昨年の「映像」に続き、今回、わたしの課題は「映画」です。以下の課題を提示します。

「映画・映像作品を何かひとつ取りあげ、自由に批評文を書いてください。ただし、その対象となる作品のそなえているさまざまな特徴的要素(物語構成、映像表現、演出などなど……)を、自分が書いている批評文の論述や文体としてできる限り模倣して書くこと」

 わかりやすくいえば、たとえば、小津安二郎の映画を批評する、クリストファー・ノーランの映画を批評するとした場合、その個々の作品自体の分析や論述をすると同時に、前者ならばローアングルや冗長な台詞回し、後者ならばパズル的なプロット、ノワール的な語り口……といった作家や作品の指標的な作風(スタイル)を、そのまま批評文の語り口(形式)として「擬態」して書いてほしい、ということです。

 振りかえれば、第3回の大澤聡さんの課題は「批評家」への擬態、第4回の五所純子さんの課題は「作中人物」への擬態と、今期の批評再生塾の課題は、どこか「擬態」への志向に彩られているようにも見えます。小林秀雄の、「批評とは他人をダシにして自分の夢を語ること」うんぬんというよく知られた言葉にもあるとおり、もとより近代以降の批評とは多かれ少なかれ「擬態」(ハッキング)の知としてあったわけで、こうした課題はまさに批評再生の本道ともいえるでしょう。しかし、映画や映像を主題とする今回は、この課題の趣旨について、もう少し固有の文脈を提示しておきます。

 じつは今回の課題について、わたしの念頭にあるのは、かつて80年代に蓮實重彦がやっていた、ある「教育的」な実践です。たしか柄谷行人との対談書『闘争のエチカ』だったと思うのですが、まさにそこで蓮實は自分の主著の文章は、それぞれある具体的な映画のスタイルを模倣して書いたのだと打ち明けています。たとえば、『表層批評宣言』なら50年代の犯罪活劇、『凡庸な芸術家の肖像』ならグリフィスのスペクタクル史劇……といった具合に。この批評家ならではの何とも露悪的な「芸当」ですが、たしかに実際本を読んでみると、じつにみごとにそれらの映画のスタイルや構造を――それぞれの著作の内容ともリンクしつつ――「擬態」していることがわかり、率直に驚かされます。

 もちろん、映画作品の形式や構造を擬態して批評文を書くことは、それ自体、その作品の構造やスタイルの(実践的)把握、自分の固有の分析アプローチの相対化、レトリックの鍛錬……など、批評家として必要な分析眼やスキルの向上にも役立つでしょう。

 しかしそれ以上に、ここには「映画批評」というジャンルそのものがはらんでいた可能性の復権=再生という目論見もかかわっています。繰りかえすように、近代以降の批評が、言葉=思考による言葉=思考の「擬態」を眼目としていたのだとして、その場合、映画批評とはまさに、言葉=思考による映像の「擬態」という、本質的な「飛躍」を内に含んだものとしてありました。だからこそ、かつての映画批評(の一部)は、スクリーンに生起する映像体験を言葉=思考によって構造化することに、ある種の「倫理的」な基盤を見いだしていました。たとえば、蓮實の『シネマの煽動装置』は、とりわけイメージの運動性の忠実な模倣をパフォーマティヴに試み、その試みの不/可能性それ自体において「映像を語ること/考えること」の可能性を拡張しようとしてきたのです。

 ……ともあれ、翻って近年の「食べログ化」した映画批評やレビューの文章では、こうした試みはほとんど雲散霧消してしまっています。そこでは映像体験も言葉=思考も、フラットな「情報」に還元されるばかりです。ただ、ディジタル時代になったからといって、第一に言葉=思考と映像との乖離がいまなおあり続けている以上、また第二に、映画や映像が総じて「身体的」なメディアである以上、そこには現代にふさわしい「擬態」の作法が生まれているかもしれません。

 ぜひ、魅力的な「擬態」を見せてください。

 なお、取りあげる作品については、映画に限らず、テレビ番組からアニメ、ゲーム実況やVineなどのネット上のコンテンツにいたるまで、何でも可とします。ただ、ソフトレンタルを中心に、現在、容易に鑑賞可能な作品を選んでください。また、文末に、「自分がその作品の「擬態」しようと思ったポイント」を1点だけ簡単に明記してください。

課題提出者一覧