スマホで世界はバラバラになってしまった

ubiquitous

  • (同時に)至る所にある[いる]。偏在する。時空自在の。
  • ユビキタスの《情報ネットワークにいつどこからでもアクセスできる環境》

 

第一章「注目」、あるいは神の領域

 

言うまでもなく筒井康隆『モナドの領域』は注目の小説であるが、それは何も小説家として50年を超える歴史を持った大作家が、「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」と自認しているからではない。確かにこのキャッチフレーズで同作は大きな注目を集めたし、 それが一挙掲載された初出の『新潮』が異例の重版となったのは記憶に新しい。しかし同作の内容を読むとその現象すら、現実と作品とを同期させるために仕掛けられた、作家によるパフォーマンスだったのでは無いかと思えてくる、それほどに『モナドの領域』は「注目」の小説である。そのテーマは冒頭一頁目から現れる。

「上代さん」真一より二歳若くて背の高い捜査一課の杉本刑事が、初めて逢うような表情でしげしげと近づいてくる彼を見た。よく見知っている他の警察官たちも似たような眼で真一を見た。

『モナドの領域』は、人目をひくほど眉目麗しい警部の登場から始められる。この書き出しから読者――とりわけ作者の前の長編『聖痕』を既読の者――は、人間離れした美しさを持つ男を主人公とした、美男物の小説を想定する。しかし(語り手と読者を含んだ)人々の眼は次の頁で、別の対象へと移される。バラバラ死体の一部と思しき切断された女性の腕についての鑑識の台詞が、ほぼ二頁にも渡って続くからだ。注目の対象が切断された腕へ切り替わることで、物語は探偵物の様相を呈する。さらに少し読み進めると、その腕にそっくりの形をしたパンを焼く男が現れるのだから、その印象はより強まるだろう。パンへと姿を変えた腕はショーケースに入れられ、客達の注目を集め続ける。やがてそのパンは新聞に載り、店の看板商品として複製されることで、注目の眼差しは世間へと広がる。注目の対象の推移とともに、物語は腕とパンの、死体とパン屋の関係を巡る、ミステリーへと姿を変える。
かに見えた物語は冒頭四分の一を境に、その予想とは異なる方向へと舵を切る。注目の対象が再び変わるのだ。そのパン屋の常連である老紳士(パン屋を新聞紙面で紹介した美大教授)が、奇矯な振る舞いを見せ始める。彼の表情からは感情が抜け落ち、眼は常に宙を漂うようになる。彼は大学へ行かず、公園に出向き、そこにいる者の名前や、本人しか(すら)知らない情報を言い当て始める。そして彼は、神を――正確には「神などよりずっと上位の存在」を名乗る。当然、全知全能であるらしい彼の言動に人々は注目し、翌日から公園は集会の様相を呈する。マスコミも訪れる。注目の対象が、腕から老教授に移った。そして以降、小説はこの老教授――の、体を借りた神「GOD」を主人公として展開し、美男子、腕も、パンも、人々に忘れられたかのように、結末部まで見向きもされなくなる。
このように『モナドの領域』では、人々の注目の対象の変化とともに物語に変転が訪れる。つまり同書の読者は、作中で人々が注目しているものに、その視線に同調するかたちで注目することになる。そしてその眼は、「GOD」へと収斂して落ち着く。
だがこれは、未だ全体の三分の一までの変遷にすぎない。「GOD」はその後、自らに注がれる眼目の数を増大させるように行動し始める。公園の集会で彼は故意に傷害事件を起こし、法廷に立たされる。その法廷において動機を聞かれた彼は、「この法廷に立つためだよ」と答えるが、なぜ法廷に立とうとしたのかまでは「今は言えなくても〔……〕見てればよろしい」と明言されない。彼によれば、それを言えば「モナド」=世界のプログラムが崩れてしまうからだ。そこで後の展開を「見て」みると、文字通り注目すべきことが起こる。それは自身が神以上の存在であることを示すための「超自然的現象」を起こすよう要求する検事に、「GOD」が応じた直後のことだ。

「よろしい。今すぐに起ることであれば予言したとしてもモナドは壊れない。〔……〕今から四十二秒後に起ることを教えよう。この法廷のうしろのドアが開いて、ひとりの男が入ってくる。この男は別の取材のため開廷に遅刻した新聞記者だ。彼は中央の通路を三歩ばかり進んでから、突然立ちすくんでしまう」
「えっ。なんで立ちすくむんですか」
「まあ、見ていればわかる。あと四秒だ」
GODが背を向けている法廷のドアが開いて、遅刻した記者が急ぎ足で入ってきた。中央の通路を三歩進んでかれは立ちすくんだ。法廷中の人間の視線が自分に集中していたからである。

