ドラゴンクエストⅪ 迷える読者とページのめくり方

2015年7月28日、国民的RPGドラゴンクエストの新作タイトルが発表された。正式タイトルは『ドラゴンクエストⅪ過ぎ去りし時を求めて』。初代ドラゴンクエストの誕生から30年を経ようとするいま、ドラゴンクエストⅨやⅩのようなオンライン主体ではなく、一人で遊べるスタンドアローン形式を標榜している。過去への回帰としか受け取れないこのタイトルは我々をどこにいざなおうとしているのか。それは間違いなく、RPGという他に類を見ない物語形式だからこそ持ちうる読み手と物語の間に広がる解消されることのない混沌とした世界だろう。

物語の解釈ついて考えるとき、ゲーム、とりわけRPGほどそのプロセスが複雑化する物語形式は存在しない。なぜなら、RPGは解釈の前段階、すなわち物語の読みの段階において相反する2つの要請を強いられるからだ。中でも『ドラゴンクエストⅡ』は、最も多くのプレイヤーを理不尽な葛藤の中に置き去りにした作品だ。本作では、世界を救った前作主人公の子孫にあたるローレシアの王子、サマルトリアの王子、ムーンブルクの王女が世界征服を狙う大神官ハーゴンに立ち向かう。プレイヤーはローレシアの王子となり、RPG史上初となるパーティ制度によって、残る2人の勇者と世界を股に掛ける。

RPGで行われる要請の1つ目、それはゲーム内世界にプレイヤーを没入させ、まさに思うが儘に行動できると錯覚させることだ。RPGでは、プレイヤーは物語世界内の一人の人間として行動することになる。ローレシアの王子として戦い、レベルアップし、そして自由に行動することで、自分自身がローレシアの主人公に、つまり作品世界の住人になるのだ。プレイヤーに主体性を与えるために不可欠なのは、決まったテクストの読みを強制させないことだ。ゲームを始めた瞬間から、王様に話を聞くもよし、武器を買うもよし、戦闘に明け暮れてもよし。特に本作からは移動手段に船が登場し、どの島から上陸するかさえ自由に決めることができる。

その一方で、実際にはテクストの読みは常に一通りだ。一定のイベントをクリアしなければ新大陸には到達できないし、以前の物語を読み返すこともできない。それも行動としては実に陳腐で単調な作業を通してしか、物語は進行しない。例えば物語序盤、サマルトリアの王子を仲間にしようとする主人公は王子と行き違いになってしまう。その結果、プレイヤーはローレシア城からサマルトリアの城、そしてもう一度ローレシア城で話を聴き、さらにリリザの街でようやく王子と遭遇することになる。システム上ここでなされているのは、各所で「王子はもう行ってしまったよ」という単調なセリフの聴取を繰り返させることだ。RPGのテクストは、このような単調極まりない条件によってしか進行しない。スイッチのON/OFFでしかない“作業”をいかにファンタジーに置き換えるか、本質的にはあまりに粗野な物語をいかにプレイヤーが切り開く冒険活劇に見せかけるか。これが、RPGに求められる話法なのだ。

以上のような構造を持つRPGには、他の物語では起りえない可能性が1つ孕まれている。スイッチの在り処を発見できずに、物語を読み進めることができない場合だ。例えば小説を読むとき、あまりに詰まらなくて本を投げ出すことはあっても、読みたくても読めないことはめったにない。物理的に読めないのならいざ知らず、目の前の作品とめげずに格闘を繰り返しているのに、本がページをめくらせてくれないのだ!

