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二人セゾンの詩学

 

 

はじめに

 本論では、アイドルグループ欅坂46の楽曲二人セゾン*1 を対象として音楽分析、認知詩学、表象文化論などを横断する歌曲分析を試みる。
 今日の文学研究や文芸批評は細分化され、構造主義/ポスト構造主義/物語論/文体論/新歴史主義/ジェンダー批評/精神分析批評/ポストコロニアリズムなど様々な方法論が生み出されている。
 分析とは特定のパラメーターを設定し計測する――これは最広義の意味においてである――ことに他ならない以上、分析方法が異なれば分析結果が異なることは人文系の学問において当然であるし、細分化自体が問題であるとは私は考えない。しかしその分析結果相互の関係性について思考することは文学を総合的に分析する新たな道を見つけることにつながるだろう。また文学と音楽の分析を結ぶことは文学研究や文芸批評においてしばしば見過ごされがちな音韻の問題に否応なしに目を向けることにもなりうる。
 最後に《二人セゾン》を対象として選んだ理由だが、個人的興味の他に、知名度のある流行歌であること、そのミュージックビデオが公式に動画共有サイトYoutubeにて公開されているため本論の読者が対象にアクセスしやすいことなどが挙げられる。

[注1] 欅坂46 《二人セゾン》  SonyRecords  2016 秋元康が作詞を担当しSoulifeが楽曲制作を担当している。

 

Ⅰ.《二人セゾン》冒頭部分析 ――プロトタイプ/楽式論

 これから実際に《二人セゾン》の分析を始める。主にその文体と文体を音によって制御する旋律、あるいは和声の効果の分析を通してこの音楽の「語り手」の問題に到達しようと思う。そしてこの「語り」の問題に到達することによって初めて「二人セゾン」とは何なのかに答えることができるのである。*1

 《2人セゾン》は主題(いわゆる「サビ」)の旋律から始まる。*2 以下がその旋律と歌詞である。

 

図1(2小節目のE♭音に入った臨時記号♭は誤植である。調号に♭が入っているためこの♭は不要でありダブルフラットの意ではないため注意していただきたい)

 

 ここで繰り返される「二人セゾン」という歌詞は意味深長である。仏語セゾン(season)は「季節」を指す。そしてこの単語と「二人」という日本語が「の」や「は」という助詞を介さずに接続されているため単なるメタファーを超えた不可解さを呈している。
 認知詩学という認知言語学に依拠した文学理論では「プロトタイプ」という用語が用いられ、それは何らかのカテゴリーを表す典型例を指す。文章においてのプロトタイプは以下のような特徴を持つとされる。

 

術部:(主語となる)名詞句とそれを叙述する動詞句を持つ.

過去形および定動詞形:完成・終了した行為または出来事を明示す.

明確な肯定形:なぜなら,否定文では現実がそのまま描写されているわけではないから.

断定的平叙文:疑問文,命令文,感嘆文,あるいはいかなる叙述法にも属さないような文であってはならない.

被指示物を特定:非特定的な指示の仕方(例:「ある」もの,「何らかの」もの)では,被指示物の特定はできない.

(ピーター・ストックウェル『認知詩学入門』2002 内田成子訳2006 鳳書房 p50)

 

