呪いが解かれる場所

日本は屈折した形で、アメリカのその影の下にある。内田樹が指摘するように、「戦後の日本外交史に一貫して伏流しているのはアメリカに対するこの「ねじれ」である」[1]

東電の社長が”スティーブ・ジョブズ式”の、カジュアルな記者会見(1)を行ったところ、福島の地元紙の記者から「今のようなプレゼンを福島県でできますか?」という質問を受けた(2)。原発事故で避難生活を強いられている福島の方々の東電に対する感情は察するに余りあるし、尤もな反発とも受け取れるのだが、仮に福島と関係がなかったとしても、日本人としては企業のトップがジョブズ的なプレゼンテーションを行うことにある種の違和感が生じて自然に受け入れられないことを、容易に否定できないのではないか。カジュアルに壇上を歩き回りながら、大ぶりなジェスチャーを交えつつ堂々と聴衆へ語りかけ、時にウィットの富んだジョークで会場の笑いを誘う、このスタイルはまさに我々がイメージするアメリカ——我々が憧れつつも、明確に自分達の国とは異なることを意識せざるを得ないアメリカの姿そのものである。記者の質問は、その違和感が「福島」という事態を触媒として増幅された結果ではなかったか。もし、アメリカ人が壇上にいて、この地元紙の記者の質問を聞いたとして、何のことか理解できないであろう。スティーブ・ジョブズを出すまでもなく、もはや30年以上の歴史を持っているというTEDにおけるプレゼンテーションのスタイルは、アメリカ的には自然な表現形式であろう。ジョブズ式の記者会見に対する反発というこの件は、冒頭に挙げたアメリカと日本の「ねじれ」という関係性の一側面を端的に表しているようにも思われる。

アメリカは明らかに日本にはない強烈なエネルギーと魅力を放つ国である。しかし、今や日本人はただアメリカに追従するということは無理でもあり、また無意味でもあることを弁える程度には自らの国に誇りを持ち、その価値を相対化して冷静に判断することができるようになっている。だからこそ、表面的にアメリカ型のプレゼンテーションを模倣したように見える東電の社長の記者会見は、全く議論の内容とは無関係な、クソリプのような質問を浴びることにもなった。アメリカに対する憧れと反発の同居は、例えば「マクドナルドのハンバーガーはまずいよね、ポテトは美味しいけど」のようなごく日常的に発する我々の言葉さえをも裏付けていると言える。内田は「「従者」の呪い」という言葉で日本人がアメリカ人に対して倫理的になることができないことを表現している。さらに内田は、日本がアメリカの実質的な軍事的支配下にあるという日米関係の「ねじれ」に対する屈辱感の解消が、「日本人の無意識の欲望」として漫画を介して戦後六十年に亘って表象され続けてきたことを前掲書において明快に語っている。その強固な構造の下で無意識の裡に醸成されてきた欲望は、例えば当時貧しかった日本が、アメリカのホームドラマや映画を通じてその豊かなライフスタイルに憧れ、それを自国での実現を目指す形としても昇華され、日本人のエネルギーとなったはずだ。しかし、そういったライフスタイルや、広い庭付きの一戸建てや、巨大なスーパーマーケットを実現したところで、当然ながらそれは昇華された=異なった形での無意識の欲望の実現に過ぎない。
アメリカに対するコンプレックスは近年一見解消されたかのように思える。しかし、表面的な生活の豊かさにおいてはアメリカと並び、日本人が自国の文化を貧相で、欧米諸国に比較して劣っているという卑屈な自画像から脱し得たとしても、実際の——屈辱感の解消への欲望を解消し得ない限り、そのコンプレックスから解放されることはない。

