『響きと怒り』の詩学

 さっきもぼくは、自分が意地悪な役人だったなどと言ったが、あれは自分で自分を中傷した言葉である。憎らしいから中傷してやったまでだ。(中略)ぼくは自分の内部に、まるで正反対の要素がどえらくひそんでいるのをたえず意識していた。その正反対の要素が、僕の身内ですさまじくうごめきまわるのさえ感じられた。いや、生涯、僕の内部でうごめきまわり、外へ出ようともがいていたのを知りながら、ぼくはやつらを出してやろうとしなかったのだ。(中略)こんなことを言うと、諸君、何かこうぼくが諸君に向かって懺悔している、いや、赦しでも乞うているように取られるかもしれない……いや、きっと、そう取られているだろう……もっとも、はっきり断言しておくが、たとえそう取られたにしても、ぼくにはどうでもいいことなのだが…… (フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』 1864 江川卓訳 2013 新潮文庫 p8-9)

 

 多数の声(考え)が響き合い、作者の絶対的な思想によって秩序づけられてしまうことのないドストエフスキーの諸小説。
 ミハイル・バフチン(1895-1975)は『ドストエフスキーの詩学』の中でそれらを「ポリフォニー」と定義した。
 ポリフォニーは様々な形態をとってドストエフスキーの作品に現れる。先に引用したような登場人物の独白の中にすら、他者の声(先取りされた読者の声や他者化された自己による自己への中傷)が響いていることが見て取れるだろう。
 しかし、この「ポリフォニー」という言葉は元々音楽用語である。音楽における「ポリフォニー」とは、ルネサンス期に最も興隆した音楽様式を指し、それは対位法的思考(和音ではなく旋律の重視)を基盤とした、多声音楽のことを指す。
本論では「小説におけるポリフォニー」の特異性について別の媒体と比較をしつつ考えてみたい。

 音楽におけるポリフォニーは文学におけるポリフォニーとはある点で異なっている。そのことを確認するためには、ポリフォニー音楽の最も極端な例としてトマスタリス(1505-1585)のモテット《我、汝のほかに望みなし》について考えてみるとよいだろう。このモテットは40声という過剰な声部の多さで作曲されており、それらがしばしばばらばらに動きまわるため、各声部の旋律を独立して認知することができない。音楽においては声部を独立して聴くことの難しさはその数に比例する。つまり声部数がある程度を超えると、多声化すればするほどむしろそれを全体的にしか認知できないという逆説が発生するのである。対してドストエフスキーの長編小説には多数の登場人物が現れ、それらがポリフォニーとして混ざり合うにもかかわらず、その各登場人物を混同してしまうことはない。これはなぜだろうか。
 その理由の一つとして、音楽においてはその媒体と媒体が指し示すものが分離していないことが挙げられるだろう。
 小説は言語(文字)によって何らかの概念(意味)を指示しそれが物語を形作る。そこでは媒体(文字)と内容(物語)が分離している。そのため、「かぎ括弧」は科白を表し、(丸括弧)は補足を表す、「、」は文章を区切る、といったメタルールを設定することができる。
 一方音楽にとってそれが指し示す内容とは何だろうか? 確かに音楽が我々に何らかの「情感」を与えることはある。しかし歌詞を伴わない器楽曲が何らかの概念を文字のような明確さを持って指し示すということは基本的にありえない。音楽評論家エドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)は『音楽美論』において音楽のこういった性質を指摘し、音楽の内容(本質)をその音のフォルム自体であるとした。つまり音楽においては媒体(音)と内容を明確に分離させることが不可能なのである。(本論では「ミュージックコンクレート」のような特例を一時的に無視する)。
 このことを踏まえて、小説固有のポリフォニーについて考えるために、ドストエフスキーではなくウィリアム・フォークナー(1897-1962)の小説『響きと怒り』を例にとってみよう。

 