 これらの特質から外れた文章は特異性を持ち、また一般的に開かれた文章(意味が多重解釈性を持った文章)となる。
 《二人セゾン》でいうと「二人セゾン」はこのプロトタイプから激しく逸脱した謎めいた言葉であり、最初衝撃を持って現れる。しかしこの言葉は曲中何度も繰り返されることで曲全体の土台のようなものとなっていく。つまり前景にある「図」ではなく後景に背景的に存在する「地」になっていくわけである。(この「図」と「地」という区分法も認知詩学では広く用いられる)。詩全体の背景およびタイトルがこの強くプロトタイプから逸脱した「二人セゾン」という謎めいた言葉であることがこの詩を特徴付けていると言える。
 さて、冒頭においても繰り返される「二人セゾン」という言葉の間に「春夏で恋をして秋冬で去っていく」という1節が分断され挿入されている。「二人セゾン」と歌う旋律と「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」という旋律は前掲の図1のようにグループ化される。
 どちらも旋律的に同型のためひとつの楽節(赤色)を形成するわけであるが、「二人セゾン」という歌詞はF音から始まる旋律であり、「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」のほうはE♭音から始まる旋律であるため青色のグループ化もまた同時に成立することが可能となっている。
 このように言葉の意味内容の違いと音楽の旋律の違いを対応させた上でそれをグループ化することで音楽に安定感が生み出されている。
 しかしここではまだ「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」と「二人セゾン」の関係は謎である。「二人セゾン」に「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」のか「二人セゾン」は「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」のか。
 さて次に新しい旋律によって始まる「一緒に過ごした季節よ」という歌詞であるがここで注目すべきは先程までとは異なり明確に(描写ではなく)語りかけが行われていること。そしてそれが「季節よ」と「季節」なるものに対して行われていることである。「一緒に過ごした季節を」ではなく「一緒に過ごした季節よ」であるということ。つまりこの曲中で季節は「春夏で恋をして/秋冬で去っていく」といった一般的な意味での季節としてだけではなく何らかの主体性を持ったものとして捉えられていることが分かる。
 この「季節」とは何なのか。誰が誰に語りかけているのか。そして「二人セゾン」とは何なのか。この謎こそがこの音楽の核心に位置している。しかし本論で試みているのはその謎を解くことではなく(それは一度曲を聴いてみれば大体察することができるだろう)その謎はどのようにして成り立っているのか、その謎が何をもたらしているのかといったことがらである。
 冒頭部では再び主題の旋律の音形(とその変形)で「後悔は/してないか」と歌われ、次のセクションに入っていく。

[注1] ここで注意しなければならないのは、これから述べる分析内容をこの曲の制作者や欅坂46のメンバーが自覚しているとは限らないことだ。批評とは作者の意図を当てるゲームではなく、作品を読む新しい視点を作りだすものである。

[注2] 日本におけるポピュラー音楽にも多くの様式があるがその基本形の一つとなるのは前奏-A-B-主題(サビ)-間奏-A-B-主題(サビ)-C-間奏-主題-コーダである

 

Ⅱ.《二人セゾン》A分析 ――旋律的孤立とドミナント

 

図2(煩雑さを避けるため、歌詞の都合による細かいリズムの変化などは楽譜に反映させていない)

 

 曲は前奏を終えてA部分に入る。図2を見れば分かるようにAの歌詞の「道端咲いてる雑草にも/名前があるなんて忘れてた」と「誰かと話すのが面倒で/目を伏せて聴こえない振りしてた」の部分は類型を成しており、この類似性は歌詞の意味内容と重なり合っている。
 おそらく「道端咲いてる雑草」は「誰かと話すのが面倒で/目を伏せて聴こえない振りしてた」「僕」を暗示しているのであろう。しかしこの前半部は誰が語っているのだろうか。後半部で「僕」と「君」という登場人物が現れるのであるが「道端咲いてる雑草~目を伏せて聴こえない振りしてた」は「僕」が語っているようにも「君」が語っているようにも、また客観的な「第3者」が語っているようにも読める。この「語りの混在」については後述するが、このように語りが混在していることは《二人セゾン》そして「二人セゾン」を成立させる上で重要な役割を果たしているとだけここでは言っておこう。
 そして英語にて「What did you say now?」と問いかけが「僕」から「君」にされるわけだが、この旋律は1小節(と半拍)で完結するフレーズ的に孤立した新しい部分であり、そのため浮いた(目立つ)部分となっている(図3)。

 

 

 

図3

 

 この部分の歌詞が英語であり他と区別されていることと旋律が孤立していることは重なり合っている。さらに付け加えるならばこの部分の和音C7は音楽理論においてドミナントという機能を持つ和音であり、この和音が含む不協和音程の緊張は次に特定のトニック和音(安定した和音)への解決を喚起させるとされている。言い換えるならば次のBメロのトニック和音へ進みたいと言う強い欲求、あるいは実際に進んだ時の強い「進行感」を喚起させる。
 このように「What did you say now?」は作品内で非常に目立つ問いである。この問いは我々に答えを欲望させる。ではその問いにはどのような答えが用意されているのだろうか。