しかし、そんな日本人が諸手を挙げて「アメリカ」を模倣し、擬似的に「アメリカ」を創りだすことに喜びを見出し得ているのが「コンピュータゲーム」である。
『スプラトゥーン』(2015)というゲームがある。”splat”(ピシャっという音)と”platoon”(小隊)という、共に耳慣れない英単語を組み合わせて作られた造語をタイトルに持つこのゲームの、ビビッドな色遣いでデザインされたキャラクター達は、まるでピクサーのCGアニメ映画のキャラクターのように見える。そのキャラクターたちのアクティブな動きや、インクを武器で打ち出して地形を塗っていくというシンプルで大胆なアイデアは、海外発のゲームと言われても違和感はない。そう、『スプラトゥーン』は極めてアメリカ的に見えるゲームである。そこでは、日本の日本的な側面はできうる限り隠蔽されているようにさえ見える。英語圏でも販売されるWii Uのソフトであるからこそ、ゲームの国籍を意識させないように制作した、と言えばそういう理由はあるだろう。しかし、家庭用ゲームが流行りだした時期から、アメリカを強く意識したと思われるソフトは枚挙に暇がない。『スプラトゥーン』と同じく任天堂の『F-ZERO』(1990)や『スターフォックス』(1993)はアメコミ風に描かれたSFの世界が舞台であるし、『バイオハザード』(1996、カプコン)はそのまま舞台がアメリカであり、アメリカのB級映画的なゾンビ物であり、登場人物は年齢や体格までプロファイルされ、もちろん英語の名前が付けられたアメリカ人であり、作品内に挿入されるムービーでは英語を喋って日本語字幕が表示されるという徹底振りだ。ゲーム内に挿入されるムービーに外国人のキャラクターのみ出演し、時に日本語は字幕のみという演出手法は人気なのか、続編やその他様々なゲームで用いられている(3)
では、例えばそのように映画的表現に固執した『バイオハザード』が「映画」という形ではなく、敢えて「ゲーム」として制作されたのはなぜか。それは、「映画として制作する」ことは、それがアメリカの劣化コピーでしかなく、日本人のコンプレックスをダイレクトに刺激しうる選択肢だったからに他ならない。言い方を変えれば、日本人は舞台をゲームという仮想空間に移すことで、あるいはそれがゲーム=仮想空間であるという事実によって、自身のコンプレックスをフィルタリングし、その結果到達した純粋な世界で、アメリカへの狂おしいまでの憧れを存分に表現することができたと言える。プレイヤー(=消費者)としての日本人も、コントローラーというインタフェースを介してゲームの世界に没入することで、そのコンプレックスを忘れ、同様にその欲望を開放することができたのである。その仮想空間には「捩れ」も「屈辱感」も存在しない。
『バイオハザード』は後にアメリカで映画化し、映画でもシリーズ化する人気を誇っている。ポテンシャルとしてのストーリーやサバイバルホラーとしてのクオリティは、わざわざハリウッド映画を模したゲームではなく、映画としても決して遜色がないことは既に証明されている。それでも、日本は恐らく「映画」ではなく「ゲーム」を表現の場として選び続けるしかない。それは内田の言う「従者の「呪い」」の一つの現れのようにも見える。しかし、ゲームという空間において「呪い」は効力を失う。ゲームは、数ある表現のジャンルの中から唯一日本にかけられたアメリカの呪いから自由である、聖化された空間なのである。『スプラトゥーン』のアメリカ的な世界の中で、自由に飛び跳ね、イカ形態と人間形態を行き来し、インクを発射して快哉を上げるプレイヤーの分身である主人公達の姿が、あらゆる束縛から自由な存在に見えるのは恐らく偶然ではない。


(1)「机や演壇上のマイクに向かってしゃべる形式ではなかった。広瀬社長は最初から、手ぶらで立ちっぱなし。歩いて移動したり、両手を広げたり大きく動かしたりしながら持ち株会社化の狙いなどを説明し、記者の質問にも立ったままで答えた。/前方の巨大なスクリーンでは、1883年に創業された前身会社からの歴史を振り返る3分ほどの映像が、BGMとナレーション付きで上映された。スクリーン上で新しい会社のスローガンやロゴマークが紹介されるときには、映画内で使われるような、劇的な効果音が使われた。」
(2)「東電社長がS・ジョブズばりのカジュアル記者会見「その会見、福島でもできますか?」 地元紙のツッコミに会場凍り付く…」 http://www.sankei.com/premium/news/150908/prm1509080004-n1.html
(3)『サイレントヒル4』(2004、コナミ)『エースコンバット アサルト・ホライゾン』(バンダイナムコ、2011)、『メタルギアソリッドV』(2015、コナミ)など。

参考文献
[1] 内田樹『街場のアメリカ論』2005年

文字数:3569

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