過去の再生塾の講師の方々の課題内容を拝見し、それぞれの方が、より広く「使える」方法を選択し、技術的な水準で明確に抽出されているという、高い洗練に感服いたしました。
 翻って私自身は人文系の専門教育を受けたことがなく、独学、ヤクザのちゃんばらでやってきたので、はたして手際よく「批評の方法」を提示できるのか、といささか心配ではあります。

 そこで、私が持ち続けている「批評」の核のようなものを提示したほうがよいと考えました。それは大まかにいえば、感情をめぐる議論です。
 そこを起点にして、マンガ読者である「この私」が、マンガの登場人物にどのように同化し、単なる線の集まりにすぎない図像が「自意識」「内面」をあたかも持っているかのように感じられるプロセスをつぶさに描写していくという、夏目房之介から泉信行、岩下朋世へ流れる「マンガ表現論」の方法を確認するもの……ならばできそうです。

 先に批評に向かう「核」、すなわち感情をめぐる議論を提示するのは、ひとつには、この「表現論」が、戦後ストーリーマンガという、その実かなり限定された範囲でのものに根差していることに対し、それをどういう形で普遍へと開くかという模索も考えているからです。もっとも、そのように模索するのであれば、三輪健太朗が『マンガと映画』で行ったように、映画や絵画などとの接点や差異を見出しうる水準を精密に検討することで、より大きな「近代の視覚表現」としてのマンガ、という視点を得るというやり方が本道であるでしょう。

 一方、「感情」の水準を見ようという態度は、ともすれば稚拙・素朴とも受け取られるようなものです。しかし、いまの日本のマンガ読者の多くが、程度の差こそあれ「じぶん」を登場人物たちに重ね合わせるような、「共感」に従った読みを行っていることも考え合わせると、やはりこの回路から議論を普遍へと開く、控え目に言って開こうとすることはできるのではないかと考えています。

 ここで、キーとなる考え方として、いわゆるストーリーマンガ表現を、諸記号の比較的簡素な組み合わせによる「感情の形式化」であるというアイディアを提示しておきます。

 「形式化」である以上、それは操作可能であり、複数の感情の並列的な提示や、コンフリクトといったものも、諸記号の形式的な操作で立ち現れます。フキダシに複数の形式があり、音声による発話、発話によらない内語の区別がつけられ、さらにその内語にも複数の形式が用いられ、その使い分けが「心」に表層と深層があるかのように見せているという例がわかりやすいでしょう。図はそれをなかば模式的に表したものです。マニュアルどおりの言葉しか発してないコンビニのアルバイトが、心中では悪態をついているという場面です。

図1(作成:伊藤剛)

 彼の悪態は「内語」で表現されていますが、フキダシの形式が変わることによって、読者に与える効果も変わります。上段のフキダシ(あぶくのようなしっぽを持つフキダシ)では、彼の悪態はその場の客に向けられたものであるかのように読まれます。それは、このフキダシがコマに従属する形式のものであり、その内語が属する時間は、「あるコマとその中に格納された絵によって表現されている時間」に収まってしまうからです。
 一方、中段と下段のフキダシはその限りではなく、複数のコマの上に重ねることもできる形式です。ゆえに「あるコマ」の時間に従属するとは限らない。コマと絵によって示されている時点よりも未来のある地点でなされた「語り」にもなりえます。すると、とくに下段のもの(や、ここでは示していませんが、コマに直接置かれた言葉のようなもの)は、「ある時点」のその場で発生した「ある客」への悪態だけでなく、「コンビニバイトの接客仕事」それ自体への悪態といった様相を帯びてきます。さらにいえば、そのようなバイトに明け暮れる自分自身の人生への悪態といったこともあるでしょう。「語り手の声」であり、同時に登場人物の内語であるというものであるならば、それはコマと絵で表現されるテキストのすべてを吊るす位置にすらなりえるからです。
 フキダシの形式による内語の階層性は、このように、コマの連続との関係によって形式化されています(ここでいう「形式化」が、フキダシの形状によって区別されていることを言っているのではないのは言を俟たないと思いますが)。

