村上春樹の可能世界と意識状態

 記念すべき第1回目の課題。村上春樹氏の『風の歌を聴け』(1979年)から始まる『1973年のピンボール』(1980年)『羊をめぐる冒険』(1982年)の『初期3部作』を対象として作家村上春樹氏の意識状態について批評する。

 

※私の村上春樹体験
『風の歌を聴け』は、中学2年生の時、私が初めて読んだ村上春樹氏の作品である。ぐいぐいと小説の世界に引き込まれるので一気に読み終わったが、面白いのか面白くないのか分からなかった。
続けて『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』も読んだ。止まらなくなって授業中も読んでしまったと記憶している。読後、1週間くらいの意識状態を今でも鮮明に記憶している。小説の世界から帰って来れなくなり授業や友達の話を聞けずぼおっとして現実感が乏しいまま生活していた。まるでずっと水中で生きていたような感覚、羊水の中にいるような感覚がしていた。過去、知人と村上春樹氏についての話題になった際にその話をすると同じような経験をしたという人がとても多かった。性格が変わったという話も何度か聞いた。

 現代の日本作家において、村上春樹氏ほど賛否両論はっきり分かれる作家を私は知らない。私自身、村上春樹氏の作品を読んでいると両親から
「ちゃらちゃらと楽に読める作品でなくちゃんとした文芸作品を読みなさい」と言われ村上春樹作品を読むことに後ろめたさをずっと感じていた。

しかし村上春樹作品には人の心を揺さぶる「何か」をぼんやりとしかし強く感じている自分がいるのも事実であった。
だからこそ村上春樹氏の作品は、ハルキストと呼ばれるほどの熱狂的なファンがいて世界各国で翻訳され世界的なポピュラリティを獲得しているのではないかと思う。私はその何かとは:村上春樹氏の意識状態ではないかと思っている。

人間には欲望と、プライドの中間点のようなものが必ずある。全ての物体に重心があるようにね。(☆1)

上記の文章のように村上春樹の作品を読むと、映像が浮かんでくる。村上春樹氏は、何かを観測していて観測した世界の映像を文章で創りだしているのではないかと思う。

芥川賞作家川上未映子が、村上春樹にインタビューした『みみずくは黄昏に飛び立つ』を読むと

川上:例えば『羊をめぐる冒険』でも、「羊男」という登場人物がぱっと出てきた時に、村上さんは衝撃だったとおっしゃっていました。

村上:昔のことだからあまりよく覚えてないんだけど、書いていてその直前まで「羊男」なんて影も形もなかったわけだからね。とにかく急にぽんと出て来ちゃった。(☆2)

村上春樹自身、ある種の特殊な意識状態(変性意識、トランス)となっていてなぜ自分がこのような小説が書いているのか、長嶋茂雄読売ジャイアンツ終身名誉監督が、ホームランを打つコツとして来たボールを「「ヒュー」と打てばいい」と答えたように、本人自身も特殊な意識状態になっていて自分でもどうなっているのか分からない、表現できないのでは無いかとも思う。

変性意識(ASC Altered state of consciousness)・トランスとは、通常の意識とは異なる意識状態と定義される。何かに没頭したり、集中していたり、催眠状態などを指すことが多い。瞑想状態、深い集中状態で深いリッラクス状態である。現実世界に対するリアリティよりも別な可能世界へのリアリティがある状態。数学者が数字に対して強いリアリティがあるように、現実世界ではなく仮想世界に強いリアリティがある状態。宮台真司氏は

変性意識の社会学的な写像(群衆の理想像)がカリスマであると言っている。(☆3)

頭がいい人には、頭がいい人なりの意識状態があり、毎日を健康で文化的に過ごす人には、そういう意識状態がある。

村上春樹氏は、世にいる天才、達人と呼ばれる人と同様に独自の「変性意識生成の技を持っている」のではないかと思う。ほとんどの人が眠ってしまうような深い変性意識・トランスの中で文章を生み出すと同時に読者に強い変性意識を引き起こす文章を生み出す。読者は彼の作る可能世界の臨場感に引き込まれる。目の前に広がる可能世界に目を開くということは、少なくとも現状の世界以外の世界に対して強い臨場感を持つこと。小説という、紙に印字された色もにおいも音もないbit数の少ない文字情報で、その世界に没頭し感情移入し笑ったり怒ったり感動したり涙を流すという生理現象まで引き起こし情動が深く揺り動かされるのは、村上春樹氏の文章による変性意識が引き起こしているのではないかと思う。

 

村上:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなくちゃいけないと言うんですよ。

柴田:三者協議?

