Practice for a Revolution-擬態する坂口恭平

 坂口恭平と坂口真理夫(マリオ)は別人だろうか。坂口真理夫とは母親によって却下された第二案、もう一人の坂口恭平の名である。躁鬱病である坂口の経験する躁と鬱が切り離せないように、恭平と真理夫も切り離すことができない。予告された殺人よろしく、坂口の小説はこの二人の坂口の邂逅に始まると初めに述べておこう。なぜなら、坂口は近作において坂口恭平本人ではなく、限りなく坂口恭平に近接した他なるもの(真理夫)に自らを変身-「擬態」-させることで、可能なる小説の自由を体現しつつあるからだ。

 フランツ・カフカ『城』の男が測量士であったことは坂口の一側面を照らし出す。坂口の著作には卒業論文を写真集にした『0円ハウス』、『隅田川のエジソン』、デッサン集『思考都市』、そして『ズームイン、服!』に連なるような観察者の視点で書かれたルポルタージュの系譜がある。現代の考現学者として、坂口は路上生活者たちの家の素材と組成を克明に記録していく。一つ一つの雑草に名前があるように、坂口は匿名化された社会の組成に言葉という測りを当てていくのだ。測量士としての坂口恭平。今思えば、3.11後、躁状態に振れた坂口が打ち出した「新政府内閣総理大臣」という肩書きは現政府という「城」を徹底的に分析し、観察するための測量士の別名であったのかもしれない。

 坂口の出世作『独立国家のつくりかた』は震災以後の日本社会論であるとともに新国家設立という熊本での実践的な活動と合わせてみれば、坂口の測量士から(社会)建築家への変貌を感じさせる。嘘か誠か。坂口は新政府設立によって、現実の政府の虚構性を巧妙につき、隠されていたもう一つの現実を明らかにしようとした。大江健三郎の著作がすべて小説として読むことができるように、『独立国家のつくりかた』や坂口の膨大な日記集も現実とも虚構とも判別しがたい一種の小説として読むこともできるだろう。坂口は『現実脱出論』で、ものがたり=小説について以下のように述べている。「僕にとって「ものがたり」とは、あらすじを持った作り話なのではなく、感覚器官という扉の向こうにしっかりと存在している空間を、現実のもとにおびき寄せる行為のことを指している[i]」五感の内側に隠されていた空間を現実におびき寄せる行為こそがものがたりなのである。以下では、このようなものがたりとして書かれた坂口の小説について論じるつもりであるが、ここでは初めに書かれた三作と続く三作をそれぞれ初期三部作と中期三部作と区別したい。なぜなら、初期三作と続く三作は内容、文体のどちらの点においても明らかに趣を異にするからである。具体的に初期三部作とは『幻年時代』、『徘徊タクシー』、『家族の哲学』、中期三部作とは『現実宿り』、『けものになること』、『しみ』のことを指している。結論を先回りすれば、初期と中期の間を跳躍する、ある変化を根拠にして坂口における小説の自由(度)を指摘することになる。

 『幻年時代』は坂口家が福岡県糟屋郡新宮町にある電電公社の団地内の古い建物から新社宅へと引っ越した、その年、4歳の坂口恭平が母親に連れられて、初めて自宅から幼稚園に向かうまでの道のりを自由連想的に綴った回想記である。断片的だった記憶が連続した線を結ぶ4歳の坂口恭平の原点は新社宅の裏庭の砂利と団地から幼稚園へと続く砂利道の人工性と、その道すがらフェンス越しに広がる松林と白い砂浜の砂から感じられる自然の境目への観察に始まっている。坂口の生活世界の認識が砂を基点してなされていることは興味深いが、紹介を続けよう。『徘徊タクシー』では祖父の危篤を知らされた「恭平」が熊本に帰郷した際に 認知症の曽祖母トキヲと再会を果たしたところから物語は始まる。トキヲの徘徊についていくうちに、忘却などされていなかった土地とトキヲの記憶の結びつきを発見した「恭平」は徘徊を手助けする「徘徊タクシー」を発想し、徘徊老人の記憶を掘り起こす冒険運転に出発する。この物語は実際に坂口が徘徊タクシーを実行した音声がインターネットにあげられていることからもわかる通り、坂口の現実における実践の反映の跡を色濃く残している。

 両者は坂口の読者であれば、それ以前の著作からの連続として何ら違和感なく読むことができるだろう。その理由は単純に、いずれも主人公の名は「恭平」であるからだ。たしかに作者本人と登場人物は区別されてはいるものの、作者である坂口恭平が「恭平」の視点から物語らせる構造においては、現政府という現実に他なる現実を示すために新政府を設立したというにわかに信じがたい行動にでた男、坂口恭平について作者坂口恭平が書いた『独立国家のつくりかた』から何ら変わらない構造をもっているのだ。三部作、最後の『家族の哲学』にも同様の構造が見ることができる。極端に言えば、初期三部作においてはその「恭平」視点が保たれている限りにおいて、小説独自の実践はまだなされていない、あるいは顕在化していないといえるだろう。