 こうした表現は、目に見えず、複雑で動的なものとされる「心」の形式的な可視化にほかなりません。さらに、この操作は「心」なるものを、あたかも表層から深層へと層状に重なる階層的な秩序を持った、分節されたものであるかのようにみせています。このことは、いわゆるストーリーマンガの表現上の特性のひとつと見なしえるでしょう。また表現の形式が主題を引き寄せるといった考え方から、マンガ作品を分析する手掛かりともなります。

 私は過去にこうした観点から岸本斉史『NARUTO』を題材に論考を書いたことがあります。
 そこでは「内語」と呼ばれる、発話されることのない「心の中の声」について着目しました。『NARUTO』は、少年マンガとしては「内語」の多いマンガです。かつ、二つの特徴を有していると解釈しています。
 ひとつは、仮に「忍法的世界」と呼んでいますが、欺き欺かれる世界であること。それは「見えるもの」ほど信用できない、そういう世界であると解釈できます。反転すれば「信じられるものは、見えないものである」ということになります。もうひとつは、自分自身に向けられた(広い意味での)愛情を否認と、その否認の克服の物語が反復されているということです。連載冒頭の主人公ナルトからはじまり、幾人もの登場人物による「愛情の否認と克服」の物語がくりかえされます。作中の、サスケが万華鏡写輪眼なる能力を得るために「最も親しい友を殺せ」という条件を課せられるくだりは、「否認=否定することで認めること」のありようを実にはっきり見せています。殺す相手の選定により「強い親密な関係で結ばれていること」を示してしまうからです。
 「信じられるものは見えないもの」世界観と、「内語の形式による感情の階層化」は、マンガ表現において「内語では原理的に嘘がつけない」という一点で直接結びつきます。内語は物語世界中では内語の主体以外の人物には伝わらず、内語の主と読者の一対一の関係を切り結ぶからです。「自分をだます」といった欺瞞は可能ですが、意図をもって「だます」ことはできません。つまり『NARUTO』においては、「内語」は最も信用できるものです。しかもそれが階層性を持っているとすると「より深層のものほど信用できる」となります。
 そして、このことと「愛情の否認とその克服」という主題を合わせるとどうなるか。自分が愛されていること(より正確には、すでに愛されていたこと)を認めることにより、カタルシスが訪れ、その登場人物は「成長」する、よりよき状態へと不可逆的に変化をします。
 「否認」が行われているさなかにあっては、その登場人物の心中(意識)では、「愛情の存在」は、より「見えないもの」となっています。ゆえにそれはより「深層」に位置することになるでしょう。すると、一人の人物の心中において「深層」にある感情が「表層」に近い感情に打ち勝っていくという図式を見ることができるでしょう。
 もっとも、それが必ずしも内語の形式のちがいをその場面場面で利用して描かれるとは限りません。しかし、内語の形式のちがいを利用して表現することは可能です。極論をいえば、形式さえ踏襲していれば、あたかも作者が自分の感情をじゅうぶんに込めてキャラに「魂」を宿らせたかのように振る舞うことも可能なのかもしれません。

 一方、もちろんのこと、このような形式的な可視化とそれによる分節、階層化は転倒をもたらします。私たちが日常生活のなかでそれぞれ持っている「心」とは、分節され、階層化されており、マンガはそれを反映しているにすぎないという認識がその「転倒」です(マンガの「読み」の経験と慣習のみがこのような認識を導くのだ、とは主張しないでおきましょう。そのような「マンガの特権化」は慎むべきです)。

 課題は、ふたつ用意しました。

【課題1】
 上記のような、フキダシの形式的な違いを利用して、感情のコンフリクトを作劇すること。具体的には、シナリオの指示に従い、B4用紙横を二つ折りにし、見開き2ページとして用い、鉛筆描きの「ネーム」を作成する。この課題は東京工芸大学マンガ学科二年生後期「マンガ基礎演習Ⅳ」の演習課題ほぼそのままである。絵を描くことを不得手とする者は、「球ちゃんマンガ」を利用し、セリフとフキダシの形式はしっかり描くこと。

■シナリオ
 登場人物は男女二人。Aは女性、Bは男性。
前回同様、Aを年上の女性、Bを少年という想定で書いてみたものだが、大人同士、同性同士にしてもよい。その場合、セリフ(口調)はアレンジしてよい。
———
A:「家族……だから」
 
