 

 

 

 

 

 『ビルマの竪琴』には音楽が多く登場する。この作品に登場する音楽は我々を突き刺す、共同体の、定型的な記憶である。物語前半、日本兵と英国兵はそれぞれの国の唱歌/民謡である《埴生の宿》を聴くことによって、それぞれに故郷を思い出し、本質的な言語のずれを抱えたまま武装を解除する。
 言語。人間は有限の語から無限の文を作り出す。言語は定型的な表現ではない。死者について何も語ることのできない彼は、同じ部隊の仲間達に自らが日本に帰らない理由を言語で伝えることができない。そのため彼は竪琴を弾きそれを伝える。それゆえインコは定型文でそれを伝える。
 「――あぁ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!」
 ここに死を与えられた者の、死の、痕跡なき死者たちの声なき声が在る。(それゆえあの「手紙」は問題である。ただ、市川による劇場版は原作の小説にあるような「祈りの意味」を説得する色が薄いことが救いだろう。)
 語りえない他者から死を与えられるということ。

 兵士である水島はアブラハムのように他者に死を与えたかもしれない――デリダによればあらゆる行動が、無数の他者の中からその一部を優遇する(あれか、これか)行為であり、我々は皆アブラハムである――。しかし同時に彼は死を与えられるイサクでもあった。敵兵から死を与えられる可能性。他者の死を与えられたという事実。
 そして本当は、すずも同じ立場であったのだ。きっと無数の他人の死を目にして、きっと痕跡なき死の現場も目にして。
 その全てに向き合おうとする者はもはや日常に戻ることはできない。名も知れぬ他者の内容なき「死」自体にできることは何もなく、ただその前でおそれおののき、祈るしかない。
 無抵抗に死を与えられるイサクもまた、その瞬間に信頼する父という他者におそれおののいただろう。その与えられる死もまた、痕跡なき秘密の死であった。
 だからきっと、彼らはイサクだったはずだ。アブラハムの「責任」とは違う経路で他者に到達する「祈る者」。

 

 無論、「祈り」は倫理的に要請される事柄ではなく強制されるべきことでもない。ゆえに市川崑が原作をいささか改変したあのラストシーン。水島の思いが決定的に隊員たちに届くことはなく、忘却されていくというあのラストは全く正しい。ここでいう「祈り」とは死者のためのものでなく、そしてきっと生者のためのものでもないそれを指す。それはそれ以外の何ものにも奉仕しない個人的な事象である。
 おそれとおののきは衝動である。
 死者とは絶対的な他者だ。痕跡すら残さぬ死者はその事実を私たちに与える。死者。本当の死者。しかし、「死」自体が日常に現前する時、我々はただ、その不可能性の前でおそれおののくしかないのだろう。

 

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