 

Ⅲ《二人セゾン》B分析 ――ナラティヴ・ディスクール

 「太陽が戻ってくるまでに/大切な人ときっと出会える」
 これは何だろうか。「きっと」という言葉からこれは何らかの心情告白のように読める。だとしたら一体誰の心情だろうか。前のフレーズである「What did you say now?」をかえりみるならば「君」の言葉ともとれるが、それが実際に発話された言葉なのかは判断が難しいところだろう。
 「太陽が戻ってくるまでに」というフレーズであるがこれは「夜」のイメージを私たちに与える。
 筆者は「夜」という言葉に非公共性、個人性、詩的なものといったイメージを喚起させられる。「君」と「僕」だけで成り立つ世界をイメージするわけである。しかしこれは各人が「夜」という概念に対して持つ心象(イメージスキーマ)によって変わるだろう。
 この次にくる「見過ごしちゃ/もったいない」が旋律的グループを形成するわけだが、その後の「愛を拒否しないで」の旋律は先程の「What did you say now?」と同じく音楽のグループ的に見て孤立している。そう考えると「愛を拒否しないで」が「What did you say now?」に対する答えのようにも読めるが状況として「愛を拒否しないで」と直接発話したとは考えにくい。
 それでは、聴衆への問いかけにも聴こえるこの言葉は一体何なのだろうか。
 これらの部分では「君」が発話した言葉そのものは覆い隠され、「君」の心情が「作品自体の語り」*1 (これは古典的な文学理論では神の視点と呼ばれるもの、あるいはギリシア演劇の「コロス」と類似のものである)によって別の言葉で語られていると考えられる。そしてこの第3の語り手は(神の視点という名称に表されているように)登場人物ではなく、登場人物よりも一段メタなレベルにある語りであり、それが話す言葉は純粋にその作品世界の真実あるいはステートメント、メッセージである。
 先程のA部分の分析で見た様に「君」の声は「僕」の声と混じり合う。しかしそれだけでなくそれは作品世界の「神」となることで作品全体にステートメント/メッセージを与えるのだ。*2
 また、この「愛を拒否しないで」の部分のすぐあとに来る和音は再びC7であり、これは「What did you say now?」と同じく旋律的に孤立していると同時にドミナントの機能を持っており、サビに向かっていく強い進行力を持っている。
 「君」=「世界」の発する「愛を拒否しないで」は最後のメッセージではなく、その先があることを予期させながらサビに向かい疾走するのである。

[注1] 「作品自体の語り」という用語法については議論の余地があるだろう。

[注2] 私は芸術作品におけるステートメントやメッセージはその内容の真偽ではなくそれが作りだす世界像やそれがいかに語られるかという視点から分析されるべきであると考えている。純粋に内容の正しさを証明したいのならば、芸術ではなく論文という形が最も適しているのだから。

 