いや、それは考えてもみないものではなく、Aが心の底でずっと思い続けてきたものだった。
 
Aは、言ってしまってから、それに気づいた。
B:「俺が かぞく?」
 
Aはさらに続ける。口が勝手に動く。自分でも驚くほど力強く、Aは繰り返した。
A:「家族だからっ!!!」
 
←ここまでが今回の課題で描く見開きページの前に描かれていると想定。
 ページがめくられて今回のシナリオに入ります。
———
たたみかけるようなAの言葉に、気圧されたB。
 Bの目に涙が浮かんだ。だが、Bの口をついて出た言葉は、Aを責めるものだった。
B「……何を言ってんだかわけわかんねえ」
 B、いざ口をついて出た自分の言葉に興奮した様子で、さらにAを強く責める。
 Aは無言で涙を流しながらそれを聞いている。
B「――――――――――!」(Aを強く責める言葉)
 Bはさらに言葉を続けた。いずれも、Aを強くなじるようなものだ。
B「―――――――――――!!」(さらにAを強くなじる言葉)
 ※これらの「BがAを責める・なじる言葉」は各自で考えてください」


ここでBが口に出して言うセリフとは……
 
「Aが自分に向けている強い愛情を受け止めて、
 
本心ではそれを喜んでいるが、しかしその『嬉しい気持ち』ははっきり意識には上らず
 
(内心では薄々気づいている)、
 
Aに対して怒りや蔑みのような感情(のようなもの)に意識が支配されて口をついて出てくるもの」です。
例:「親みたいにふるまってみたいってか?」「じゃあやっぱりあんたあの親父と同じってことだよね。最低だよ」


同時に、Bは自分の口をついて出る言葉に対し、自分で戸惑っている。
B(内語-1)「こんなこと」「俺はこんなことを言いたいんじゃない」「やめろ」
 しかし、葛藤しつつも、口をついて出る言葉はさらに激しさを増す。
B「――――――!!!」
 ついに、Aに対して激しく傷つける言葉を吐いてしまう。
B(内語-2)「だめだ」「言っちゃいけないことを………言ってしまった!」「どうしよう」


ここで、Bの心の中に生じる戸惑いを「内語」で表現してください。
「内語」であることを表すフキダシの形式は各自で判断してください。


<場面転換+時間経過>

翌朝。二人の激しいやりとりから一夜明けた朝。
二人はまた同じ場所に来る(学校なのか、職場なのか、地域の何か等なのかは各自で設定してください)。
Aの姿を認めるB。目があう。
A「……おはよう」
一瞬どぎまぎしつつも、黙って会釈をするB。
<ここまで>

※シナリオ(文章)では、Bのセリフがまとまってあって、しかる後に内語が登場するという順序になっているが、マンガでは、Bがセリフを発話すると同時に、彼の心のうちに内語で表される考え(=心の中の声)が現われる。

 

【課題2】
 「感情の階層性」は、より正確には、諸感情の宿る「場」の階層性である。つまり、たとえば「嬉しい」という感情が一意的に「悲しい」よりも深層に位置するという意味ではない。感情それ自体は入れ替え可能である。一方、こうした「階層性」と、より深層≒見えないものこそが「信じられるもの」「価値を持つ」とするモデルを受け容れ、さらに敷衍するのであれば、批評は「テキストに描かれていないもの」を見出す方向へと導かれることになる。
 これは不断に「誤読」へとつながる道であろう。テキストにない場面、描かれていない心情を評者が勝手に想像し、それについて論じることが、どれだけ許されることなのか、批評と呼びえるのか? という「批評の臨界」に直面する。
 ここでは、あえてその「臨界」に挑んでみたいと考えている。こうしたエクササイズの場でないとできないことと考えたためである。

 具体的には、藤子・F・不二雄の短編作品『老雄大いに語る』と『コロリころげた木の根っ子』のどちらか(あるいは両方)を題材に、ここに登場する夫婦が「きわめて強い愛情によって結ばれている可能性」を想定したとすると(作品のネタバレを避けるために詳細は記さないが、この想定は、常識的な考えではきわめて難しい、あるいはポリティカルな問題を大きく孕んだ「読み」である)、どのような読解が可能であるか、あるいは不可能であるかについて論じること、が課題である。

課題提出者一覧