筆者が『ドラゴンクエストⅡ』を初めてプレイしたのは、小学三年生の春休みだ。ムーンブルク城が滅ぼされるオープニング・ムービーの凄惨さや、マンドリルの猛攻をかいくぐって遂に3人のパーティをそろえた時の感動は今でも覚えている。ところが、『ドラゴンクエストⅡ』は戦闘、謎解きの両面においてシリーズ最高峰の難易度。春休みも終わりが見えてきたころ、筆者は「きんのカギ」を見つけられず、まさにページをめくらせてもらえない状況にいた。「きんのカギ」を持っているのはザハンの村に住むタシスンという犬好きの男だが、村を訪れてみると彼は既に海で魔物に襲われ帰らぬ人に。この情報から広大な海をくまなく調べても、一向に「きんのカギ」は見つからない……。やけくそになりながら昼も夜もテレビの前にかじりつき、海上で一歩ずつ「しらべる」コマンドを押し続けていたら……なおきに 135のダメージ! なおきは しんでしまった!睡眠不足による免疫力の低下による感染病、皮膚にヘルペスが発症し、一週間の入院を言い渡されてしまう。「おお なおきよ! しんでしまうとは なさけない!」読解をいくら試みても、自分の体が追い付かない。筆者が『ドラゴンクエストⅡ』を通して味わったのは、そんなしくじりだった。病床に伏しながら一人で迎える、寂しい春の始まり。しかし筆者にとっては、新しいクラスも、先生も、授業も全てがどうでもよかった。「きんのカギ」はどこにあるんだ?クリアできずじまいになったドラクエへの思いだけが、ただただ募っていった。そんな気持ちを抑えきれず、退院の日取りも見えてきたある日、入院前の状況を聞かれた筆者は担当医に全てを打ち明けた。とにかくドラクエがやりたい、「きんのカギ」を見つけるために早く帰宅したい……。これを聞いた担当医は、衝撃的な一言を放つ。「『きんのカギ』なら、タシスンの犬が吠えた場所を調べれば見つかるよ」

RPGのテクストはあまりに粗野で単調だ。前述した『ドラゴンクエストⅡ』のあらすじがまさにそれを示している。しかし、我々がそのテクストを説明する時、そんな単調なあらすじが語られることはない。医者が私に与えてくれたのはフィクションの理解に影響する、言い換えれば解釈(≒コンテクスト)の次元に類する言葉ではない。単にテクストを読み進める方法、ページのめくり方だ。筆者の経験はしくじりによって理解が深まったエピソードではない。しくじりによって始めて、フィクションを最後まで読むことができたのだ。

以上のように簡単に、純粋な読み/解釈、あるいはテクスト/コンテクストは区別できるのだろうか? RPGという物語形式は両者の区別を明瞭にしてくれる一方で、その分断線を曖昧にしてしまう。小学生の頃、帰り道で友達と交わしたゲームの話を思い出してほしい。「あのボスはラリホーを使えば簡単に倒せる!」「俺もなかなかわからなかったんだけど、ハーゴンの城で二階に上るためには『じゃしんのぞう』を使わなきゃいけないんだぜ!」これも先ほどと同じく、ページをめくる方法を語っているだけだと言えるのだろうか。ここではページをめくる行為自体に対する、プレイヤー固有の体験性(=コンテクスト)が立ち現れている。

最後に改めて、最新作『ドラゴンクエストⅪ』がいう「失われた過去」とは何なのかを考えよう。物語という異次元に迷い込ませ、自分の力でページをめくらなければならないのがRPGだ。ページをめくるという行為が異次元への入り口なら、さしずめオンラインプレイ主体の『ドラゴンクエストⅩ』は共読に例えることができる。そこでは同じ世界に没頭する仲間がページのめくり方を教えてくれる。攻略情報はたちまち流布し、誰もが難なくテクストを読んでしまう。そのためプレイヤーの視点はその後のやりこみ、コンテクストの領域に重点が置かれるはずだ。

「失われた過去」とは、このページをめくる行為そのものだ。電子書籍の登場で本の劣化や紛失の危険性はなくなり、文字通りページをめくる行為は失われた・今回の課題が示すように、これから争点になるのは解釈の領域だ。そこでは物語を読む行為は誰でもできることとして前提化されている。

『ドラゴンクエストⅡ』は自力でクリアした人はめったにいなかったという。だれもがページをめくれない苦難を覚え、世界と知識を共有することで初めて物語を読破することができたのだ。『ドラゴンクエストⅪ』はいま、失われた過去を取り戻す。それは、私たちがページをめくる苦痛そのものなのだ。

 

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