村上:三者協議。僕は「うなぎ説」というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人だけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。

柴田:はあ。

村上:いや、べつにうなぎじゃなくてもいいんだけどね(笑)。たまたま僕の場合、うなぎなんです。何でもいいんだけど、うなぎが好きだから。だから僕は、自分と読者との関係にうまくうなぎを呼び込んできて、僕とうなぎと読者で、三人で膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ち上がってくるんです。

柴田:それはあれですか、自分のことを書くのは大変だから、コロッケについて思うことを書きなさいというのと同じですか。

村上:同じです。コロッケでも、うなぎでも、牡蠣フライでも、何でもいいんですけど(笑)。コロッケも牡蠣フライも好きだし。

柴田:三者協議っていうのに意表をつかれました(笑)。

村上:必要なんですよ、そういうのが。でもそういう発想が、これまで既成の小説って、あまりなかったような気がする。みんな作家と読者のあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりがおこなわれていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。そうすると「お文学」になっちゃう。

 でも、三人いると、二人でわからなければ、「じゃあ、ちょっとうなぎに訊いてみようか」ということになります。するとうなぎが答えてくれるんだけれど、おかげで謎がよけいに深まったりする。(・・・)

柴田:で、でもその場合うなぎって何なんですかね(笑)。

村上:わかんないけど、たとえば、第三者として設定するんですよ、適当に。それは共有されたオルターエゴのようなものかもしれない。簡単に言っちゃえば。僕としては、あまり簡単に言っちゃいたくなくて、ほんとうはうなぎのままにしておきたいんだけど。(☆4)

上記は、研究者・翻訳家の柴田元幸さんとの対談の引用だがこの文章を読んでも、村上春樹氏が、変性意識生成の達人であることが分かる。本人が深い変性意識に入りそこで見た可能世界をそのまま記述しているように思える。(可能世界とは、複数の世界を指し複数ある可能世界の1つを「現実世界」と呼びそれぞれの可能世界で論理式は真理値持つ世界。)

ここで記された“うなぎ“も“羊“や“鼠“のように我々の知る土用丑の日のうなぎでない可能性があり、可能世界の使者であり、可能世界のリジッドディジグネーターに指し示された村上春樹氏本人なのかもしれないし、それすら考える必要は、ないのかもしれない。。。

小説の醍醐味の1つは、変性意識状態・トランスに入ることではないかと思う。
ゴジラの小説を読み、「あんな怪獣は実際にいないし、、、、」となったら何も始まらない。現実では起こり得ないことを、当たり前のようにありありと想像できて受け入れられてしまうのは変性意識の深さによるものでありその意識状態を楽しむことが小説を読む喜びの1つだと思う。

村上春樹の小説を読み、性格が変わるというのも読書をきっかけに変性意識・トランス状態に入り現実だと思っている世界が揺らぎ、複数の可能世界の垣根が揺らぎ、認知不協和が起こり、習慣や行動性向や信念が揺らぐもしくは破壊されるからでないかと思う。

そう考えると天職とは職業のことではなく、意識状態のことであり、東浩紀氏が言う『神っている状態』のことだと思う。

ランナーズ ハイのように、肉体的に自分を追い込むと、あるラインを越した時にいくらやっ ても疲れない状態、その意識状態に行くための道筋がスポーツや格闘技であることもある。

だから、村上春樹の小説を、「ポストモダンのなれの果て」、「何時までも自分探ししているのか」と批評することは無意味ではないがあまり意味が無く、村上春樹氏がどのような意識状態で小説を紡ぎ出したのかと言うことの方が本質ではないかと思う。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」この有名すぎる言葉、『風の歌を聴け』の最初の一行目。まさに冒頭の冒頭で村上春樹が言っているのが、一人一人違う可能世界を見ているので、宇宙人よりは共有出来る程度でその完璧さを共有することはできないということなのではないか?

☆1 『羊をめぐる冒険』村上春樹  講談社、1982年

☆2 芥川賞作家川上未映子が、村上春樹にインタビューした『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社、2017年、25頁

☆3 『M2:思考のロバストネス』宮台真司、宮崎哲弥 インフォバーン、2005年

☆4 柴田元幸編役『柴田元幸と9人の作家たち』アルク、2004年、278〜279頁

 

 

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