 この電車には黒んぼはいなかった。窓の下をまだ漂泊の取れてない帽子の列が通っていた。ハーヴァード行きだ。僕達はベンジーの草地を売ってしまった。 彼は窓の下の地面に倒れてわめいていた クエンティンがハーヴァードに行けるように わたしたちはベンジーの草地を売りましたのよ あなたと兄弟になるんですわ。末の弟ですわ。
 車をお買いになるべきですね どんなに便利かわからないでしょう そう思わないかい クエンティン ほら さっそく僕は彼のことをクエンティンって呼んでるんですよ なにしろ彼のことはキャンダスからずいぶん聞かされてますからね。
 そう呼んでいただいてかまいませんわ あなたがたには友達以上の関係になってほしいと思ってるんです そう キャンダスとクエンティンも友達以上の関係ですわ お父さん僕は近親相姦を犯しました あなたに兄弟姉妹が一人もいないんなんてお気の毒ですわ 妹がない 妹がない 妹を持ったことがない…… (ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』 1929 平石貴樹/新納卓也訳  2007 岩波文庫p184-185)

 

 『響きと怒り』ではこのような一般的に「意識の流れ」と呼ばれる技法(思考をそのまま再現したかのような文章構成)が多用されている。電車に乗っているクエンティンは、母が自らの学費のために、知的障害を負っている弟ベンジーお気に入りの草地を売却したことを思い出す。母の声は括弧をともなわず彼の思考の中で響き、クエンティンの妹キャンダスの婚約者に語りかける。以後母とキャンダスの婚約者との対話が続くが母の一言がきっかけで、クエンティンがキャンダスと近親相姦を犯したと父に告げる場面に連想が飛ぶ(こうした印象的な場面は断片化され作品内に散在している)。最後の妹がないはまた作中の別の場面の断片である。
 ここでは前述した『地下室の手記』と同じく、人物の内的独白に他者の声が入り込み、独白でありながらポリフォニーを形成している。しかし、今注目すべきなのはここまで複雑に時間や語りが混在しているにもかかわらずそれらを混同することがないという事実である。たしかにここでは各登場人物の科白は「」で括られず、無秩序に飛び交っている。しかし場面(時空)の変化を、字体(フォント)の変化および「空白」というメタルールで表すことによって、それらを別個のものに分節し内容を把握することができるのである。
 一般的に人間の思考を写し取る非文章的な技法であるとされる「意識の流れ」は、実のところ、同時に「文字」の媒体的特質を高度に活用することによって成立しているのだ。
 また、小説におけるポリフォニーは演劇や映画における群像劇や多数の語り手を設定したものとも異なっている。
 例えば、黒澤明の監督した《羅生門》においては、ある事件について様々な語り手がそれを回想する形で語られ、その映像が並列して提示される。しかし、それらは全て映画という媒体の都合上、カメラレンズによる客観的で具体的なものとして表されてしまう。そこには小説的ポリフォニーによる様々な主観世界の現れは存在しない。
 バフチンは『ドストエフスキーの詩学』内で演劇を本質的に「モノローグ」なものであると断定しているが、私は演劇がモノローグであることの理由の一つは上記のようなことであると考えている。このことを明確化するためにも再びドストエフスキーではなくフォークナーの『響きと怒り』の文章を見てみよう。

 おわんの中がしるしの下までさがった。それからおわんがからになった。おわんがいなくなった。「この子、今夜はおなかがすいてるわ」とキャディは言った。おわんが戻ってきた。ボクはしるしを見ることができなかった。それから見ることができた。「この子、今夜はぺこぺこなんだわ」とキャディは言った。「ほら、こんなにたくさん食べちゃった」(同上 p140)

 これは語り手であるベンジーが食事をするという何気ない日常の描写であるが、語り手が知的障害を負っているためにそれは特異なものとなっている。ベンジーの語りと先に引用した文章の語り手(この人物も妹へのねじれた欲望や自殺前の抑鬱的な精神状態により特異な描写を行なっている)との語りの違いに着目すれば、そこでは全く違う2つの世界を見出すことができるだろう。小説は「語り」という性質を持つがゆえに、語りの内面を通し描写する対象を変容させざるおえないのである。この点に小説と映像・演劇との本質的な違いがある。

 字体と文体によって世界を多数に加工・編集しその造形を読者に認知させること。このような小説という形式の持つ最高度のフィクション性は後の「メタフィクション」や「パラフィクション」といった想像力に繋がっていく。
 語り手の複数化による世界の対位法。語りの断片化による時空の対位法。フォークナーは『響きと怒り』によってドストエフスキーを超え、さらなる小説的なポリフォニーを打ち立てたのである。

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