あまりに示唆的な場面である。ここでは「GOD」の「超自然的」な能力と、「人間の視線」の操縦が不可分であることが示される。実際、この「予言」は公園の集会から彼に注目していたマスコミによって大きく報じられ、さらに衆人の眼を集める。その結果として彼をメインゲストに招いたTV特番が決定し、それらの報道は「列島全体」を「熱気に包」むにとどまらず、「バチカン」を始め「世界中の教会や寺院、その他宗教関係団体」を「大騒ぎ」に巻き込むだろう。いまや、世界中が「GOD」に注目している。この経緯を追えば「この法廷に立つ」動機は、それを踏み台として更なる人々の注目を集めるためであったことが読み取れる。
だがしかし、その動機の解決は新たな疑問を生む。今度は「GOD」がそこまでして人々の目を集める動機が不明だからだ。彼は法廷やTVを通じて、トマス・アクィナスを代表とする神学・哲学の解釈を開陳するが、その目的が宗教団体を作ったり、信者を増やしたりすることで無いのは、本文中で繰り返されることだ。彼は人々の信仰にかかわらず存在する、「在るところのもの」なのだから。一方で、彼は人類を救済するために現れたのでも無い。彼は戦争や災害といった悪も「モナドに組み込まれている」以上は真であり、したがって善であるとし、人類の「絶滅は実に美しい」とすら言い放つ。
注目の意味というこの問題は、『モナドの領域』における最大の謎と言ってよい。「GOD」の最終的な目的自体は物語の最終盤に、あの美貌の警部に明かされる。『モナドの領域』の世界が他の「可能世界」と干渉を起こしており、このままではこの世界は恐慌の果てに破滅に陥るから、その綻びを繕いに来た、というものだ。同時にあの腕が、他の可能世界からやって来た、この世界には存在しない人物(別の世界の同じパン屋で働いていた女性)の腕であり、その世界間移動が綻びの始まりであったことも語られる。冒頭で提示された注目の対象が、ここでもやはり「GOD」によって束ねられる。しかし注目を引くという「GOD」の行動が、なぜその綻びを繕うことになるのかという点だけは、全く明かされない。「一連のGODの行為はすべて隣接する可能世界との、破られた接点を縫合するという作業の一環だったわけですか」という警部の問いに、「一環ではない。作業そのものだよ」と答えた「GOD」は、「そうしたことが、縫合になるんですか」という追問を、その因果関係は「神の数学に通じていなければ理解できない」と退けてしまうのだ。一体なぜ「GOD」は、人々の注目を集める(ことで世界間の干渉を防げる)のか。
手がかりは、ある。作中には一度だけ、明確な歴史改変が行われる場面がある。それはあまりにささやかなものだが、しかし見逃すことは出来ない。なぜならそこで行われているのは、注目に対立するもの、すなわち「よそ見」の矯正だからだ。

「しかたがない。では予言できることを証明しよう。今すぐに起ることであれば、予言してもさほどの不具合は起らないからね〔……〕雑木林の中のあっちの道から今、ひとりの若者がスマートフォンを見ながらやってくる。彼は芝生の柵に気づかず歩いて来て、柵に足をとられ、芝生の上に倒れ込む。見ててご覧」
それは大学生と思える小肥りの青年で、眼鏡の奥の眼を丸くしながらアップルのiフォーンを右手に、画面を見ながら公園の中央部へと歩いてきた。彼の左足が芝生の柵に触れようとする時、彼を注視していた二人の女子高生はほとんど本能的な衝動によって同時に叫んだ。
「危ない」
青年は立ち止まって柵に気づき、声がした方に向ってやや恥ずかしげな笑顔を向け、スマホを持つ手をあげた。「サンキュー」「おやおや。注意したばかりなのに、君たちは未来を変えてしまったぞ」

これは『モナドの領域』で唯一、よそ見する人物が現れる場面でもある。その場面で「アップルのiフォーン」すなわち「スマホ」が用いられていることは偶然だろうか?先の展開と併せると「GOD」は、よそ見のメディアとしてのスマホから注目のメディアとしてのTVへという、あまりに言い古された、ベタな対立構図を用いているように見えはしまいか。だが、結論を急ぐべきではない。その傍証のためには『モナドの領域』に注いだ目を離し、そもそも現実において「スマホ」がどのような特性を持ったメディアだったかを見る必要がある。作中で示唆されるとおり、この現実もまた「可能世界」かもしれない以上、その現実は『モナドの領域』に干渉を与え得るのだから。

 

第二章「よそ見」あるいは神々の闘争

 

