“自由で新しい批評”なんて惹句を見かけます。批評は自由であるべきだし、いくらかは新しくあるべきだ。わたしもそう思います。けれど、何からの「自由」なのか。既存のスタイルや暗黙のコードからの解放=自由でしょうか。だとすれば、そのへんに転がっている身辺雑記ブログとどこがちがうのか。もちろん、ブログにも良質の批評の種は胚胎しています。でも、あなたが書きたいのは日常のあれやこれやに気の利いた寸評を与えて溜飲をさげるようなブログのエントリなどではないはず。では、あらためてあなたが書こうとしている批評とは何なのでしょう。この問いに答えを出す前に、わたしからの課題に着手していただこうと思います。

《任意の作品を自由に論じなさい。作品のジャンルや数は問わない。ただし、叙述にあたって、『ゲンロン2』所収の「【年表】現代日本の批評1989-2001」に記載された固有名群から1つを選択し(批評方面の人名に限定)、当該人物の批評文がもつ文体や構造をあたうかぎり模倣すること。また、どの人物を選択したのかがわかるよう文末に註記すること。》
*「模倣の達成度」と「分析の魅力」との2点で採点し、総合的に評価する。

「新しい」批評はオーソドックス(正統)な批評のバリエーションの海に沈潜した先にしかありえない。少なくともわたしはそう思います。ですが、いまや、その正統たちがつい最近までどこにあったのかさえすっかり忘却されてしまっている。歴史も文脈も蓄積もゼロの地平でいわば批評モドキが跋扈する。そんな泥梨のごとき光景を再審にふし、ほんとうの批評を再生すべく、「現代日本の批評」というプロジェクトは立ちあげられたわけです。
丸山眞男は断言しています。スクールの任務とは「型」を教え込むことに尽きると。わたしの担当回では、“批評の「型」”について考えていきます。トレーニングの早期段階で「型」を自覚する工程は不可欠ですから。水準はともかく、ここを越えないことには先はありえません。

課題提出者一覧