Ⅳ《二人セゾン》の詩学

 ついに主題(サビ)部分まで論を進めることができた。この部分の旋律は冒頭にて分析したため割愛し、本章ではこれまでの分析を元に歌詞全体の意味について考えてみようと思う。
 さて、ここで注目すべき言葉は「君はセゾン」という1節である。この時点でひとまず第1章で問題提起を行なった、主体を持った「季節」が「君」であることが分かる。
 そしてサビの終りに来る「生きるとは変わること」では「生きる」ということも変わっていくということ、つまり「季節」のようなものであるというステートメント――構成的に見て最も重要なステートメント――が「作品自体の語り」によって語られる。(この部分は「昨日と違った季節よ」という問いかけを文法的に無視することで唐突に現れる)
 この「生きる」ことが「季節」であることを教えてくれたのは「君」であり(これは後の歌詞「春夏秋冬生まれ変われると/別れ際君に教えられた」においてはっきりと示される)、その「君」はまた「季節」であり、その「君」の言葉(あるいは「君」自身の在り方)はこの作品における「作品自体の語り」=「メタな点」に昇華され「生きる」とは「季節」であることを宣言するのだ。
 論旨が複雑になってきたが、さらにこの曲は最後に「僕もセゾン」と歌われることも見逃してはならない。
 「季節」である「君」は「僕」を「季節」にして去っていった。「僕」も「季節」だとするならば「生きるとは変わること」といった作中のあらゆるステートメントは昇華された「僕」の声であるとみなすこともできる。つまり「君」が「僕」に教えてくれたことがら(あるいは「君」自身の存在)が「僕」という語り手を通して昇華され「作品自体の語り」としてこの作品のステートメントとなっているのである。
 論旨を整理しよう。この作品では「セゾン」=「季節」とは「変わる」もののことである。*1 作品内では「季節」である「君」は「僕」を変え、変わる者=「季節」とした。そして「君」が「僕」に教えてくれた「変わること」=「季節になること」は僕を通して「作品自体の語り」にまで昇華されこの作品のステートメントとなっているわけである。つまり「二人セゾン」とは「君」と「僕」が季節であることを意味している。
 ここでさらにもう一つ別の仕掛けについて見てみよう。第1章から続けて検証してきたように《二人セゾン》には「僕」の語りによるものとはっきり断定できる言葉は多くあるのに対して(「君は突然僕のイアホン外した」など)、はっきりと「君」の語りと断定できる言葉は全く存在しない。それらは「君」によって「季節化」した――「変わること」を知った――「僕」の語り(一緒に過ごした季節よ/後悔はしてないか)とみなすことができたり、作品自体のステートメントにまで(「僕」という語り手を通して)高められ発話とは別の形態に変容した「作品自体の語り」による語り(「生きるとは変わること」)とみなすことができたりする。
 このように語り手としての「君」が確固とした実像として作品内にいないこと、「僕」と混じり合い、「僕」に与えた影響として、作品のステートメントのレベルにまで高められてしまっていることは僕と君がすでに別れてしまったこと(「春夏秋冬生まれ変われると/別れ際君に教えられた」)と重なり合っている。この観点からは「二人セゾン」を「君」と「僕」が過ごした季節(一般的な意味での季節)と読み解くこともできる。
 「季節」と季節によるダブルミーニングが「二人セゾン」には認め得るのである。
 この作品で語られることは独我的なモノローグであると同時に「君の声」でもあり、この作品における「世界の声」でもあるのだ。

[注1]「季節」を変わるものではなく反復するものと捉えなおすならばこの作品の新しい解釈を生み出すことが可能だろう。そういったテクストの「解釈」は興味深いが形式的な分析から離れてしまう可能性があるため、本論ではあえて行なわない。

 

補遺 「二人セゾンの詩学」を超えて

 《二人セゾン》の語りにおいては「僕」と「君」という極めて個人的な2項関係が混じり合い、それらの声は最終的に作品のステートメントにまで昇華されていた。
 しかしその極めて個人的な世界を歌う欅坂46は20人というアイドルグループ、つまり集団である。そしてこの個人と集団のねじれた関係性は欅坂46ひいてはアイドルグループというものを考える上で最も重要な点であると筆者は考えている。
 本章では《二人セゾン》という単一の作品の詩学を超えて《二人セゾン》を歌う欅坂46とは一体何なのかについて素描を行なう。