スマートフォンを用いることで、人は神になれる。遠隔地の人物とタイムラグ無しで通信することはもちろん、相手がメッセージを読んだかどうかも即座に分かるし、ちょうど「GOD」がやってみせたように、遠く外国で起こったテロの情報もほとんどリアルタイムで入ってくる。その気になれば、五分前に缶コーヒーを買いに出た先のコンビニ店員が、どのような人間関係を持ち、どんな組織に帰属しているのかも、たちどころに知ることができてしまう、かもしれない。言うまでも無くこれらは、「SNS=ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス」と呼ばれるメディアの力である。スマホ以降とガラケー以前を比べるとき、「ソーシャル」がキーワードであることに異論がある者はいないだろう。
しかし人をより神に近づけるのは、スマホを特徴づけるもう一つの「ソーシャル」、すなわち「ソシャゲ=ソーシャルゲーム」の方である。そのことは、一体このゲームのどこが「ソーシャル」なのか、という問いに関わる[1]。無論そこでは、「フレンド」と呼ばれる他プレイヤーのキャラクターを拝借するシステムや他プレイヤーとの対戦など、社会的な要素が無くはない。しかし、それが「ソシャゲ」に不可欠かと問われれば疑問が残るし、なによりインターネットを通じた共闘や対戦は、「ソシャゲ」以前に/以上に、それらを不可欠とするゲームがあった(前者はMMO、後者は格闘ゲーム)。にもかかわらず「ソシャゲ」は、これらを差し置いて「ソーシャル」と呼ばれている。なぜか。
その理由は「ソシャゲ」の持つ、「スタミナ制」に関連する。簡単にこれを定義すれば、「現実の時間経過に比例して回復するポイント=「スタミナ」を消費してゲームをプレイするシステム」である。これはいわゆる「課金」の対象となっており、現実の貨幣を用いてスタミナを回復することができる。
つまり「ソシャゲ」が「ソーシャル」と呼ばれる理由に、貨幣を媒介に社会と繋がったままでいるから、というひとまずの答えを出すことができるだろう。これは従来型のゲームが売り切りと呼ばれること、売られた時点で社会と切れることと対照的である。
だが「ソシャゲ」が「ソーシャル」たる所以はそれだけではない。むしろ重要なのはその「課金」のプロセスの方である。そのためには、まずゲーム内で使用できる貨幣を買う「両替」を挟み、その上でスタミナを買わなくてはならない。注目すべきは、その両替後の貨幣が、非常に多くの(というより殆ど全ての)「ソシャゲ」で、「魔法石」や「精霊石」や「聖晶石」、「ジェム」、「ジュエル」、「クリスタル」といった、「超自然的」な力の結晶として表現されることだ。これらは「石」という通称で、ゲームをまたいで一般名詞化されている。
「両替」された現実の貨幣が、「超自然的」な力の結晶として表現されるのは故のないことではない。実際、「石」によって行われるのは「GOD」も真っ青の「奇蹟」である。なにせそれは時間の流れに介入し、一気に加速させることができるのだ。あるいはその力が大きく集まれば、僅か0.001パーセントの確率でしか起らない出会いを、確実に引き当てることもできる(この制度は「ガチャ」と呼ばれる)。「石」は「ソシャゲ」の世界内において、「奇蹟」を起こすための触媒となる。人はこの力を神的な力を欲望し、消費するために「ソシャゲ」に課金するのだ。
これは冗談ではない。なにせ「スタミナ制」における時間の加速は、資本主義の基本的な原理、すなわち「時は金なり」の最も純化された形の一つである。無論従来も、貨幣と引き換えに時間を購入することは行われていた(バスで6時間の道を新幹線で3時間で済ますとき、人は新幹線分の料金で差分の3時間を買っている)。しかし「スタミナ制」は、貨幣を時間の経過そのものに変換する点で一線を画する。それは時間給や利息の時間→貨幣という行程を丁度裏返すシステムとして、「ソーシャルゲーム」を特徴づけている。「ソシャゲ」が social と言われるその理由、それはそのシステムが資本主義社会 capitalist society と相似形をなしているからである。
だから上の「神的な力」への欲望は、資本という(物)神のそれである。社会学者の大澤真幸は、ビル・ゲイツのような「神のごときスーパー経営者」の存在を、資本主義という物象化された物同士のシステムの(再)人格化として解釈している[2]。資本主義において人と人との関係は貨幣と商品の交換・交流として、物によって担われる(物象化)。しかし現在、この「諸個人にとっては疎遠な抽象的なメカニズム」を、「特定の個人の才能や意図に還元したいという欲望」が生まれてきているというのだ。この「神のごときスーパー経営者」を祀り上げる欲望が、他者では無く自己に向いたとき、それは「ソシャゲ」の欲望となる。すなわち、時間⇔資本というシステムを、自らの「意図に還元したいという欲望」が、「ソシャゲ」の「スタミナ制」を支えている。無論、「それを特定の人格に帰すことは、一種の誤認」に過ぎず、システム(スタミナの回復レートやガチャの排出率)自体は決して動じることはない。「石」の「超自然的」な力によって擬似的に、人は「ソシャゲ」界の神となれるのだ。
そして先に触れた「フレンド」や対戦も、その錯覚を強化する装置としてある。他のプレイヤー=擬似的な神たちよりも、自身の方がよりシステムに介入しているという顕示の場として機能する(だから「ソシャゲ」に対する「札束で殴るゲーム」という揶揄は的を射ている)。そしてここで、各々の神々が依拠するゲーム世界自体は共通であることに留意しよう。異なるのは、その世界の中でどのキャラクターが仲間になり、どのように成長しているのかという要素だけである。言うまでもなくこれは、『モナドの領域』において考察される「可能世界」の議論に近い。「ソシャゲ」の対戦において人々は、自身が構築した世界の「可能性」を競わせているのだ。
自身を神として、独自の「可能世界」を構築すること。「ソシャゲ」のこの欲望は、もう一つの「ソーシャル」、すなわち「SNS」を構築する原理と好一対である。そこで駆動するのは、『閉じこもるインターネット』のイーライ・パリサーが「フィルターバブル」と呼ぶ装置だ。それは消費の情報が再帰的に次の消費を規定する、Web広告などのシステムの謂である。SNSで例を挙げれば、Twitter において現在フォローしている人物の情報から傾向の近いユーザーが割り出され、「おすすめユーザー」として表示される。その「おすすめユーザー」をフォローすることでフォローの偏りが増大し、ひとつの「クラスタ」=「フィルターバブル」=「可能世界」に閉じたタイムラインが形成される。スマホの二つの「ソーシャル」は共通して、その名に反して自身を中心とした「可能世界」を構築する。