 初期三部作では坂口恭平が「恭平」の視点を通して、世界を記述していたとすれば、中期三部作では「恭平」は消滅し、その代わりに出生地や経歴から坂口恭平を思わせる人物あるいはまったく他なるものに視点はひとまず預けられている。ひとまずというのは中期三部作では多視点あるいは視点そのものが常に偏在化する記述がなされているからである。初期から中期への橋渡しをする場面は『家族の哲学』に垣間見える。鬱状態の「恭平」からもう一人の坂口恭平が絶望の果てから誕生し、「恭平」に対して、長々と14頁に渡って演説をする場面である。その男は他者に聞かれることを目的としないとしたうえで、このような具合で語る。「私には絶望なんてものがないことが分かった。それは絶望していると思っている人間には何の足しにもならないだろう。しかし、私は口にする。(中略)じつのところ体は動いているにもかかわらず、それがこれまで知覚してきた動きと違うために、停止していると勘違いしているだけなのだ。長い躊躇。つまり、これが絶望だと判断されてしまっている。(中略)絶望は絶望と見せかけて、体を停止させ、その間に、新しい体の動きを知覚した細胞たちが、ひっそりと身を隠しながら、訓練し、改良を重ねるという時間なのだ[ii]」作者坂口恭平と「恭平」の語りの二者関係は「恭平」の分裂によって新しい局面をむかえている。突如とした「恭平」の分裂、「恭平」視点そのものの分裂に『家族の哲学』を経て、中期三部作ではいかなる展開を見て取れるだろうか。これより順に『現実宿り』、『けものになること』、『しみ』の三作について見ていきたいが、その前に三作に共通する特徴だけをまとめておこう。三作は一度読み始めれば、だれもが気づくように、その内容と文体は初期三部作と全く異なっている。小説内の出来事は夢か現実か。あるいは誰のものなのか。イメージの連関がめまぐるしく視点と場所を移動させながら、それらを偏在化させる記述は読解そのものを困難にしている。容易には物語展開をトレースすることができないために、読者は意味のつながりではなく、一つ一つの事物、モティーフに焦点を合わせるほかない。坂口がどのような事物の引力に引き寄せされているのかを詳らかにする作業、つまり、読者は細部に神を発見していくほかないのである。

 『現実宿り』では全体にわたって一つの意志を持つかのように振る舞う砂漠が通底するモティーフ、舞台として設定されている。それは小説内で、わたし、わたしたち、おれの三者の語り手の分裂と後半部での不意の同一化を繰り返す砂漠である。ダリのシュルレアリスム絵画を思い浮かべれば、砂漠とは意識的なものの個別性を時間とともに、すべて無化し、その集合のうちに擬態させていく運動体であったはずである。『現実宿り』では、モンゴル人の青年モルンに呼ばれ、ウランバートルの平原を訪れた、わたしが土に埋没し、わが身をもって砂粒の記憶を想起するという儀式的であり、象徴的な場面が描かれる。

 初期のシュルレアリストとの交流ののち『斜線』に代表されるようなシュルレアリスム批判を展開した、フランスの文芸評論家ロジェ・カイヨワは「擬態と伝説的精神」のなかで「擬態」の最終目的は「環境への同化」であり、またその周囲環境に同化することで、自らの感覚を喪失する「精神衰弱」患者との類似性を示している。ここで注目したいのはカイヨワがそれらに加えて、擬態のある奇異な特徴を指摘していることである。それは昆虫が主に枯葉や排泄物という「不活性物質」に擬態するという特徴である。カイヨワの「擬態」論を援用すれば、『現実宿り』における砂への埋没は不活性物質への擬態であると理解することができるだろう。わたしは砂粒という「不活性物質」へ擬態することで、不活性物質化を遂げるのだ。これは坂口がカイヨワの枠組みを見事に小説化していることを確認したにすぎないが、さらに坂口は擬態の深部へと舞い降りていく。『現実宿り』では擬態した際にわたしに砂粒の記憶が舞い戻る、あるいは忘却されていた砂粒の記憶が想起される。つまり、一度、不活性物質化したわたしは同時に生なる記憶を再活性化することでカイヨワの擬態を脱出しているともいえるのだ。この坂口の小説の向かう先はマルセル・デュシャンの錬金術的な「変性」から産出される大ガラスである可能性すらあるが、その議論は別の機会に譲りたい。いずれにせよ『現実宿り』において、わたしは他なるもの、それは人間ではなく、昆虫や不活性的な砂粒に擬態することで、他なるものの記憶を獲得したのだ。