 《二人セゾン》の映像を見ていて気が付くことは、アイドルである一人一人が個別に映されるシーンと集団で統制のとれたダンスを行なうシーンとが交錯しているということだ(このような対比はアイドルグループのミュージックビデオにおいてしばしば見受けられる)。
 このような個人と集団の関係性は、端的に言っていわゆる「推しメン」という概念と密接に関係している。
 アイドルグループのファンは、そのグループのメンバー中でも特別に応援しているメンバー「推しメン」を作っている(特定のメンバーではなくグループ全体を応援するいわゆる「箱推し」を行なっているファンも欅坂46には多いという事実はあるが)。
 アイドルグループは単一のグループであると同時に、「彼女たち一人一人」は「彼女たち一人一人を推しているファン一人一人」と個別的な「アイドル-ファン」の関係を形成している(AKB48は資本主義的選抜制度によってその個別性を先端化させたアイドルグループである)。
 そしてそうである以上アイドルグループのミュージックビデオにおいて個人と集団という相反する要素が交錯するのは必然である。
 そのことを念頭においてこの《二人セゾン》の文体を読み直すのならば、「君」と「僕」という関係性が昇華されて作品の「作品自体の語り」になることはファンとメンバーという無数の2項関係が欅坂46というグループを形成し、ひとつの非個人的声の塊であるコーラスになることとパラレルである。個人的なものがその個人性を保ったまま全体を形成し連帯すること(あるいは連帯しているように見えること)。これが今日におけるアイドルグループというものの重要な特質に他ならない。
 そしておそらく欅坂46はその全体と個人の関係を主題にしてきた(と読むことができる)アイドルグループである。
 ちまたでは欅坂46は「反逆のアイドル」(TV番組「JAPAN COUNTDOWN」の《二人セゾン》特集 2016 11/20を参照)と呼ばれている。確かにデビューサイレントマジョリティーや2017年に発表された《不協和音》、あるいは《世界には愛しかない》においても「社会」や「大人」に対する不信を表明し「全体」に対する闘いを展開しているためその評価は間違ったものではない。しかし、欅坂46を「反逆のアイドル」と単純に捉えてしまうのは欅坂46の射程を矮小化してしまっているのではないかと筆者は考えている。
 欅坂46はたしかに《サイレントマジョリティー》や《不協和音》において個人の自由を謳っている。特に《不協和音》では全体化されない非秩序的な存在者の重要性が語られている。しかしそれらのパフォーマンスに目を向けて見れば、そこでは完全に統制された複雑なダンスが行われており、平手友里奈というセンター、つまり中心が存在する。
 ここで注意してほしいのは本論がその矛盾を持って欅坂46あるいはアイドルグループ全体を批判しようとしているわけではないということである。むしろアイドルグループひいては「個人主義的共同体」が不可避的に持つ全体と個人の葛藤を歌詞の内容とそれを歌う形式の齟齬として体現している、と読むことができることにこそ欅坂46の本当の意義があると私は考えている。(アイドルという共同体のもつ葛藤にはアイドルファンとアイドルの関係性という要素も含まれるため、複雑な様相を呈する)
 この観点から眺めるならば欅坂46は「反逆のアイドル」ではなく「葛藤のアイドル」として読み替えられるべきであろう。そしてしばしば「反逆のアイドル」とは違った側面として評価されがちな《二人セゾン》という楽曲は、この「個人的なもの」(「君と僕」)と「全体的なもの」(作品におけるステートメント)を取り扱ったという点で《サイレントマジョリティー》や《不協和音》と同じく、あるいはそれ以上に「欅的」な音楽と言うことができるのである。

 ここまで本章は全体と個人の葛藤について論じてきた。この葛藤を乗り越える可能性はおそらく欅坂46の内部に潜在していると筆者は考えている。しかし本論の主題はアイドル論ではなくあくまで《二人セゾン》という楽曲を多方面から分析することだった。
 そして本論では、《二人セゾン》の歌詞が音楽のグループ化と関係していること、歌詞に描かれた「君」と「僕」の関係性がその文体(語り)とリンクして作品のステートメントを作り出していること、その「君と僕」および「ステートメント」の関係がアイドルグループのもつ「個人と全体の葛藤」と通ずるものがあることについて分析を進めた。
 《二人セゾン》においては作品内の「君と僕」という個人的な世界は語りによって跳躍し「作品自体の語り」という非個人的なものとなる。そしてその跳躍は歌の外部である映像やアイドルグループという形式の問題にまで射程を広げることができるのである。

文字数:8801

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