以上の長い長い「よそ見」を経て、今や『モナドの領域』へと注目を戻すべきときだ。そもそもスマホの持つ「可能世界」的な性質を云々してきたのは、「GOD」が世人の注目を集める理由が、TVという中央集権的なメディアと、スマホという偏在型のメディアの対立に回収できるのかを検討するためだった。そしてその答えは、半面ではイエスであり、半面ではノーである。
確かに「GOD」は、スマホへのよそ見を矯正し、あらゆる視線を自分へと集める。カントーロヴィチやフーコーを引くまでも無く、これは前近代的な、視覚を集める権力の特徴に一致する。反対に泳ぎ続ける彼の目は、遍き場所を見ているということを示すだろう。だが「GOD」の存在は、視線の「統一」する権力の再樹立を、必ずしも意味しない。

「GOD。あなたの力でこのおかしくなった宗教全体をどんな宗教にかかわらずいったん御破算にしてしまうことはできないのですか。〔……〕何とか世界中の宗教を統一して、GOD、あなたのもとに、たったひとつにしてしまうことはできないんでしょうか」GODはゆっくりと言う。「お前さんは、そんなことはできないとわかっていながら駄々をこねている」

ここでいわれる「宗教」は直接的にはキリスト教とイスラム教の、他教徒への迫害を指す。しかし「可能世界」の擬似的な神を見てきたわれわれに、それはむしろ個人間の「可能世界」のすり合わせ、すなわちコミュニケーションの問題として映る。そして、だとすれば、その「統一」は不可能である。そのための共通の基盤は失われ、われわれは各々の「可能世界」を生きているのだから。その意味で、モナドに窓はない。
だから『モナドの領域』は、「GOD」の存在を描いた小説であると同時に、その不可能性を描いた小説である。物語のラスト、あの美貌の警部に種明かしをした後、「GOD」は人々の記憶もろとも姿を消すことになる。そして最後の一章では、「GOD」の居なくなったあとの世界が、淡々と描写される。「淡々と描写される」とは、特定の対象が注目を集めることなく、均等に描かれる、という意味だ。「GOD」の消滅とともに、特権的な「注目」の対象も消え、そこでは各々の人物たちが、自分たちの「可能世界」=モナドに「よそ見」をしている。だがそれでも、個々のモナド同士が、時折交わる様は、非常に美しく描かれる。「GOD」は自らの存在理由を、「愛」の一語に求めていた。そして自身は人々の中にも「偏在」すると。だとすればこの結末部は、非常に単純な、次のことを伝えている様に思われる。すなわち、「愛」を以て眺めれば、バラバラな世界も美しい、と。そういえばあの腕も、「何とも実に好ましい」様子でバラバラになっていたのだった。それが「絶滅」へ向かう者の美しさか否は神のみぞ知る。

[1] もともとこの呼称は「SNS上で提供されるゲーム」の意だったが、現在「ソシャゲ」と呼ばれているゲームの多くはSNSから独立している。したがってこの問いは「にもかかわらずこの呼称が用いられ続けている理由は何か」と変奏できる。

[2] 「資本主義の〈その先〉に 第4回 資本主義の〈外の神/内の神〉Part4」http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/ohsawa/04-2.html

文字数:7982

課題提出者一覧