 『けものになること』では『独立国家のつくりかた』以降の一貫した問題意識である共同体の可能性、集団の予感が一枚の絵に託されている。「もっと深いイリュージョン。ポロックの作品『五尋の深み』に見える、林立する遺伝子の集団の予感。(中略)わたしはポロックが破局に至った、崩壊したあの呪術に魅せられている。むしろ、そこにしか、解決を超える、円環からの脱出はないのではないか。修正、調整、閣議決定、成長痛、話し合い、恋から愛へ、愛から家族へ、その共同体、タブー、正義、本音[iii]」それはジャクソン・ポロックの《五尋の深み》である。ポロックは1960年代アメリカの抽象表現主義の画家であり、彼のオールオーヴァーと呼ばれる一連の作品は美術批評家クレメント・グリーンバーグによってモダニズムの還元主義(平面性)の代表格として評価された。1947年に制作された《五尋の深み》もオールオーヴァーの絵画である。細かく砕いた鍵や釘、煙草、硬貨をキャンバス上の塗料のうちに埋没させることで、画面には物質的な深みが生まれている。このような画面への物質の埋没はそれだけでも擬態のイメージを喚起させるが、擬態はより多重的に宿っている。なぜなら、ポロックの制作風景を撮ったハンス・ネイムスやセシル・ビートの写真に共通して見られるポロックやモデルがオールオーヴァーの画面の前に立つことで、人物が背景の画面への埋没していく構図はポロックがその制作において、画面への没入を欲望したことと相似形の画面そのものへの擬態欲望のようなものを示していることがしばし指摘されているからである。『独立国家のつくりかた』では直接的に語られていた新しい共同体論が小説においては擬態を幾重にも内包した一枚の絵画に託されていた。つまり、小説独自の可能性は擬態によって可能になることを坂口は直感で書き当てたといえるだろう。そして、坂口が五尋の深みに擬態したあの姿を幻視したとすれば、そのフィギュアはもう一人の坂口恭平、真理夫のものではなかっただろうか。

 『しみ』はぼくと謎の男シミが富士山周辺の山奥で出会い、車に乗せられ、当てもなく何処かへと連れて行かれながら、そのうちに8人の王子、八王子と出会う、たった1日間についての冒険小説であるが、何よりもぼくの名が真理男と書いて「マリオ」であることが決定的に重要である。坂口の別名坂口真理夫を思わせる命名である。冒頭で予告したように、ここで初めて作者坂口恭平は「恭平」から他なるものへの擬態を通して、ついに、もう一人の坂口恭平、坂口真理男に邂逅することになるのである。坂口は初期三部作のように「恭平」へ半ば同一化するのではなく、「真理男」へと擬態する。小説内においては、真理男も同様にシミや八王子の視点に成り代わることで、小説という風景の中へと埋没していく。一体、誰が誰の体験あるいは記憶を想起し、経験しているのか。全てが風景の中へ一瞬間、擬態しては個別性をもって離反することの繰り返しである。「シミはただ風景に溶けていた。風景の一部になるにはどうしたらいい?[iv]」と真理男は問いかける。シミの運転の最中において、擬態は真理男を他なるものへと留まることを要求する。『家族の哲学』において、あの時、聞き流してしまった、あの男の言葉を回想すれば、擬態とは長い躊躇であり、それは一種の絶望であるとさえ言えるだろう。新しい知覚に気づくまでの少しの躊躇を人は絶望であると勘違いする。しかし、逆に言えば、それは新しい知覚への準備(Practice for a Revolution)であり、「自然に」生じる人間的な躊躇いでもある。「風景の一部になるにはどうしたらいい?[v]」シミは答える。「これはおれにとっての誠実で、自然なところだ。おれは自然なんだから、不自然なことをしてどうする?[vi]」と。

 坂口恭平は他なるもの(真理男)を同一人物化するのではなく、どこまで別人として擬態することで、中期三部作の小説を可能にした。作者と登場人物が自己同一化あるいは分裂するのでもなく、反対に自己と他者が統合、結合されるのでもない。そうではなく、作者そして、登場人物が他なるものへと擬態することで、他なるものの記憶を生き、新しい知覚を待望すること。これこそが小説の自由(度)ではないだろうか。

 

 

[i] 坂口恭平『現実脱出論』講談社、2014年、138頁

[ii] 坂口恭平『家族の哲学』毎日新聞出版、2015年、212-213頁

[iii] 坂口恭平『けものになること』河出書房新社、2017年、170-171頁

[iv] 坂口恭平『しみ』毎日新聞出版、2017年、117頁

[v] 同書、同頁

[vi] 同書、118頁

文字数:5884

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